万夜神酒

蟹文藝(プラナリア)

一章 出会い

 住処すみかは、大きな八幡宮のかたわらに寄り添う、小さなほこらに過ぎぬ。

 あかせ、屋根は苔に抱かれ、壁はささくれだっている。

 誰にまつられることも、祭りの折に祈られることも稀になった。

 参道を行く者の目は常に本殿ほんでんへと吸い寄せられ、誰一人として余の祠に手を合わせるものは居らぬ。


 ただ、風と月とが夜ごと我が祠に訪れるだけであった。


 だが、不思議なものよ。たった一人だけ。


 夜の静けさをいて、石段を踏み抜く男が百度の祈りを欠かさぬ。

 本殿へと黙々と往復し、帰る前にかならず我が祠の前に立ち止まる。


 そして、缶に詰められた甘酒を石の上に置き、無言のまま去ってゆくのだ。

 その所作しょさを余は何度も目にした。

 最初は気まぐれかと思ったが、百夜続き、千夜を超えても途切れることはなかった。


 彼は三十路みそじに差し掛かるほどであろうか。

 疲労にもくもひとみ、きっちりと整えられた髪、背筋を伸ばしたまま歩く姿。

 誰にいられるでもなく、おのれの意思のみで百度を積み重ねるそのさまは、神とて心を揺さぶられる。


 何を願っているのだろうか。願っているのは本殿であるため、余には願いを知ることは許されず、知るよしもない。


 ただ、毎夜繰り返される祈祷きとうを見守り、百度にいたる度に肩で息を荒く吐き、参道に立ちくす彼を眺めるのみである。


 本殿の狛犬こまいぬたちでさえ、その願いを知らぬという。もっとも、彼らは人間に興味すら示さないが。


 ―とは言うものの、本殿と祠にそなえられる甘酒がどうにも耐えられぬ。

 神といえど好悪こうおはある。


 獣の手では缶が開けられぬし、かつて一度だけ小賢こざしいからすあおって開けさせ、口にしてみたが、あの酒とも言えぬ甘ったるい味わいは到底とうてい馴染なじめるものではなかった。


 よりによって何故なにゆえこれなのか。

 油揚げや焼酎しょうちゅうならまだわからぬものを。


 その夜も同じであった。

 甘酒の置かれた岩が乾いた音を残し、男がくるりと背を向けた刹那せつな

 苛立いらだちが余の舌を走らせた。


「ちと、待たれよ。」


 その声が岩の隙間かられたとき、みずからが最も驚いた。幾百年いくひゃくねんと沈黙を守ってきた身が、なぜ今口を開いたのか。

 男が振り返る。

 闇に沈んだ参道に、白い顔が浮かび上がる。


「…誰」

 かすれた声が夜風をふるわせる。

 私は影のごとき身を祠から滑らせた。

 たましいのような、液体のような、稲荷いなりの姿。

 男は目を見開き、息をむ。


「狐?」

左様さよう。余はこの祠に静まる稲荷なり。」


 男は後退あとずさり、立ち尽くした。

 信じまいとする理性と、の前の光景を受け入れてしまった感覚とがせめぎ合っているように見える。

 私はその逡巡しゅんじゅんたのしむでもなく、ただ言った。


「その甘酒、余には合わぬ。次よりは供えぬがよかろう。」


 男は一瞬ぽかんとして、それから口元をゆるめた。

 そのみはわずかなものであったが、百度を終えた疲労におおわれた顔がほんの一時いっときやわらいだ。


「変な神だな。」

「変で結構。余は団子だんごのようが好みでな。いや、正直をもうせば、蒲鉾かまぼここそ至高しこうよ。」


 男は言葉を失ったように私を見つめ、やがて小さく首を振る。

 それでも胸の奥にかすかに光がともったのを、私は見逃さなかった。


 その夜からだ。

 男は参拝を終えるたびに私のところに必ず団子や蒲鉾かまぼこを供えるようになったのは。


 言葉少なであったとしても、言葉を交わし、「お稲荷さん」と呼ばれるたびに忘れかけていた炎のようなものが胸の中で時を打つ。


 なぜだろうか。いつしか私は彼の願いを知りたいと思ってしまうようになった。

 無論むろん、祈祷の対象になっていない者が願いを知ることは言語道断ごんごどうだんのご法度はっと

 だが、それでも知りたかった。


 この男が何をこのように身や時間を割いてまで叶えたいと思っているのか。


 幾度いくど法度はっとを破る思いで探りを入れたことがある。

 だが、彼は「あなたのような人には到底教えることはできません。」と悲しげに首を横に振るだけであった。

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