第6話 記憶の手紙

 辺境への街道は、冬の終わりを告げる冷たい風に包まれていた。

 雪解けの水が小さな流れを作り、馬車の車輪をぬかるませる。

 空は曇っているが、雲の切れ間から時おり柔らかな光が降り注いだ。


 私は外套の襟を立て、歩みを止める。

 遠くに見えるのは、かつて“追放地”と呼ばれた旧開拓地。

 その荒れ地に、今は再建途中の村が広がっている。

 ――王都から送られた贖罪労働者と、飢えた民が共に耕している土地だ。


(セドリックも、どこかでこの土を踏んでいるのだろうか)


 ふとそんな思いがよぎる。

 だがすぐに頭を振った。もう過去には囚われない。

 私がここに来たのは、“未来を耕すため”だ。


 村の入り口で、ひとりの少女が駆け寄ってきた。

 背負った籠の中には麦の穂が束ねられている。

 私を見るなり、ぱっと笑顔を見せた。


「あなたが……《茨》様ですか?」


「……その名は、もう使っていないの。」


「でも、みんなそう呼んでます。

 “麦を取り戻した女”って!」


 少女の声は明るく、まるで春のようだった。

 私は微笑み、手を差し出す。


「名前は、リリアナ。あなたは?」


「エルナです!」


 握った手が小さく温かい。

 それだけで胸がいっぱいになった。


 その夜、村の集会所では小さな焚き火が焚かれた。

 男たちは畑のことを話し、女たちは子供をあやし、

 笑い声がゆっくりと夜を満たしていく。


 私は焚き火のそばで、一通の封筒を取り出した。

 旅立ちの朝、テオから渡されたものだ。


「お前宛ての手紙だ。差出人は……“過去のリリアナ”って書いてある」


 封蝋はすでに割れている。

 開くと、見慣れた筆跡が踊っていた。


「もしこれを読んでいるなら、私はもう“告発者”ではないのだろう。

未来のあなたへ。

私は多くのものを失った。記憶も、名前も、愛も。

けれど――真実を語る力だけは、あなたに残した。

どうか、それを誰かのために使って。

正義のためではなく、“誰かが生きるため”に。

告発は終わりではなく、始まりだと信じて。」


 インクの滲みの奥に、確かにあの時の息遣いがあった。

 私はそっと紙を胸に当て、目を閉じた。


(過去の私……あなたが残したもの、ちゃんと受け取ったわ)


 翌朝。

 私は村の丘に立ち、新しい畑の区画を見渡した。

 凍った地面の隙間から、芽がいくつも顔を出している。

 麦だ。

 この大地がもう一度、人を生かそうとしている。


「リリアナ様ー!」

 エルナが駆けてきた。

 手に何かを握っている。


「これ、届きました!」


 差し出されたのは、一羽の伝書鳩。

 足には封筒が結ばれていた。

 王都の印――そして、見覚えのある筆跡。


 セドリックの名は、そこにはなかった。

 けれど、封筒の裏には短くこう記されていた。


「彼は静かに働いています。

麦を運び、水を引き、誰の名も名乗らずに。

あなたの言葉が、あの人の手を動かしています。」


 風が吹き、紙が揺れる。

 私は笑った。

 あの人もまた、自分の贖いを生きているのだと。


 夜、焚き火の火が小さくなったころ、

 私は手帳を開いた。

 新しい最初のページに、ゆっくりと書き始める。


「王都にて、すべての罪が裁かれた。

だが、本当の裁きは、これからの生にある。

私は今日も、言葉を記す。

記憶を失っても、心は真実を覚えている。」


 ペン先を止める。

 火がぱちりと弾け、灰が宙を舞った。

 外では雪が溶け、春の匂いがする。


 私は空を仰ぐ。

 もう恐れはなかった。

 愛も、罪も、記憶もすべて――“生きるための物語”に変わっていく。


 翌朝、村人たちが歌いながら畑に出る。

 子供たちが笑い、風が麦の香りを運ぶ。

 私は丘の上で一人、遠くの空を見つめた。


(あの人も、どこかでこの空を見ているだろうか)


 そんな思いが、もう痛みではなく、

 静かな祈りのように胸に広がった。


 そして私は、手帳の最後に一行だけ、書き加えた。


「――記憶を失っても、愛したことだけは、消せなかった。」


 筆を置く。

 風がページをめくり、焚き火の灰をそっとさらっていった。

 それは、遠い空の彼へ届く“最後の告発”であり、

 同時に“最初の赦し”だった。

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