第20話
一人寂しいハチ公の前を通り過ぎて、念の為バイクを人目のつかないところに隠す。キーも抜いたし盗む人間も今のところ見えないが、用心に越したことはない。失えばこの世界における大きなアドバンテージが消えてしまうのだ。
「荷物増える前に行ってみたいとこあるんだけどいい?」
「どうぞ。ついていきます」
「さっきの道路の真ん中で寝てみるみたいなもんだから」
渋谷駅の改札口。もちろん切符もICカードも通さない。千鶴はポケットに手を入れながら、さも悪者といった様相で正面から堂々とゲートを蹴破るとスタスタ通過してしまう。流石にわたくしはそこまで道徳が欠けていないので、彼女の蹴破ったところを通った。ゲートは接合部が壊れたのか、ぷらぷらと入場自由になってしまっていた。
駅のホームに出てももちろん人はいない。電光掲示板も息を潜め、電車の到着を教えてくれない。寂れたホームはこびりついて黒くなった汚れがよく目立つ。
「ひゃっほぅ!」
千鶴は歓声とともに線路に飛び降り、くるくると回って見せた。
「線路侵入もしてみたかったんだ」
「面白いのですか? それ」
ホームと線路では高低差があるため、千鶴の頭がちょうどわたくしの靴くらいの高さだった。
「数多の人類が手前まで辿り着くのにもかかわらず、必ず足を止めてしまう禁域だよ」
「危ないし周りからの視線が痛いからでしょう」
「そんな〜しがらみも〜今はあーりませ〜ん。ほら、動画撮ってよ。バカどもの真似してSNSにアップしようぜ」
「もう機能していません」
「まもなくぅ〜一番線を〜ワ・タ・シが通過いたしまぁ〜す。危ないですからぁ〜黄色い線の内側でお待ちください〜」
ふぁーん、と警笛を出し、公園でかけっこする子どもの声を上げながら線路を走っていってしまった。緩慢にとりあえず後ろ姿を動画に記録する。
「……なにが楽しいのか」
録音していることも構わず独りごちた。
退廃的な遊びに興じる彼女とわたくしの価値観は全く違う。生憎禁則を破ることに快感は見出せないのだ。
常に「いい子」であること、それがわたくしの目指すべき理想だった。
無益なことには肩入れせず、ずっと勉学に励み、損得勘定を磨き、澄凰の後継ぎとなる。そして財閥をより裕福にすれば、わたくしは幸福になるはずだった。学校にはそれこそ千鶴のような享楽主義な人間だっていたが、内心は馬鹿な人たちと軽侮すらしていた。
「いい子」であればもっと美味しい思いができるのに。
「いい子」であれば認められるのに。
「いい子」であることがなによりも崇高なのに。
でも両親は「いい人」ではなかった。
自分以外の生命を金としか認識しない「悪い人」。
盲信的に目指していた「いい子」の行き着く先が「悪い人」であると理解したとき、わたくしの理想像は粉々に砕け散った。
黄色い線の内側で彼女を待つ。
わたくしはまだ「いい子」であろうとしている。
「いい子」でいたって、かつて信じていた幸福は待っていないのに。
降りて……みようかしら。
そこでジャリジャリと音を立てながら電車が帰ってきた。電車はひどく鈍行で、激しく肩を上下させている。
「なにも無ぇ……つまんねぇ」
当たり前でしょう。
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