そして彼女は去って行った
葬儀が終わった。急行列車が走り去っていくかのように一瞬だった。葬儀だけでなく、母さんが亡くなるまでも。
葬儀は親族だけで執り行われた。
弟や父さんは勿論のこと、あまり表情を崩さない兄貴でさえも涙を流していた。
だというのに、俺は全く涙が出なかった。
格好つけていた訳ではない。母さんが死んだことが悲しくない訳でもない。
爺ちゃんの時は涙が出てきたというのに、全く出てこなかった。自分でもよく分からない。
母さんが死んだこと、これからシオンがいなくなること。
二つの悲しい出来事が重なって耐え切れなくなり、感情が停止したのかもしれない。
横に居たシオンも、全く泣いていなかった。やはり微笑んでいるのである。
しかし、葬儀中も葬儀から帰った後もずっと嘆いている。なんで、どうして。そんなことばかり。どれだけ悲しんでも、シオンは笑うことしか出来ない。目を触ったって掻いたって涙は出てこない。だって人形だから。
葬儀中は、シオンよりも俺の方が人形みたいだったかもしれない。
固まって動かず、涙を流さず、喋らず、瞬きをしているだけだったから。
「兄さん。シオンが出ていくって……」
「何でだ」
「シオンの主人はお母さんだから、お母さんがいなくなったから出て行かないとだって」
「……出て行かないと、なんて言った覚えはないが」
家に帰っていつもの兄貴のように部屋に引きこもっていると、隣にある兄貴の部屋の方から話し声が聞こえた。
『シオンが出て行く』
その言葉に反応する。
あぁ、来てしまった。俺が最も恐れていたこと。
自室のドアに耳を引き寄せて、続きを盗み聞く。
「うん。だから止めようと思ったんだけど、中々聞いてくれなくて」
「こちらからも説得しよう」
説得することで合致したようだった。シオンに残っていて欲しいのは俺だけじゃないのだ。俺も手伝う、そう言いに行こうとした時……魔女の言葉が蘇る。
『じゃあ、そのシオンが坊の母を選んだのだろう。人間ごときが人形を縛るなど出来ない。人形にも意思はあるのだから』
その言葉に突き動かされて、咄嗟に部屋から飛び出す。
「そんなの、シオンの勝手だろ」
どうにか引き止めようと思索する二人に対し、俺はきっぱりと言い張った。
とうに俺がシオンに向ける矢印を知っていた二人だ。目を見開き、「正気か?」「兄さん、ここで止めないと」と俺まで説得しようとする。
しかし俺は、首を横に振り続けた。
「母さんと一緒にいたいから、シオンはこの家に居たんだ。この家に居るのも、この家から出ていくのもシオンの自由。人間が人形を縛り付けることなんて出来ねぇよ」
やっぱり、シオンは母さんしか見えていない。
母さんが居なくなった今、もはやシオンがこの家に残る意味などないのだろう。
二人は俯いた。まだ青二才とはいえ、人形作家の俺の発言は説得力があったようだ。
シオンに残っていて欲しいのは痛いほど分かる。
十年以上何とか隠したこの恋心。シオンがいなくなれば持て余すことになってしまう。俺だって耐えられる気がしない。しかし、魔女の言う通り人間が人形を縛ってはいけないのだ。大きな事情があっても、どんなに好きだとしても。
「……そっか。シオンに居て欲しいってのも、僕達のエゴだもんね」
「あぁ。シオンがいなくなるまで、今までの感謝を伝えるしかないな」
兄貴と弟も納得して、寂しそうに呟いた。
シオンと一緒に居られる時間のカウントダウンは、残り僅かだ。
次の日の夜、玄関の方に向かう足音を拾った。
俺はベッドの中にいた。ぱちり。もしや、と目を開ける。突き飛ばすようにして毛布を退けて、ベッドから出る。あぁ、早く追いかけないと出て行ってしまう。意外に彼女が歩くスピードは速いから。兄弟達は夢の中だというのに、スリッパを履かずドタドタ廊下を走った。足を踏み外しそうになりながら階段を下った。
