その男、童貞につき
山南こはる
前編
よくネットで『三十歳まで童貞だと魔法が使えるようになる』と言うけれど、あれは多分ウソだ。
三十歳になった朝、僕は起きぬけにまぶたをこすりながら、テーブルの上の箸に手を伸ばした。何日前に使ったか分からない割り箸。残ったカップ麺の汁に突き刺さったままの先端はふやけていていた。付着した白い綿みたいなふわふわした物体は、おそらくカビだろう。
もう一度寝転び、箸を振り回す。
――おかしいな、何も起こらない。
もう一回。残ったラーメンの汁が飛ぶが、奇跡は何も起こらない。
「念じ方が足りないのかな?」
今度は具体的な想像をしながら杖を振った。かわいい女の子――黒髪セーラー服の清楚系な女子高生。もちろん処女――が現れるように願ってみたけれど、女子高生は現れず、腐りかけたカップ麺の汁の臭いだけが部屋に漂っている。
「呪文か。呪文が必要なのか」
今日は一月二日。僕の三十歳の誕生日である。僕は今日から晴れて『ただのニート』から『魔法使い』になった――否、なるはずだった。本当は魔法でかわいい女の子を召喚し、よしんばその子とやることをヤッて、魔法使いとしての権利を放棄するつもりでいたのだ。
「あーあ、あんな都市伝説。ウソも大ウソ。信じた僕がバカだった」
テレビをつける。どのチャンネルも正月の特番しかやっていない。NHKの昼のニュースを眺めてからテレビを消すと、暗くなった画面に自分の姿が反射する。
チビでデブはもともとだけど、うつの薬を飲むようになってからますます太った気がする。メガネがないとほとんど見えない目が、こちらをやぶ睨みしている。昨日まで気にならなかった頭髪も、三十歳になったという気負いからか、急に薄くなったような気がする。僕がこんな冴えなく醜い人間になったのはみんな周りのせいだ。学生時代からいじめられていたのも、受験に失敗してFラン大学にしか入れなかったのも、ブラック企業にしか入れなかったのも、そこで心身をやられて引きこもりになったのも。みんなみんな、周りが悪いのだ。僕は何も悪くない。
「……腹減ったな」
なんか食うか。
起き上がり、尻を掻きながら戸棚の中を漁る。キムチの大盛りカップ麺のふたを開け、ポットからお湯を注ぎ、タイマーを五分にセット。箸がなくて、さっき杖代わりにしたカビつき箸を拾い、反対側で代用することにする。ラーメンを食べる前にトイレに行きたい。だが部屋を出るのが億劫だったので、七〇〇ミリのコーラの残りを飲み干してからボトルに用を足した。こういう時、チンコがついているのは便利だと思う。
五分待ち、カビの生えた箸の反対側でラーメンをすする。タブレットでYouTubeを流しながら、手元のスマホでネットをチェック。ラーメンの汁を飲み、今度はアニメを見た。買った覚えのない豆菓子を食べながらアニメを見て、もう一度コーラのボトルに排尿した。
アニメが飽きたら今度はアダルトコンテンツの消費だ。お気に入りの声優とAV女優相手にチンコをこねくり回していたら、時計の針は十五時を過ぎていた。
精液を拭いたティッシュをキムチカップ麺の容器に捨て、今度はゲーム。さっきオカズにしたお気に入りの声優がまた出て来て、不意にまた勃起した。最推しのキャラクターの抱き枕を相手に腰を振り、妄想で彼女の中に出してから、もう一度ゲーム。僕の妄想が現実なら、抱き枕の彼女はもう何十回も僕の子を妊娠していると思う。
風呂は多くて三日に一回。ヒゲはたまに、麻原彰晃みたいになってからようやく剃る。引きこもりになってから、新しい服も買っていない。溜まる酒の缶とカップ麺、菓子パンのゴミ。ペットボトルに排尿しているせいで、部屋は常に公衆便所と同じ臭いがする。
こんな生活を二十五歳ごろから続けている。最初は口やかましく『早く再就職しろ!』とか『うつは甘えだ!』とかまくし立ててきた両親も、最近はもう何も言ってこない。一度、母に手を挙げたことがある。あんまり『再就職!』とか『大手一流の正社員!』とかうるさいから、ゲンコツで顔を殴ってやった。母の頬骨がひしゃげる音がして、母の体は吹っ飛んだ。
あの日から、僕は家族の一員ではなく、家に寄生するバケモノになった。ゴキブリと同じ。危害を加えないだけ、ゴキブリの方がマシかもしれない。両親は僕を腫れ物扱いしながらも、臭いものにフタをするように、食事を部屋の前に置き、定期的に小遣いも渡してくる。自分でもクズなのは分かっているし、僕ほどレベルの高いクズも世の中にそうはいないとも思っている。もちろん結婚や家庭を持つなんて夢のまた夢。僕には抱き枕を孕ませる権利すらない。
時計の針が十六時を打つ。エッチなネット広告。汚いおっさんに激しく犯されている女子高生の絵を見て、下半身が元気になる。やっぱりセーラー服を着たままのプレイは背徳感に満ちていて最高だ。
床下から足音。階段を上って近づいてくる。どしんどしん。灰色のスウェットがテントを張る。女子高生のあえぎ声が耳元で聞こえる。テントの先端にハエが止まる。女子高生の膣が締まり、僕の喘ぎ声が震える。
そして足音。僕の心拍に合わせて、どんどん大きくなってくる。
――やばい、この音はっ!
