月下白刃

三奈木真沙緒

#01

 月下美人げっかびじん

 初夏から秋にかけて開花する、メキシコ原産の花。別名ナイトクイーン。開花は一晩だけで、おおむね夜7時頃に咲き始め、日の出までにはしぼむ。白い幻想的な花が咲き、甘く強い香りを放つ。育てるにはいささか手間がかかるものの、花の美しさと香りと「一晩だけ」という希少性ゆえにか、愛好家は多く、日本各地で栽培されている。

 夜の間に花開き、朝の光にしおれる花。

 そのそばに――赤い血にまみれた人の体が、生命活動のすべてを暴力的にやめさせられ、横たわっていた。


     ◯


「コロシか」

「コロシですね」

 大通りから曲がった細い道に並ぶ住宅地のはずれで、ふたりの男は今さらな事情を確かめ合った。


 道に沿って10軒ほどの住宅が展開している。新築ではなく、かといって昭和ほどでもなく、そこそこに古い。道は住宅地を抜け、別の細い道へT字路を作るようにぶつかっている。左へ曲がると、林を迂回しながら斜面をのぼり、向こうの団地へ続いていく。T字路へ戻って反対の右へ進むと、林を左に農地を右に見ながらしばらく進み、大通りへ再度合流するという立地だ。

 ここで凄惨な殺人事件があったなどと、もう誰も想像できないだろう……住民以外は。死体はもちろん片づけられ、事件に関連するとおぼしき証拠物件も、写真や記録の中に収めたのちに押収されたり撤去されたり返却されたり解放されたりと、ほとんど原状復帰されている。ふたりの刑事がここを訪れるのも、実質これで3回目だ。


 沢木さわき杉道すぎみちは、伸びの早さには自信のあるあごに、もうぷつぷつと生えてきたひげの感触を指先で確かめながら、言語化不能の短い声を上げて苦った。よれよれのワイシャツにくたびれたスラックス。50代、典型的な昭和生まれのオジサンといった風貌ながら、煙草は吸ったことがないし、酒は離婚以来激減した。

「……何だありゃ」

 見咎みとがめめる口調ではない。沢木の目が一点で止まった。小さな花壇に、花のしおれた跡をふと見つけたのだ。園芸に興味のない沢木でも、何だか変わった花だな、という意識をつつかれたようだ。

「それ、月下美人ですよ、たぶん」

 沢木と捜査行動をともにしている、30歳手前の朝倉あさくら翔馬しょうまが、氏名の字面そのままの明るい声を上げた。

「ゲッカ?」

「月下美人。そういう花があるんですよ。夜に咲いて、一晩でしぼんでしまうんです。ちょっと変わった、きれいな花が咲くんで、愛好家がけっこういるんですよ。どうも、ちょうど事件の夜くらいに咲いていたんじゃないでしょうかね」

「詳しいな」

「へへへ。実はおれも、鑑識の三輪みわさんに聞いたんです」

「なんだ」

 肩を落として眉をゆがめ、全身で「聞くんじゃなかった」と表現して、沢木は視線を転じたが、新たな居場所を見つけられず、仕方なく再び月下美人を見やる。


「花に話が聞けたら、事件当夜のことを教えてくれたかもしれんなあ」

「どうしたんですか、急に」

「うるせえ。お前が間抜けたこと言うから、ガラにもなくメルヘンなことを言いたくなったんだよ」

「おれのせいですか」

 もう沢木の扱いに慣れた朝倉は、ショックを受けるどころか苦笑した。このオジサンが、ファンタジーと言うよりメルヘンと言った方がまだ理解の追いつく男である、ということも先刻承知だ。苦笑ついでに朝倉は上空を見上げた。薄い青の空に、やや濃い灰色の雲が点在している。おかげで日差しが遮られているが、そのかわり蒸し暑い。午後から雨が降る予報だ。できれば今日の現場は昼までに引き揚げたい……新たな手掛かりが得られれば話は別だが。


「念のために、もう一度確認するぞ」

「はい」

 朝倉は沢木のやり方にも慣れていて、こう言われるとすぐに手帳とスマホを取り出す。

「おい、捜査情報をスマホに入れるのはご法度はっとだろうが」

「捜査情報は入れてないですよ」

「じゃあ、そのスマホは何だ」

「調べものに使うためです。早くて便利ですよ。鵜呑うのみにするかどうかは別として」

「……近頃の若いモンは」

 時代を問わず、年配者の常套句じょうとうくとして通用するぼやきを、つい沢木は吐き出した。


     ◯


 早朝、この住宅地にバイクでやって来た新聞配達員が、道端に転がる死体を発見して、大声を上げながら横転した。無理もなかった。被害者は刃物でばっさりと斬られ、血まみれになっていたのである。


 ポケットにスマホと名刺入れが入っていたので、身元は簡単にわかった。なお財布も奪われずに残っていたので、「物盗りの犯行ではないですね」と朝倉が余計な一言を付け加えた。

