朝と地獄のあいだに
三生七生(みみななみ)
前編
大都市の駅まで電車に揺られて40分。
必死に学生時代に勉強して、面接で胸を張って言えるような課外活動をして得られたものがこの労働生活かと思うと、俺の今までの人生は就職のためでしかなかったのかと不安になる。
人に学歴を言えば褒められるような大学に入学し、サッカーサークルに精を出し、ミスコンで優勝した同級生の女子が彼女になり、就活が順調に進み、ベンチャー系の人材会社に営業職に内定をもらい、5月に就活が完全終了したところまではよかった。
それが今はどうだ。
社会人になって2年目。社内で飛び交う罵詈雑言。終わらない業務。現実的でない“目標”と称したノルマ。日の出るうちに帰れた日など、入社式以降一度でもあっただろうか。
いつも通り、電車の右側のドアが開く。まるで地獄の門だ。この門がずっと開かなければいいと何度願ったことか。
無慈悲にも、俺の後ろから雪崩のように押し寄せる人によって俺はホームへと流れ込む。ここまで来たらもう行くしかないのだ。
ホームに降りてから会社までは毎日記憶がない。どうやって来ているのかわからないのだ。うちの会社が入っているビルのエレベーターの25階のボタンを押す瞬間にようやく意識が戻る。
チン、と該当の階に着いたことを知らせるベルが鳴る。
地獄の鐘の音だと思うのはきっと俺だけじゃないだろう。
エレベーターを降り、右に数十メートルほど進むと俺のオフィスがある。
「…おはようございます」
返される挨拶などない。聞こえてはいるが返事する暇がないのか、テレアポに追われ本当に聞こえていないのか、どちらかはわからない、し、俺にとってももはやどっちでもいい。これでどうせ返されないからと挨拶をするのをやめたら俺はきっと「挨拶もできないのか」とどやされるんだろう。であればしておくほうが無難だ。
俺はいつも通り自分のデスクの椅子に座る。入口に一番近いこの席は夏は暑いし冬は寒い。下座の人間には季節さえ厳しい。あとは事務社員が席を外しているときに訪ねてきた来客は、暗黙のルールで俺が対応しなければならない。入口に一番近いから、というのは来客対応を任される理由になるのだろうか。
昨晩持ち帰ったノートパソコンをリュックから取り出し、電源を入れる。画面には「名崎」の文字が表示される。PCのパスワードも指が勝手に覚えている。立ち上がったPCの壁紙は、以前会議で決まった今期の営業目標をパワーポイントで画像にしたものだ。これを壁紙にしろというのがうちの会社の決まりなのだ。
勤怠アプリを起動させ、「出勤」ボタンを押す。ああ、また今日が始まってしまった。
仕事は行くまでが辛く、やってみるとそうでもないという話をよく聞くが、それは違う。だましだましやっているだけなのだ。今この現実を辛いと思ってしまうととても仕事を進められる状況ではなくなってしまうから、脳が必死に自分を欺いているだけだ。現に、俺はいつ何時も帰りたいと思いながら仕事をしている。
とりあえず今日一日の予定を確認する。11時から取引先の企業とWEB打ち合わせ、午後イチで求職者と面談だ。決まっている予定は2件だが、これ以外の時間は基本的に企業へのテレアポを行っている。予定があったほうが嬉しいというものだ。
11時までは特にやることがないため、テレアポメインになるだろう。電話をかける先は企業だ。俺の会社はわかりやすく言うと「転職エージェント」の会社だ。企業には「良い人材欲しくないですか?1人につき〇〇万円でご紹介しますよ」と営業をし、求職者には「この企業どうですか?あなたにピッタリだと思います!」と企業を斡旋する。企業と求職者の間に立って仲介役を担い、求職者が無事紹介した企業に入社すれば俺にインセンティブが入る、といった仕組みになっている。大手の会社だと企業側にアプローチをする担当者、求職者にヒアリングをして求人を紹介する担当者と分かれている場合が多い。しかし、うちの会社は「より求職者に合った企業を紹介できるように」というモットーから、企業側も求職者側もどちらも担当している。人手不足という名の少数精鋭が原因だろう。おかげで残業続きだ。
事務方が作成してくれたExcelを開く。それには都内にある様々な企業がリストアップされている。企業名、規模、代表の名前、業種、資本金の額など…。このリストを上から順になぞるように架電する。それぞれの企業が記載されているセルの右隣には「備考欄」があり、いつ電話したのか、何と言われたのかを電話した営業マンはそこに記入する必要がある。たとえば…「〇〇物産 7/5 求人募集予定なし」「××エンジニアリング 7/8担当者不在 7/9以降折り返し予定」などだ。先方が興味を示したり、アポが取れた場合はその旨を備考欄に記入し、その行ごと薄い水色でセルの色を変える。稀に「□□不動産 7/20 通報するぞ ガチャ切り」なんていう物騒なものまである。営業職とはこういうものなのだ。企業にかけるだけあって、基本的には丁寧にお断りされることが多い。しかし、規模の小さい会社で年配の社員が受電したときは結構なんでもありなことを言われる。