気づいたってもう遅い。僕の城を守っていた
「タカシいぃぃっ‼︎」
僕の天敵である叔父が、金属バットを片手に部屋へと殴り込んできた。
※
ロクな準備をする暇もなく、僕は家を追い出された。よく死刑囚は刑が執行される当日、何をしている途中でも部屋を連れ出されるらしいけど、今の僕はそれに少し似ている。叔父にスマホを見られた。犯されている女子高生が目に映った瞬間、叔父のこめかみに青い血管が浮くのが分かった。
叔父は僕を蹴飛ばした。そのまま転げ落ちるように階段を降り、今度は尻を蹴られながら玄関を追い出される。
『正月早々、何しとんのじゃ! この穀潰しが!』
戸がピシャリと閉まる寸前、母がジャンパーを投げてくれたのがせめてもの救いだった。
「ああ……、寒っ‼︎」
長い間引きこもっていると、季節を忘れる。枯れ葉を舞い上げる冷たい風に、僕はジャンパーを掻き抱きながら、亀みたいに首を引っ込める。寒さで震えが止まらない。突っかけてきたのはスニーカーではなく便所サンダル。いくら上半身を防護していても、足の底から寒さが上がってきてはどうしようもない。
「はぁ……。どうするかなぁ……」
ポケットに財布を入れっぱなしにしていてよかった。中には免許証と保険証、それからメンタルクリニックの診察券と、現金が二千と七百九十四円入っている。正月三が日はどこも祝日料金だ。これでは漫画喫茶で夜をしのぐこともできない。
近くの公園に行き、自販機でコーヒーを買ってベンチに座った。東屋でホームレスのじいさんが新聞紙に包まって横になっている。前に『新聞紙は風除けになる』と聞いたことがある。最悪、僕もああすればいいかと思えば、少し気が楽になる。
プルタブを開ける。口をつけると甘くて温かいカフェインが胃の中へと落ちていく。
ホッとした瞬間、隣に女の子が座っていることに気がついた。
「……?」
僕はゆっくり、不審者にならない程度に、黒目だけを動かして隣を見た。派手な原色ピンクの、ヒラヒラしたスカートが見える。同じ色のブーツと白いタイツ。首をぎこちなく動かして視野を広げると、コスチュームより赤みの強い色をしたツインテールの先が、くるんと丸まっていた。
魔法少女だ。
女児向けアニメのセンター枠の、ピンク色の女の子。だけどどう見ても大人で、座っていても長身なのが分かるくらいにでかい。
彼女が僕の顔を見る。僕も彼女の顔を見た。面長で目は細め。色は白いけど目元には小皺があるし、クマが目立つ。多分綺麗な顔なんだろうけど、魔法少女が持つ特有の『かわいい』が致命的に似合わない。しかも頬には薄いけど大きなシミがある。僕と同じ三十歳前後か、あるいはもっと上かもしれない。
「やあ。君は確か……、タカシくんだったよね?」
出し抜けに名前を呼ばれ、僕の脳みそは固まった。
――何でこの女、僕の名前を知っているんだ?
