第5話 手のシワに刻まれた声
2024年10月19日――朝の冷たい風が、市役所の自動ドアを無理やり開けた。
「ピンポン」という軽いチャイムとともに、私のカウンター越しに見えるのは、まだ眠りの残る子どもたちと、それを抱きしめる親たちだった。
胸ポケットには、今日も名札――青木美咲(29)窓口担当――が揺れる。
午前8時45分。開庁前なのに、すでに十組の親子が「順番券」を握りしめている。
30分単位保育の申込書をめくる音が、ロビーに小さな波を立てる。
「おはようございます。30分単位利用のご案内ですね」
私はマニュアル通りに笑顔を作る。でも、最初の一声で、マニュアルの文字がすり減る。
1 田口真奈美(34)
「10時00分~10時30分で預けたいんですが、給食代って本当に500円?」
「はい。給食代は定額で――」
「30分だけなのに?」
彼女の眉が、子どもの額に寄るのと同じ角度で下がる。私は、申込書の「料金欄」に赤い丸をつける。数字は動かない。
2 佐藤浩一(41)
「令和6年度の妊娠届、出してるはずです。現金給付、まだですか?」
「申請期限は令和8年3月30日までで――」
「まず書類を!」
私は、パソコンで検索しながら、用紙を差し出す。でも、それは「現金給付申請書」ではなく「一般育児支援申請」だった。
「失礼いたしました、入れ替えます」
男性は舌打ちし、子どもが泣き出す。ドアから吹き込む風で、用紙が一枚、床を滑る。
10時過ぎ――列が途切れた瞬間、最後尾に立っていた小柄な老婦人が、ゆっくりと近づいてきた。
白いカーディガンの肘に、銀杏の葉がひっついている。
「山田はるみ、74歳です。孫のことで……」
私は、持ち前の笑顔を引き出す。
「30分単位利用をご検討ですか?」
「ええ。でも、給食代が心配で」
私は、料金表を指差す。
「30分利用でも給食代は定額の500円になります。合計で――」
言い終える前に、彼女の手がカウンターに置かれた。
シワが、川の支流のように絡み合い、指の付け根に薄いシミが散る。
「この手で、孫にごはんを食べさせてきた。30分だけでも、顔が見たくて……でも、500円は、私の半日の食費です」
声が震えない。それが、かえって痛い。
私は、マニュアルを開こうとしてやめる。
「お孫さん、おいくつ?」
「3歳。娘は単身赴任で、朝だけ手伝ってくれれば……」
言葉の途中で、彼女の瞳が濡れた。涙は一筋、頬の深いシワを伝い、顎で落ちる。
ロビーのスピーカーから、冷房の風が「スウッ」と吹いて、涙の軌跡をさらに冷ます。
――午後、3F応援会。
村井係長が、赤いペンで資料を突く。
「青木、また誤配布か? 資料の誤字は命取りだ」
「申し訳ありません。風で――」
「風のせいにするな」
私は、頭を下げる。でも、頭の中にあるのは山田さんの手のシワだ。
中原健が、小声で話しかける。
「30分で500円、俺も納得いかない。マニュアル、作り直そう」
「作り直すのは、マニュアルじゃない」
私は、メモを見せる。
「老婦人の手の温もり――これをどうやって数値化する?」
中原は、眉をひそめて黙る。
――夕方5時、もう閉庁のチャイムが鳴った後。
「ピンポン」――自動ドアが開く音。
戻ってきた、山田はるみさんだった。
傘をたたみながら、ポケットから折り畳んだ領収書を出す。
「これ、650円です。30分で。孫、‘おばあちゃん、ごはんおいしかった’って笑ったけど……次は来れないかもしれない」
私は、カウンターの下から、応急用のティッシュを出す。
「申請書、もう一度見直します。軽食オプションとか、特別減免とか――」
「ありがとう。でも、制度は制度でしょう?」
彼女は、私の手を握った。
シワとシワが重なり、温もりが移る。
「あなたの声、忘れないでね。私の孫、10分だけでも笑ってた」
私の目の端に、熱いものが広がる。
――夜、自宅。
デスクライトだけが点いている。
ノートを開き、鉛筆で手を描く。
シワの一本一本に、孫の笑顔、500円玉、冷房の風、銀杏の葉を重ねる。
絵の下に、文字。
「窓口は政治の最前線。この手のシワに刻まれた声を、次の条例に届けるのが私の役目だ」
風が止んだ。
ノートのページが、自分の鼓動のように静かに揺れている。
明日も、朝8時45分――
私は、名札を胸に戻し、スケッチを見つめたまま、明かりを消した。
闇の中で、描いた手のシワだけが、温もりを失わなかった。
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