明かりが消えた廊下の先。そこで何かが揺れた。
走り疲れた俺は、手で闇を探りながらゆっくり歩く。聞こえるのは俺の荒い息と足音だけ。彼女は玄関の前で立ち止まっているようだった。
待って、待ってよ。口から出るのは切れ切れの息ばかりで、声が形を成していない。息を呑み、整える。
手を伸ばして、今度は確かに言葉を紡いだ。
「待って、シオン」
揺れているのは白いスカート。
闇の中で微弱な光を放っている。目が暗闇に慣れてきて、ぼんやりとシオンの姿を捉えることが出来た。綿飴のように儚く、指一本でも触れれば消えてしまいそうだ。
手元にあるのは充電コードだろうか。
「全く、こんな時間に騒がしいわねぇ」
姿は儚くとも、声は芯のある強かな女性の声だった。
このタイミングですらお節介な母のような言葉を吐く。俺はこんなにも焦って、悲しんでいるというのに。若干の苛立ちが襲った。
「出ていくのか?」
「えぇ。マリー、つまりは主人が死んだから……引き留めにきたのかしら?」
頭の片隅で、シオンが出て行くのを阻止できたらと考えていたのは事実。だから肯定も否定も出来ぬまま。
俺は黙りこくる。シオンはふらりと体を後ろに向ける。顔だけ振り返って。
「少しだけ、庭でお話ししましょう。これが最後よ」
母が遺した花園へと誘った。
まるで異界に誘い込む女神。もうすぐ別れが訪れるというのに、さらに恋焦がれてしまうではないか。
「今日は咲いているのね。本当に綺麗。あの人は枯らしてばかりだったから」
シオンが感嘆の声を上げたのはゲッカビジンだ。
月光を反射して薄く黄色付いている。シオンはそっと触れて、うっとりしたように呟いた。俺から言わせれば庭に佇み髪を靡かせるシオンの方がずっと綺麗だ。
それと同時に、「あの人」——魔女が語ったシリルに嫉妬が込み上げてきた。
「これはマリーが小学校で育てたホウセンカ。こっちはパンジー。マリーったら、私の花だと言ってシオンを植えてくれたのよ。ほら」
一つ一つの花から母さんを懐かしむ。
ワンピースが汚れるなど構わず植物に近寄ったシオンは、俺を手で招いた。
白や紫の細長い花弁を並べた花。花は小さいけど、草は俺の身長と同じくらいある。花弁の先が茶色く変色している物もあり、萎れてきていることが窺えた。
「もうこの花達を見ることが出来なくなるのは、少し寂しいわね」
「じゃあ、ずっとこの家に居ればいいじゃん」
咄嗟に口走ってしまった。言ってからハッとなる。
二人に大口を叩いたくせに、俺が一番願望ダダ漏れじゃないか。
シオンは「無理ね」とぴしゃりと言い切った。
「私は主人がいないと生きていけないのよ」
「……なんでだよ」
答えずにシオンはマリーゴールドの方へと移動した。俺も小走りで着いていく。
マリーゴールド。こっちは母さんの花。シオンが植木鉢で育てていたものだ。赤、橙、黄色とどれも明るい色ばかり。
「私を作った人の話をしましょうか。名前くらいは聞いたことがあるかしら?」
「シリル」
「そう……人形作家になった貴方を見るとよく思い出すわ。性格はあの人の方が随分と穏やかだったけれどね。青い目にこだわりがあって」
ここまでの内容は魔女の話とほぼ同じ。
俺が青い目にこだわる理由はシオンだが、シリルはどうしてだろうか。
シオンはマリーゴールドを一本だけ折って愛でる。
「シリルもよくマリーゴールドを育てていた。亡くなった妻の影響で、と言っていたかしら」
「……亡くなった妻?」
「私も会ったことはないけれど、相当植物が好きだったみたい。まるでマリーみたいね」
魔女が言うにはシリルがシオンを作ったのはまだ若い時だったそうだ。会ったことがないということは、シリルの妻は早くに亡くなったのだろう。