魔法おばさんは杖を振る。おもちゃみたいな、大きなハートのついた金ピカのステッキだ。
「君の思っていること、当ててあげるよ。今、『何で僕の名前を知っているんだ?』って思ったでしょ? ボクは君のことなら何でも知っているよ。だってボクは世界中の童貞たちを救う魔法少女だからねー。みるくちゃんと呼びたまえ。あ、それと忘れてた。誕生日おめでと」
魔法おばさん――もとい、みるくちゃんは立ち上がり、その場でくるりと一回転してみせた。どう見ても僕より背が高い。百七十センチくらいか、それ以上あると思う。背中には小さな羽がついていて、本物の鳥みたいにパタパタ動いているけれど、まさか本当に空を飛べるなんてことはないだろう。手や指の節々も、膝の関節も骨張っていて男みたいに太い。そんな見知らぬデカい三十路女が魔法少女のコスプレをして『誕生日おめでと』とか言ってくるのだ。妄想や幻を通り越して、ただのホラーである。
目を瞬いてゴシゴシこするが、みるくちゃんは消えてくれない。僕は摂取したばかりのカフェインを絞り出すような気分で、
「……君、何なの?」
「だーかーらー。君を救う魔法少女だよ。今日、君は魔法使いになったから、その祝福に来たんだよ」
三十歳まで童貞だと魔法が使えるようになる。まさか、あれはただの都市伝説だ。そんなこと、本当にあるわけがない。
僕は髪をガシガシかいて、『そんなわけあるか』と頭を振りながら、
「胡散臭いね。僕は忙しいから、立ちんぼならヨソでやってくれるかな?」
何か悪い夢でも見ているのだろう。この寒さで風邪を引いたのかもしれない。ぬるくなり始めたコーヒーを一気飲みし、缶をゴミ箱に向かって投げる。狙いが外れてゴミ箱の外に転がり、風を受けてコロコロと地面を転がった。
僕は缶を拾いに行かない。ただ缶をジッと見つめていると、みるくちゃんが、
「『忙しい』なんて、よくそんなウソがつけるね。それと」
彼女は僕の代わりに缶を拾い、ゴミ箱に入れた。
「ポイ捨てはイカしていないね。そんなんだから、いい歳こいて童貞なんだよ」
「余計なお世話だ」
「大体、君はこんなところで何をしているのさ? 世間はお正月だよ? 君も家族と過ごしたりしないわけ?」
「……追い出されたんだよ」
「何で?」
「……姉さんの一家が帰ってくるからだ」
姉にとって、引きこもりニートの僕は汚物だ。姉は何が何でも自分の家族に僕を会わせたくないらしい。事実、僕は一度も彼女の子どもたちと会ったことがない。
「なーるほど。親族の集まりだと、君はいないことにされちゃうわけだ。『臭いものにフタ』って、こういうのを言うんだね」
「……うるさいな」
僕は立ち上がる。冬のベンチは氷みたいに冷たくて、僕の尻も同じようにキンキンに冷えてしまっている。
こんな女、無視してしまえばいい。僕は便所サンダルの爪先を公園の外に向けた。
「どこ行くの?」
「どこでもいいだろ」
――君には関係ないじゃないか。
「でも、君に行くところなんてないよ」
「……」
僕はみるくちゃんを睨みつけた。だが彼女は意にも介さず、また魔法のステッキをくるくる振る。彼女がステッキの先端を僕に向けるのと、僕の体からピンク色の光があふれて弾けたのは、ほとんど同時だった。
「おい。今、何して――」
「祝福したんだよ。君は今から本物の魔法使いだ。ほら、手を見てごらん」
言われた通りに手を見た。
左手の甲に字が浮かんでいる。焦茶色のシミみたいな色で『10』と書かれていた。
「おい、何だよ。これ……」
僕が戸惑って数字を見つめていると、みるくちゃんはルンルンしながら僕の周りを歩き始める。彼女が杖を手のひらでぽんぽん叩くたび、ピンク色の光が粉みたいに杖からこぼれ落ちていく。
「魔法使いは何でもできるわけじゃない。魔法を使うには条件があるんだ」
「……じゃあこの数字は、『あと何回魔法を使えるか』ってやつか?」
「へえ、理解が早いねえ。ちょっとアニメの見過ぎじゃないかなー。たまにはドラマとかにした方がいいんじゃないのー?」
みるくちゃんは足を止め、その場でくるっと一回転する。ピンク色のスカートが翻り、骨ばったゴツい足と膝のシルエットが見えた。
「その数字の通り、魔法を使えるのは全部で10回まで」
「じゃあまずは憎き上司と同僚たちに復讐を――」
「それと人を傷つけたり、悪いことに使ってはならない。お金儲けとか、そういうのもダメだね。自分以外の誰かを助けるために使うこと」