「今日は怒鳴られないといいな…」
周りの誰にも聞こえないように俺はそう呟きながら、社用スマホの電話アプリを開いた。
**10:50**
アポを取り付けていた企業とのWEB打ち合わせ10分前になったので、俺は自分のノートPCを持ってWEB会議用の会議室に移動する。ここは多くても3人ほどしか入れないような小さな個室になっていて、うちの会社で唯一1人になれて落ち着ける場所だ。ドアもすりガラスになっており、部屋の中からも外からもよく見えないようになっている。ワイヤレスイヤホンを接続し、ミーティング用のURLから入室する。しばらくすると、右下に「参加をリクエスト」のポップが出た。先方の企業だ。俺は「承諾」をクリックし、先方を会議に招き入れた。
「あ~~名崎さんどうもお世話になってます~~栗橋です~~!!」
この元気な人は前本広告代理店の人事・栗橋さんだ。おそらく40代前半くらいの人で、中堅層ならではのピリピリした雰囲気もない。口調も柔らかく、企業の人事の中では比較的話しやすい人だ。
「こちらこそ、いつもお世話になっております」
「いえいえ~、にしても最近は暑くてかないませんなあ~」
栗橋さんと打ち合わせをするときは、大体いつも少し世間話を挟んでから本題に入る。栗橋さんのする世間話は毎回長いので、いつも俺から本題を振る。
「では早速本題に入りますが…新卒の採用状況はいかがでしょうか」
前本広告代理店は新卒重視の会社だ。今年も活きのいい新卒を集めたいと、年度初めの打ち合わせでも話していた。
「いや~~それがですね…まだ予定の半数ほどしか内定を出せておらず…」
栗橋さんが少し気まずそうに話す。
「まあ、まだ8月ですからね。秋に公務員からシフトする学生や部活引退組も流入してくるとは思いますが…」
俺も立場上安心させるようなことを言わなくてはならないが、正直8月で内定者が目標の半分というのは結構厳しいだろう。新卒就活は早期化が激しく、この時期になっても就職活動を続けている学生で市場価値が高い学生はおそらくほとんどいない。
「で、ですよね…私もそう上に伝えてはいるんですが、上は『優秀な学生を紹介させろ、そうでなきゃエージェント契約を切る』しか言わなくて…」
上というのは人事部長のことだろうか。そんなに優秀な学生が欲しいなら、自社の待遇をもっと上げるべきではないだろうか。前本広告代理店は営業活動が激しい会社だ。ネット広告を売りにしている会社で、大手ではないがベンチャーすぎるわけでもない。年収例で見れば決して悪い条件ではないのだが、そこにはからくりがある。簡単に言ってしまえば、給料のほとんどがインセンティブなのだ。確かに頑張れば頑張るほど金は入る。それに間違いはないが、やることはテレアポ、飛び込み営業がメインだ。飲み会も多いようだし、全体的に企業の体質が古すぎる。令和の若者は安定志向だと以前ニュースでやっていた。そんな若者がわざわざこのような企業に進んで入るだろうか。
人材会社の人間として企業を見ていくと、そりゃあ人が集まらないわけだと納得する企業なんてわんさかある。そんな企業は自社の待遇の悪さを棚に上げ、俺たちエージェントを無能扱いしてくるのだ。
「あはは、それは困っちゃいますね…。そうですね、これからできることとしては秋に流入してくる学生に我々が訴求をしたり、求人票の内容を変えてみるとかですかね…。あとは料金かかってしまいますが別でスカウトサービスやイベントに出展するという選択肢も一応ございます」
栗橋さんはうーんうーんと唸っている。おそらく自社では何も変えず、これ以上1円もかけずに学生を集めたいというのが上の意向なのだろう。
「とりあえずわかりました…。求人票の内容を魅力的に見えるよう、社内でブラッシュアップしてみます」
「かしこまりました。求人票の内容でお困りごとがありましたらいつでもご連絡くださいね」
ありがとうございます、と栗橋さんは一礼した。栗橋さんは特に質問もないとのことだったのでいつものように形式的に締めの挨拶をしたあと、俺は「本日はありがとうございました」と栗橋さんが退出するまで頭を下げていた。
**12時**
うちの会社の昼休憩は休憩ではない。飯を食べながら仕事をしていい時間だ。テレアポをして1件でもかけた件数を増やしたいところではあるが、12時台だと先方も昼休憩の場合が多く、担当者が不在のことが多い。そのため12時台は先方に見せる資料作成など、事務作業をすることが多い。左手でおにぎりを持ちながら、俺はデザインセンスの欠片もないパワーポイントを作成している。昼休憩が明けるまでには終わらせたいな。
**13時**
朝にカレンダーを確認したのに、午後イチで求職者との面談があったのをすっかり忘れていた。俺はノートPCを持ち、慌てて午前中に使用したWEB会議用の会議室に入る。きっかり13時なので遅刻ではない。俺は安堵して打ち合わせ用のURLをクリックし、入室した。