そこで、人形作家になると言った時のシオンの言葉を思い出した。
『マリーを模した人形とか、どう?』
あの時は人間を模した人形なんて、と戸惑ったものだ。人形のシオンだからこそ出てきた発言だろう……そう思っていたが。
シリルの妻を模した人形こそ、シオンなのではないか。
だとしたら、シオンの発言も不自然ではない。自身がそういう経緯で作られたのであれば、母さんを模した人形を作ることに違和感を示さないのは当たり前だ。
それに、もしシリルの妻の目が青だとしたら、シリルが青い目の人形ばかり作っていたのも説明できる。
シオンは「そうだ」と切り出した。
「少し前にマリーを模した人形を作って欲しいと言ったでしょう。やっぱり作らなくて良いわ」
俺の仮説を実証するように。マリーゴールドを人差し指でぎこちなく撫でながら。
「どんなに本人に近い模造品だって、結局は偽物。一時的に心は満たせても喪失感が消える訳じゃないの。むしろ本人とのギャップで余計に傷付くだけ……」
ぐしゃり。突然、マリーゴールドの花を握り潰した。
「あぁ、今なら分かるわ。あの人もきっと、私を見てこんな気持ちになっていたんでしょうね」
母さんと一緒に花を育てていたシオンが花を無下にした。
異様な光景に目を奪われる。
ひら、ひら、ひらり。花弁がゆるやかに無惨に散っていく。地面に落ちそうになったところで、シオンが掬い上げた。
「私は、ある人の心を満たすためだけに作られた人形」
ゆら、ゆら。
「それに、人に必要とされないと生きていけない人形」
ゆらり。
親指と人差し指で摘まんで、優しく靡かせる。月光に照らされれば明るくなり、月光が隠されれば暗くなる。生と死の間に挟まれた彼女のようだ。
「人間が生きる意味を見出すように、人形だって存在意義を見つけるのよ。他の人形みたいに、私は人の心を満たすことは出来ない。だから、今まであの人の言葉を頼りに行動してきた」
「その言葉……って」
「大切な人を見つけて、その人が死ぬまで尽くしなさい。そうしたら、人の心を満たすことは出来なくとも、存在する意味にはなるだろう」
そこまで述べたところで、シオンは花弁を落とした。
「マリーの心を満たすことは出来たのかしら」
「母さんはシオンといて楽しそうだったぞ」
お世辞ではない。母さんはシオンがいて楽しかっただろうし、そうでなければ最期までシオンの心配をするはずがない。
だというのに、シオンは「そう」と声の調子をさらに落とした。
「マリーが満足していたなら、人形としては良いのでしょうね……でも、今度は私の心に穴が空いてしまったみたい。これは何なのかしら……」
算数の答えが分からない小学生のように、首を傾げた。
「ずっと人形を作ってきた側として、何だと思う?」
人形に感情がないという割にシオンの言動が感情豊かなのは、シリルの妻のデータを学習しているから。シオンが考えているのではなく、あるデータを元に反応を出しているだけ。
だから、シオン自身は感情を持っていない。
「多分、それは」
……そのはずだったのだろう。
シオンが落とした花弁を拾って、土を指で拭き取る。
「感情ってヤツだよ。シオンの場合は、『寂しい』っていう感情」
「そんな訳がないわ。人形に感情なんてないのでしょう?」
表情は変わらないけど、動揺を隠しきれていない。
「機械にバグが発生することがあるじゃん。それみたいな感じで……あと、俺の師匠が言ってた。元々人形は感情を持ってるけど、それを表現する手段がないだけだって」
説明はあやふやだし、殆ど魔女の受け売りだ。
「感情……寂しい……」
「それに、あの人の気持ちが分かったって言ってたから、昔は分からなかったんだろ。感情を得たから分かったんじゃないのか」
「そうかもしれないわ。でも、てっきりデータが導いた結果だと思ってたのよ」
