八月のハーレー(2)

 このお父さんはいつだって自分の都合で動く。

 でも、大人だからそこは阿呆なりにちゃんと社会性があって、さっき窓から覗いていたのは、お母さんがいないか確かめていたのである。

「えー、でも」

 息子は、お父さんの誘いは嬉しかったのだが、自分のお熱のこともあって、逡巡した。第一、急にいなくなっては、お母さんも心配するだろう。

「おいおい、迷うことはナッシングトゥルーズソックスだぞ息子よ。見ろ、バイクだってあるのだ」

 お父さんは、傍らのアイドリングしたままのバイクを指差し、それはハーレーダビッドソンだった。ドッドッドッと太いエンジン音を響かせている。

「おお凄え、カッチョイー」

 息子は目を輝かせ、のこのことバイクの傍まで行ったのは、男の子は格好いいものに目がないからだ。

「高かったんじゃない?」

「もちろん現ナマ即金だ」

「どうしてこのバイクには、ナンバーがついてないの?」

「馬鹿だなあ、お父さんのスペシャル仕様だからに決まってるじゃないか」

 お父さんは爽やかに笑った。

 福山似のなかなかの二枚目である。

 でも息が少し酒臭かった。

 しかし、息子はもともとお父さんが大好きなのだし、それになんといっても、ハーレーが格好いいのだ。

 病気のことやお母さんの心配顔は吹き飛んだ。

「待っててね」

 息子は出かける支度をしに家へ戻る。

 その背中にお父さんが声をかけた。

「おい、お母さんには内緒だぞ、その、なんというか、アレだ。ソレがコレしてアレなんだ!」

 お父さんは馬鹿だった。

「分かってる」

 息子は親指をクッと突き立てた。

 どうやら、お父さんの馬鹿は劣性で、お母さんの優性に駆逐されたようである。

 息子は、いそいそとお出かけバッグに吸入器やらお薬やらを詰め込んで背負い、それから通学用の黄色いメットを冠り、最後に玄関へ鍵をかけると、小走りにお父さんの下へ向かった。

「ようしそれじゃあ行くぞう!」

 お父さんは、Tシャツの襟刳えりぐりにかけてあったレイバンのサングラスを手に取ると、格好つけた仕種でかけた。ちなみに無論、ノーヘルだ。息子は、後ろのタンデムシートによじ登り、お父さんの腰にしがみついた。

 しかし、いざお父さんがガチっとクラッチをあげ、ぶるんとアクセルを吹かそうとした、その瞬間。

「あらまあ、ちょっとお待ちなさいな、てめえは誰ですか?」

 まるで地面から生えたかのように出現したアフロヘアのおばちゃんが、二人を引きとめた。

 息子はまずい顔をした。

「ようよう、息子よ、あのいなせなオバサマは誰だい?」

 お父さんが背中越しに尋ねる。

「意地悪おばさんだ。いつもお母さんをいじめてる悪い奴なんだ」

 事実、このおばちゃんは団地のゴシップ連合の顔役で、特に若い奥様方のあることないことを言い触らす、いわば女性自身な人だった。

「ようし、そういうことであれば、きゃっほう」

 お父さんはアクセルをふかすと、どかん、躊躇なくおばちゃんをひき倒していった。

 さすがのおばちゃんも、お父さんには叶わない。

「ていうかお父さん、さすがにちょっとあれは、まずいんじゃないですか?」

「ノンノン、息子よ、社会に出たら信賞必罰だ、覚えておくがよい」

 お前がな。

 お父さんは限りなく御機嫌で(酒のせいか)、ヤン車に乗っているお兄さん方に声をかける、気が合う、しばらく一緒に空ぶかしをしながら併走する、信号待ちの時に隣の車の粋なお姉さんに軽口を叩く、にこやかにあしらわれる、苦笑いをする、パトカーと擦れ違い様にこれ見よがしな蛇行運転をする、追われる、しかしそれを振り切る……ことをし、海へ行くまでに息子は結構な冒険を堪能できた。

 息子はずっと笑っていた。

 お父さんを信頼しきっているので、あまり怖いとは感じなかったし、それにワルの仲間入りを果たしたようで、なんだか心地よかった。


 海の近くでコンビニに寄った。

 お父さんは、アイスキャンディと大小のアロハを手に取ると、「海へ行く前にここでおしっこを済ませときなさい」なんて言って、息子の手を引いてトイレに連れていき、そして息子が用を済ませている間に商品をカウンターで清算するかと思いきや、いきなり店員を殴って失神させ、ついでにレジスターの金を失敬した。

 息子がトイレから出てくると、お父さんは何食わぬ表情でさあ行こうかなんて笑って、一緒にアイスキャンディを食べながら海水浴場へ向かった。

 しかしながら息子は、エンジンをかけっ放しでコンビニの駐車場へ置いてきたハーレーが気になり、不安げにお父さんに言った。

「盗まれちゃうよ」

「いや大丈夫だ、あのコンビニの店員さんがずっと見張っていてくれるそうだ、心配は無用の助だ」

 お父さんは、やけに白い歯をきらりとさせながら、ぐわしぐわしと息子の頭を撫でた。

 空がとても蒼かった。


 海水浴場は連日の猛暑のせいか、モラトリアムな若者がうようよし、それなりに賑わっていた。さんさんと照る太陽に、白い砂浜と何よりも女の子のビキニが映え、とても眩しい。

 お父さんと息子は、海の家のロッカーに荷物を預けると、さっきのコンビニで入手したお揃いのアロハを着て、ビーチを闊歩した。

 すると「きゃあ可愛い」なんて、女の人たちが息子を指差し、したら当然、お父さんはこれ幸いにと近寄っていって、仲良く話を始めるのだった。

 それにしても、大人の女の人はどうして、ああも恥ずかしい水着を着るのだろうかと、胸の谷間を前にして息子は真っ赤になってしまうのだが、それがまた、女の人をきゃあきゃあ喜ばせるのだった。

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