…どうやら求職者はまだ入室していないようだ。Wi-Fiのトラブルなどの理由もあるだろう。俺はこういうとき5分は待ってみて、それでも入室が確認できなければ直接電話をしてみる。
待っている5分というのは案外長く感じるものだ。この5分でさえ俺は惜しい。なにせこの5分を有意義に使うことができれば、俺は今日5分早く帰れるのだ。うちの社員は残業数時間なんて当たり前すぎて、もはやみんな定時が何時かなど覚えていない。契約書の修整などやらなくてはならない作業があるにはあるが、作業中に求職者が入室してきたら中途半端に終わって面倒だ。下手に作業ができないため、この面談が終わったらどの業務から手をつけようかと頭の中でシミュレーションをすることにした。
**5分後**
「……来ないな」
いつも通り5分待ってみたが来ない。事前に求職者からもらっていたキャリアシートを見る。今朝も確認したが、改めて内容を見る。
花坂悠斗。25歳。新卒で食品メーカーの製造職に就き、その会社を半年も経たずに辞めている。その後約1年半の空白期間があり、現在は派遣社員としてキャリアショップで販売員をしているらしい。…正直、転職市場では価値の高い人間とは言えない。キャリアショップで頑張ったことを自己PRに書き連ねているが、前年比売上プラス○%や、社内で販売台数○位になったなど具体的な数字がひとつもない。おそらく販売員としてはいまいちなのだろう。それで次に就職を希望している業種が営業職とは…業界が変われば変わるとでも思っているのだろうか。
俺はキャリアシートに書かれた個人情報欄の電話番号を確認し、社用スマホからかける。出ないでいてくれたら俺はお前と面談予定だった約1時間を別の仕事に使えるんだけどな、などと思ってしまった。
プルルルル プルルルル
なかなか出ない。一応会社の規定で架電した際は留守番電話に切り替わるまでこちらからは切らないといったルールがあるのでそれに則る。
プルルルル プルルルル
もう6,7コールくらいは鳴っただろうか。そろそろ留守番電話に切り替わるかな。
プルルルル ガチャ
出るのかよ。
「…もしもし?」
怪訝そう、悪く言えば機嫌が悪そうな声で先方が出る。
「お世話になっております。はなまるエージェントの名崎と申します。こちら花坂様のお電話でお間違いないでしょうか?」
「そうですけど」
「本日13時から面談のお約束をさせていただいていたかと思うのですが、ご都合はいかがでしょうか」
「面談……?…あ!!」
どうやら思い出したようだ。今日の面談のアポを取ってから1週間も経っていないのに、俺の会社と名前を聞いてもピンとこなかったこいつに営業職が務まるのだろうか。
「すいません!面談今日でしたか…!!今からでも大丈夫ですか!?」
正直面倒だ。ただ、またこいつが同じことをやらないとも限らない。
「大丈夫ですよ。以前花坂様のメールにミーティング用のURLを送らせていただいたので、お手間ですがそちらから入室をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「わかりました!すぐ入りますすみません!」
花坂はそう言って一方的に電話を切った。これは珍しいことじゃない。ゴロゴロいるのだ、自分の予定すら把握できていない脳のメモリが足りない奴が。
2,3分待っていたところ、右下に「『あ』がリクエストしています」と表示が出た。おいおい、名前くらいちゃんと変えておけよ…俺との面談だからいいものの、面接だったらちょっと印象悪いぞ…。
俺は「承認」をクリックし、花坂と思しきアカウントを招き入れる。
画面がオンになり、さっきまで部屋でゴロゴロしていたんだろう、髪もノーセット、服はかろうじてYシャツを着ているがシワシワ、下はおそらく部屋着のままだろう。ヒゲも一応は剃ってるようだが。
「すみませんすっかり忘れてて!」
電話に出たときの態度こそ悪かったが、謝罪はできるようだ。そこは営業向きかもしれないな。
「いえいえ、とんでもないです。では早速ですが、今日は花坂様のご希望の条件をお聞きして、それに合った求人を少し紹介させていただきますね。面談後もこちらで花坂様に合ったものをピックアップして送りますので、今日はこういう求人がありますというご紹介の場にできればと思っています」
俺も営業向きの回答をし、遅れた時間分を取り戻すように早速本題に入る。
「では、早速ご希望の条件をお聞きしていきたいと思います。お休みや年収、勤務地など、外せない条件などはございますでしょうか?」
「そうですね、前職よりは待遇がいいところがよくて…休みは土日祝・GW・年末年始・お盆休み希望で、年収は500万とか!勤務地は東京で、職種は営業ならとりあえずなんでも!」
おいおい、お前の前職休日106日の年収300万だろ…?