噛み締めるように、自分の中に取り込んでいくように、しみじみと呟く。
「そう、これが感情。マリーが、あの人が持っていたモノ……」
シオンが感情を得た。正確には自覚できるようになった。
そして、シオンの「好き」という感情が俺に向くことがないことを、再度身を持って知る。やっぱり、俺はシオンの特別にはなれない。
シオンは俺の手から花弁を攫った。
「ありがとう。貴方のおかげで大切なモノに気付くことができたわ。私だけだったら見逃してたもの」
ただ、「感情に気付かせてくれた存在」として、記憶装置に残るのは中々悪くない。勝ち誇ったような気分になって、心の中で笑みを浮かべる。
感情を知って満足したシオンは、門の方に向かって歩みを進める。庭を出て、家を出るつもりなのだ。庭は小プールくらいの大きさ。すぐに門に着いてしまう。
「感情を知れたことは嬉しいけれど、寂しいのは変わらないのね」
別れまであと数十歩。
「だから次の主人を待ちに行くわ。その主人が力尽きるまで一緒に時間を過ごして、また新たな主人を探す。私の体が朽ちるまで」
残り十歩。
ここで思いを告げなくてどうする。たった二文字なのに、喉で引っ掛かって突っかかって出てこない。
「……一応、貴方が次の主人になったって良いのよ」
「は?」
素っ頓狂な声を漏らして、歩みを止めた。けれどもシオンは進み続ける。
主人。つまりシリルや母さんのようにシオンと死ぬまで一緒に居られるということ。超が十個あっても足りないほど魅力的だが。
「……いや、良い。遠慮しとく」
そこまでして、シオンの自由を奪う気にはなれなかった。もう別れの覚悟を決めているのだ。どんな形でも記憶に残れるなら、それでじゅうぶん。
シオンに追いついて、ついに三歩を切った。
「その、シオン……」
二歩。
「最後に言いたいことでもあるの?」
一歩。
うん、と頷いてから息を呑む。頭が熱い。茹で上がったタコのように顔が赤くなっているかもしれない。しどろもどろになってシオンから目を離す。でも、思いを告げるには目をしっかり見ないと。硝子の瞳の中を月光が走った。
「す……す、好きだ」
これは十数年の恋の終止符。
シオンは俺に近づいた。ふわっと、ほのかに花の香りが広がる。
「あら、奇遇ね」
感情を自覚しても、表情に温度はない。
「私もよ。今、好きという感情が分かったの。マリーだけじゃなくて、貴方も好き」
それが恋愛的なものではないと分かっている。今の「好き」には、きっと兄貴や弟、それに父さんも含まれているはずだ。それに、シリルだって。
そうだとしても。
記憶に残るだけで良いと思っていたのに、好きという二文字を贈って貰えただけでじゅうぶんすぎる。
シオンは前を向いて、静かに最後の一歩を踏み込んだ。
門に手を押し当てる。
「楽しかった」
くるり。俺の方を振り向いて、シオンがワンピースを揺らす。
「本当に、楽しかった。少し惜しくなるくらいに。みんなに、今までありがとう、って伝えておいて頂戴」
ありがとう、と言うべきなのは俺の方。
シオンがいたから、俺は夢を見つけることができた。
「もう、会うことはないだろうけど……俺、まだまだ沢山、人形を作るからさ」
腕で目元を押さえる。
これ以上喋ると、泣き声が出てきてしまいそうだ。シオンは「えぇ、勿論よ」と俺の言葉を引き継いだ。
「楽しみに待ってるわ」
腕を離すと、シオンは俺を見たまま門の外に出る。
「それじゃあ、またね」
あっ、と声を漏らしそうになる。
シオンはいつも目を開いて、微笑を浮かべている。
でも、少しだけ……
ほんの少しだけど、目が細められたように見えた。
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