第6話 些細な日記
一週間が過ぎた。
シロがいるだけで、生活のリズムが変わった。朝、シロが起きると、僕たちも起きる。シロが食べると、僕たちも食べる。
「散歩行こう。」藍が毎日言う。
僕たちは三人で、雪の街を歩く。シロは嬉しそうに、あちこちの匂いを嗅いでいる。
ある日、散歩の途中で藍が立ち止まった。
「ねえ、見て。」
彼女が指差したのは、雪の下から顔を出している緑色の何かだった。
「草?」
「芽だよ。新しい芽。」
藍はしゃがみこんで、その芽を見つめた。
「生きてるんだ。雪の下でも。」
僕もしゃがんだ。小さな緑の芽。か細い。でも、確かにそこにあった。
「春が来るのかな。」藍が呟いた。
「来ると思う。」
「気温、上がるかな。」
「わからない。でも、植物は諦めてない。」
藍は芽に触れようとして、やめた。
「触らない方がいいよね。」
「うん。」
僕たちは立ち上がった。シロが吠えた。何かを見つけたらしい。
追いかけていくと、シロは別の犬の前で立ち止まっていた。黒い犬。シロより大きい。
「友達かな。」藍が言った。
二匹の犬は、互いの匂いを嗅ぎ合っている。それから、じゃれ合い始めた。
「仲良くなった。」
僕たちはしばらく、犬たちを見ていた。
やがて黒い犬は、どこかに走り去った。シロは名残惜しそうに見送っていた。
「寂しそう。」藍が言った。
「また会えるよ。」
「そうだね。」
帰り道、藍が突然言った。
「ねえ、日記つけない?」
「日記?」
「うん。何があったか、記録しておきたい。誰も読まないかもしれないけど。」
僕は少し考えた。
「いいね。書こう。」
家に戻って、藍はノートを探し始めた。やがて、埃をかぶったノートを見つけた。
「これ、昔買ったまま使ってなかったやつ。」
彼女はペンを取り出して、最初のページを開いた。
日付を書く。それから、少し考えて、書き始めた。
僕は彼女の隣に座って、その文字を見ていた。
「今日、新しい芽を見つけた。それから、シロが友達と会った。小さなことだけど、嬉しかった。」
藍はペンを置いた。
「こんな感じでいい?」
「いいと思う。」
「あなたも書く?」
「明日書く。」
それから、僕たちは交互に日記をつけるようになった。
藍が書く日。僕が書く日。
書くことは些細なことばかりだった。シロの様子。天気。食べたもの。でも、それを書き留めることに、意味があるような気がした。
ある晩、藍が言った。
「この日記、誰かが見つけたら、どう思うかな。」
「どう思うって?」
「世界が終わった後も、こんな風に生きてた人がいたんだって。」
僕は考えた。
「多分、信じられないって思うんじゃないかな。」
「なんで?」
「だって、僕たち何もしてない。ただ生きてるだけ。」
藍は首を横に振った。
「ただ生きてるだけって、一番難しいことかもしれない。特に、あの世界では。」
彼女の言葉に、僕は何も返せなかった。
その夜、僕は日記を書いた。
「藍が言った。ただ生きてるだけが一番難しい、と。その通りだと思う。前の世界では、生きることと、何かをすることが、同じだった。でも今は違う。ただ在ること。それだけを、毎日続けている。」
書き終えて、ノートを閉じた。
窓の外を見ると、また雪が降り始めていた。
でも、その雪は前ほど重くない。春が近づいているのかもしれない。
シロが僕の足元に寄ってきた。頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
藍は本を読んでいた。図書館から持ち帰った本。読まなければならないというプレッシャーなしに、ただ読みたいから読んでいる。
「面白い?」僕が聞いた。
「わからない。でも、読んでる。」
彼女は本から顔を上げて、微笑んだ。
「それでいいの。」
その言葉が、部屋の中に溶けていった。
時計を見る。午後十時。
「寝よう。」藍が言った。
「うん。」
僕たちは布団に入った。シロも、その間に潜り込んできた。
「おやすみ。」
「おやすみ。」
暗闇の中で、シロの寝息が聞こえた。それから、藍の寝息。
僕も、目を閉じた。
夢の中で、僕は歩いていた。
雪の街を。でも、一人じゃなかった。
藍がいた。シロがいた。
それから、他の誰かもいた。顔は見えない。でも、確かにそこにいた。
僕たちは、ただ歩いていた。
どこに向かうでもなく。
ただ、歩いていた。
それだけで、十分だった。
朝、目が覚めると、シロが僕の顔を舐めていた。
「起きろってさ。」藍が笑った。
僕は起き上がった。
窓の外を見る。
雪は止んでいた。
空は、少しだけ明るかった。
「今日は何する?」藍が聞いた。
僕は少し考えてから、答えた。
「何もしない。」
「そっか。じゃあ、何もしないね。」
でも、何もしないことは、何もないことではなかった。
シロと遊んで。本を読んで。料理をして。日記を書いて。
それは、生きることだった。
ただ、生きること。
それが、僕たちの全てだった。
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