「か、かしこまりました。ではその条件で一旦簡単に求人票のほう探させていただきますね」
**
「お待たせいたしました。とりあえずで探したものではありますが一度ご確認をお願いします」
花坂のメールアドレスに該当の求人票を3つほど送る。
「いかがでしょうか。3つとも年収、お休みは花坂様の希望より少なくなってはしまいますが、勤務地が東京の営業職です。基本給だけでは年収500万円には届きませんが、営業職であればインセンティブで500万円以上も可能です」
頑張ってこの条件だ。悪いが、未経験短期離職スキルなしの人間にそんな砂糖菓子のような甘い求人はない。
「うーん…もうちょっといいところないですか?俺、キャリアショップで結構頑張ってましたよ。インセンティブなんて営業なら大体どこもあるじゃないですか。基本給とか福利厚生が手厚いようなところがいいです。オフィスでタダでコーヒーが飲めるところとか!」
こいつは自分が入社した場合、企業がお前にいくら払っているかを知っているのか?人材紹介の相場は新卒中途・経験資格の有無などで多少値段が上下するが、約100万円前後だ。求職者からすると、「企業は自分を買うために100万円を払っている」と言っても過言ではない。それって正直、すごい話ではないか?エージェントを使うというのは、自分に100万円の価値があると言っているようなものなのだ。実際、100万円でうちに入ってくれるなら安いという人材ももちろんいる。だが、そういった経験資格を持った素晴らしい人材は、ワンランク上の転職サイトやスカウトサービスを使っている。うちの会社を含めた一般的な転職サービスに登録している人間なんて、基本は「そこそこ」の人間しかいないのだ。玉石混交の玉にも石にもならないような人間ばかり。
目の前のこいつだってそうだ。どうしようもない人材とまでは言わないが、優れているわけでもない。自分が優れていると思うなら、片っ端から面接を受けてみればいいのだ。転職の波に揉まれて、己の市場価値を知るといい。
「あはは、かしこまりました…。今回はこういう求人がありますというご紹介でしたので、また私のほうでご希望に合う条件の求人が見つかり次第ご連絡させていただきますね」
「はい、お願いします」
このあとは定例的に質問の場を設け、そこで「家賃補助がある会社はないのか」「飲み会がない会社がいい」などの戯言を聞き流し、面談を終え「退出」のボタンを押した。
俺はイヤホンを外し、座ったまま背伸びをして天井を見る。
こいつの求人票を探すのに、今日も残業か…。
**夕方
ピロン。
私用のスマホの通知音が鳴る。大学時代のサッカー仲間・富田からのLINEだ。
「久しぶり!最近もサッカーやってるのか?たまには飲みでも行かねえ?」
あんなに好きだったサッカーをやる暇などないし、そもそもサッカーチームを組めるほど連絡をとっている友人も減った。仕事を理由に会うのを断り続けてきた彼女には愛想を尽かされ、黙って出ていかれた。俺に残っているのは、目の前にある“目標”だけ。
「名崎ィ、お前数字どうした?」
粘っこい声がうしろからする。営業課長だ。私用のスマホを確認していたことがバレたかとドキリとする。
「え、あ、」
「ま、俺は別にいいけどよ。定例会議で今期の数字が目標に届かなかったときに俺が挙げる名前がお前になるだけだからな」
「…すみません」
馬鹿にするようにフン、と鼻を鳴らし、課長は事務所を出ていく。タバコでも吸いに行くんだろう。あんな粘着質な言い方をされるくらいなら、正面から数字数字と怒鳴られたほうがマシかもしれない。
さっききたLINEを思い返す。思えば就職してからマトモに友人と交流しただろうか。
誰かに話を聞いてもらいたい。少しでも楽になるかもしれない。
俺はスマホを太ももの間に置き、「いいよ、行こう」と返信した。
後編へつづく。
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