「んなことはわかってんだよ」

「もう一度確認するって、沢木さんが言ったんじゃないですか」

 ぐうの音も出ず、沢木は舌打ちに似た音を小さく立てただけだった。


 被害者の氏名は岩森いわもり重明しげあき。46歳。電器メーカーの係長。住まいはこの住宅地ではなく、林の向こうの団地だ。なぜ彼がこの住宅地にいたのか、家族に確認したところ、もっともらしい理由があった。岩森は車で通勤しているが、飲み会がある日は運転を控え、バスに乗る。彼の住む団地まではバスは来てくれないので、岩森は徒歩でこの住宅地を突っ切り、大通りに出てすぐのバス停までショートカットするそうなのだ。なるほど、大通りを歩くと大回りだし、団地からはあの坂道を降りてくれば、ここまではすぐに着く。一方で、道が狭いため、車で通勤するならはじめから大通りを走った方がスムーズだろう。

 事件当夜に岩森の勤務先で飲み会があったことは、当然裏付けをとっている。岩森は特に変わった様子もなく、酒も料理も楽しんで、二次会にも参加したらしい。同僚、利用した店、死体の解剖結果に、矛盾はない。


 その夜、近所の主婦が8時頃に(「ホントはいけないらしいですけどね」と朝倉が補足した)、燃えるごみを集積所に運びこんだときには、何も異状はなかったことが、聞き込みで明らかになった。本当に変わったことはなかったかと念押ししたところ、「なんだか甘くていい香りがしたわ、花の香りだったのかしら」ということだった。

「ほーらね。月下美人て、咲き始めるとすごく甘い匂いがするそうですからね。やっぱりあの夜にあの花、咲いてたんですよ」

「なんでお前が自慢げに言うんだ」

 朝倉の余計な茶々に、沢木は顔を苦らせた。


 その後の司法解剖で、犯行時刻は夜の10時半前後ということが確定した。最終バスに乗っての帰りなら、つじつまも合う。

 凶器は刃物。それもおそらく、いわゆる日本刀のような、長さのあるもので、背後からばっさりと袈裟懸けさがけに斬られたのだろうということだ。よほど研ぎ澄まされていたのか、骨も臓腑ぞうふもやすやすと斬られ、ほぼ即死だったとか。おぞましい。凶器は見つかっておらず、犯人が持ち去ったものと思われた。日本刀を手にした殺人鬼が小さな住宅地をうろついていたのかと思うと、住人たちが震えあがるのも道理だろう。


「しかし、なんで、こんなところでやったのか」


 それが沢木には引っかかる。岩森の死体があったのは、大通りからは見えないが、小道に入るとすぐ、バイクで通りかかるだけで目に入る位置だ。住宅にもほど近い。現場の流血状態からして、別の場所で殺害されてここへ運ばれたとは考えにくかった。

「俺なら、あの林で待ち伏せするな」

 沢木はボールペンで、住宅地を抜けた先を指した。

「あそこなら、発覚が遅れるメリットがある」

「……やむなく計画変更したんじゃないですか? 待ち伏せしてたけど見つかってしまった、とか……」

「位置関係に無理があるだろう。あの夜、岩森は飲み会帰りに、バスを降りて、この住宅地を突っ切って団地へ帰る途中だった。ここから向こうへ向けて歩いていたということだ。目的地に近いところで犯人が待ち伏せしていたとして、なんでここで殺したんだ。しかも斬られたのは背中からだぞ」

「ですから、被害者は歩いて住宅地を抜けて、林にさしかかったところで待ち伏せに気づいて、大慌てで来た道を引き返して、ここまで戻ったところで追いつかれて、バッサリ……」

「俺が岩森だったら、住宅地を逃げながら大声を上げて助けを求める」

「ああ…………」

「実際にあの夜、岩森の悲鳴を聞いたという証言はない。だからといって悲鳴がなかった、とは確言できんが。しかし、叫んだなら誰かが聞いていそうなものだがな。真夜中には早いし」


 岩森は背後から斬られている。後方からの、まったくの不意打ちだった可能性は高い。岩森は悲鳴すら上げられなかったのではないか。


「それにしても、日本刀持参で待ち受けるなんて、どういう動機ですかね」

「岩森は、ごく普通の会社員だったそうだ。恩も恨みも人並みだろうな。恨みなんてものは、自覚がないまま買っているものだが……同僚から『恨まれてるだろうな』なんて話はなかったからなあ。プライベートはまだわからんが」

「通り魔、的なものでしょうか……」

 朝倉の語尾が彗星すいせいのように消えていったのは、通り魔がこんなところに来るか、という自信のなさの表れだろう。


 沢木は、ぽりぽりと首すじをかいた。


 結局、この日も聞き込みをしてはみたものの、新たな情報は出てこなかった。沢木と朝倉とは、表面上は平穏を取り戻した小さな住宅地から、雨雲に出くわす前に引き上げた。午後の情報交換の会議が行われる前に、昼食をっておかなくてはならなかった。

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