みるくちゃんは僕にビシッと杖を向けて言う。人のために使うこと。つまり僕にとっては何の意味もないことだ。バカバカしい。
「あ、ちょっとどこ行くのさ⁉︎」
「帰るんだよ」
「帰る場所なんかないくせに」
そう、彼女の言う通りだ。今自宅に帰れば、叔父は再び般若の形相で僕を追い出すだろう。姉は叫びながら卒倒し、姉婿は離婚を考えるかもしれないし、甥っ子たちは突如現れた僕を怪物だと思うだろう。
やっぱり満喫に行こう。個室じゃなくて、共用のカフェスペースなら夜を明かしても大した金はかからないはずだ。マンガを読んで机に突っ伏して寝て。早くこの悪い夢を忘れてしまおう。
僕は足早に駅を目指した。みるくちゃんは赤ピンクのツインテールを揺らしながら、僕より広い歩幅でぴょんぴょんしながら追いかけてくる。追いかけてくるより、もはや付きまとうだ。よくRPGで、仲間になった魔物が後をついてくるけど、あれに似ている。彼女は仲間の人間でも妖精でもなく、間違いなく魔物側だ。
魔物――ではなくみるくちゃんは定期的に色々話しかけてきては、僕は「うるさい」とか「君に答える義務はない」と言って彼女を追い払おうとした。だがみるくちゃんは全く諦めていない。しかも彼女は僕以外の人間には見えていないらしい。これでは僕がブツブツ独り言を呟く不審者みたいじゃないか。
幸い誰にも見咎められることなく駅に着いた。電車に乗るのも久しぶりだ。
「電車乗ってどこに逃げるのさ?」
「どこでもいいだろ」
ホーム階に上がるエスカレーターに乗る。みるくちゃんは僕のすぐ後ろに立つ。エスカレーターが階段状になり、ようやく僕の目線の方がみるくちゃんより高くなる。
「漫画喫茶なら空いてないよ」
「行ってみなきゃ分からないだろ」
「分かるよ。ボクは魔法少女だから。それと君、後頭部だいぶ薄くなっているよ。気づいていないみたいだから、教えてあげる」
三が日は空いているのかと思ったら、初詣の客のせいだろうか。ホームは意外と混んでいた。
みるくちゃんの付きまといはまだ続いている。僕よりデカくてゴツい体で、まるで子どもみたいに僕のジャンパーをぐいぐい引っ張り、
「タカシくんは強情だね。そんなに僕のことが信じられないかなぁ」
列に並ぶ。みるくちゃんはやっぱり僕のすぐ後ろに立ち、僕の肩にアゴを置いて寄りかかってきた。リカちゃん人形みたいな毛質のツインテールが、顔面をくすぐってきてウザい。
ツインテールの先端が、鼻をヒクヒク刺激する。僕がくしゃみをする前に、みるくちゃんは甘ったるい声で、
「信じてもらえない?」
当たり前だろ。
「じゃあ、信じさせてあげるよ。ほら、その赤い振袖の子」
隣の列の先頭には彼女の言う通り、赤い振袖の女の子がいる。背は高めだけどスラッとしていて、みるくちゃんほどゴツくないし、後ろ姿だけでもかわいいのがよく分かる。初詣の帰りだろうか。他に連れはいないようで、スマホの操作に夢中だ。
みるくちゃんは僕の肩にぐっと体重をかける。
「かわいいよね。まあ、ボクほどじゃないけど」
――冗談だろ? お前まさか、自分がかわいいって本気で思っているのか?
みるくちゃんは僕の心の声を聞き、腕を捻り上げてくる。痛い。
「それじゃあさ、あの子の後ろにいる男は? 紺色のダウン着た黒いニット帽の怪しい人」
「……うん、分かるよ」
周りの人に聞こえないように、僕は声を殺して答えた。みるくちゃんの言うとおり、男はそわそわと落ち着きなく、不審な挙動を繰り返している。僕だって十分怪しい身なりをしているけど、彼だっていい勝負だ。
反対側のホームに電車が到着する。みるくちゃんの声が甘く、ねっとりと低くなる。
「あの子はね、アイドル志望なの」
通りでかわいいはずだ。もうすぐ電車が来る。女の子はスマホを巾着にしまう。みるくちゃんの太い指が、今度は男を指差して、
「で、あいつはあの子のストーカー。
「……それで? 僕に魔法を使わせようっての? 一体、どうやって」
「まあ、見ていなよ」
弦楽器のような入線メロディ。それに続く案内音声。『まもなく一番線に、京成線直通、千葉中央行きが、六両編成で到着します』
みるくちゃんの服と同じくらい派手なピンクに塗られた列車が、人の多いホームのギリギリにすべり込んでくる。ストーカーが女の子を突き飛ばす。女の子は転び、駅構内には非常ブレーキの音が響き渡る。
僕が真っ先に見たのは、運転手の顔だ。僕より若い運転手の青年は、女の子の血がべったりついた窓ガラス越しに、吐き気を堪えるような顔をしていた。
僕の目の前を、紺色ダウンの男が通り過ぎる。何の印象も残らない顔で、何事もなかったような表情で。
強そうな人ではなかった。背は僕より少し高いくらいで、でも体重は僕よりずいぶん少なそうだ。捕まえるべきだろう。でも怖くて、頭が真っ白になってしまって、何もできなかった。
ホームは騒然となっていた。パニック、叫び声。中途半端な位置で止まった電車。線路下を覗き見る気にはなれなかった。
僕の心を見透かしたように、みるくちゃんはささやく。左手の人差し指で、僕の頬をぐりぐり突きながら、
「魔法は人を傷つけてはいけない。魔法は悪いことに使ってはいけない。そして魔法は、自分以外の誰かのために使わなければならない」
頭に色彩が戻ってくる。紺色ダウンの男はもういない。
真冬の風に鼻先が冷たくて、水っぽい鼻水が口の方に垂れてきた。
左手の甲に刻まれた『10』の文字が、真っ赤に染まった先頭車両が、何かを訴えてくる。
「……ど、どうやったら魔法を使えるの?」
みるくちゃんは頬を突くのをやめた。一瞬ちょっと虚をつかれたような顔をしてから、すぐににんまり笑い、
「簡単さ。ただ、念じればいいんだよ。思い描くんだ。君の想いを。君の、願いを」
魔法に杖はいらなかった。
呪文もいらなかった。必要なのは、想像力だけ。
僕が念じて左手を宙に掲げると、世界は手の中に吸い込まれていった。何もない真っ暗闇の中、左手の数字が『10』から『9』に変わる。時計の針の音が、耳の奥から響いてくる。
目を開く。すぐ目の前に、振袖の女の子と紺色ダウンの男がいる。
「……!」
みるくちゃんは僕の肩に肘を乗せて寄りかかっている。彼女はニィッと笑って、親指で電光掲示板を差した。
『まもなく一番線に、京成線直通、千葉中央行きが、六両編成で到着します』
時間が、戻っている。僕は本当に、魔法を使ったのだ。
目の前で同じ光景が繰り返されようとしていた。一度見た光景が、今度はスローモーションで見える。
電車が減速し、ホームにすべり込んでくる。紺色ダウンの男が手を伸ばす。男の手が振袖の背中に触れる直前に、僕は背後から男にしがみついた。
「おい、何するんだ⁉︎ 何しやがる‼︎」
男は暴れた。痩せているけど、ものすごい力だ。彼の肘が腹に食い込む。僕の手が離れると、男は僕の顔を殴ってきた。
周りがざわめき、人の波がざあっと引いていく。騒ぎを聞きつけて、駅員さんたちが走ってくる。暴れている男が自分のストーカーだと気づいたのだろう。振袖の女の子が悲鳴を上げた瞬間、すぐ近くにいた女性が、大声で叫んだ。
「大変です! この人、女の子を突き飛ばそうとしていました!」
よく見たら、女性はみるくちゃんだった。ピンク色のフリフリ衣装ではなく、普通の地味なワンピースを着ていた。僕は男に殴られながら、『そっちの方が似合うじゃないか』とか、そんなことを考えていた。
かくして紺色ダウンの男は捕まった。男は駅員さんに引きずられながら、最後まで意味不明な叫び声を上げていた。僕は口元の血を拭いながらそれを見送った。
駅が、少しずつ落ち着きを取り戻す。乗るはずだった電車が発車する。振袖の女の子は、まだその場に残っていた。
「あ、あの」
かわいい女の子だった。目も大きいし顔も長くないし、背は少し高めだけど体もゴツくない。彼女は僕に一通りの感謝を述べた後、巾着から名刺を取り出して、
「あの、わたし、こういうものです」
彼女の名前は星川きらり。偽名だろう。僕が戸惑っていると、彼女は、
「わたし、アイドルやってるんです。あんまり売れてなくて、まだぜんぜん有名じゃないんですけど……。今度ライブやるんで、よかったら来ていただけませんか?」
女の子に感謝された。
こんな経験、最後にしたのはいつだろう。
次の電車に彼女が乗るのを見送ってから、僕は更に次の電車に乗った。
入り口付近で寄りかかっていると、ピンク色の服に戻ったみるくちゃんは、
「名刺もらっちゃったね」
「うん」
「ライブ行くの?」
「でも、僕なんかが行っていいのかな?」
「何言ってんの? 来て欲しいって言われたんでしょ。なら、いいんじゃない?」
「……金がない。親に無心するのも限界があるし」
みるくちゃんは男みたいな大きな手で、僕の肩をバシバシ引っ叩いた。
「何が『でもでも』だよ。シャキッとしなさい! バイトすんのよ、バ・イ・ト‼︎」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます