第7話
「よし、じゃあ千鶴さんに話してみなさい。はいそこ、ロープ結ぶな」
食器がまだ広げたままのテーブルでわたくしたちはまた向かいあう。けれどさっきまでのパーティムードはどこへやら。
「で、死にたい理由ってのは家燃えたから……じゃないよな?」
こうして面と向かいながらこの話題をすると、千鶴がカウンセラーのように思えてくる。ヤンキーカウンセラー。
「別にそれは気にしてませんわ。時間の問題でしたし。死にたいのは……」
簡単にできるはずの固結びに失敗してロープがしゅるりと逃げ出した。
言い淀む。
言葉にしようとすると、
「疲れてしまったからです……」
弱々しく千鶴に微笑みかけた。
「っていうのは……」
「おや、知らないとは言わないですよね。同じクラスの学友ではありませんか。あなたは……いやもうほとんどの人の知るところです」
わたくしは立ち上がるとテレビ台の隅に置かれていた新聞の山に手を伸ばす。きっと千鶴の父が読んでいたものだろう。わたくしの両親がそうしていたように資産家にとって情報は時流を掴む
目当てのものを見つけるとわたくしは彼女のほうへ数部放った。
その表紙の大見出し。
『澄凰財閥 非人道的事業が判明』
千鶴はやっぱりと言いたげな苦い顔を浮かべる。
「生産、流通、経済、インフラ、エンターテイメント。今や澄凰の息のかかっていない分野を見つけるほうが難しい。世界を股にかける一大グループ。澄凰財閥のイメージといえばこんなところでしょう?」
「ああ」
江戸時代に端を発する澄凰の商いは卓越した知略と先見の明をもって成長を続けており、今や日本が誇る多国籍企業として
これだけ聞けば巨大グループのサクセスストーリーの一幕だ。しかし大人のやることが綺麗事だけなわけがない。さっきの恋バナで千鶴が言ったように大人の世界は汚い匂いで満ち満ちていて、ピュアなんて幻想だ。
「それは表の顔。殺し、人身売買、密輸、麻薬、民間軍事、ライバル潰し。金になることなら文字通りなんでもやる。金になるなら汚れ仕事も喜んで。金の亡者、それが澄凰の本当の顔です。はい、次」
私は鼻をつんと上げて千鶴に二部目の新聞、二日後のものをめくるように促した。
『澄凰夫妻殺害される 海外マフィアの関与か』
「それだけ金に執着すれば、買う恨みもそれはそれは相当。その結果がご覧の通りよ。我が親ながら愚か極まりないですね」
澄凰財閥は表向きの事業と同じかそれ以上のリソースを割いて隠蔽工作を
多くの人がそんなわけと一笑に付すだろう。
そんなの映画の世界だろうと。
しかしそれができてしまうのが澄凰財閥なのだ。
だったのだ。
真実は幾人の流血を伴って明るみになった。動乱とも形容できる告発が行われたのだ。まだ良心を残していた末端の人間が、世界各支部を同時多発的に攻撃、占拠した後、ライブ配信で澄凰財閥の影を照らした。聴衆は半信半疑だったが、クーデター側と企業側の犠牲者が増えるにつれてそれは現実味を帯びてくる。まさしく真っ赤な鮮血で洗い出され、陽の目を浴びたのだ。
そして血は新たな血の呼び水となる。
財閥を揺るがす出来事に乗じたのだろう。新聞の報じる通り、澄凰に手痛い仕打ちを受けてきた何者かの差し金によって、ちょうど海外に滞在していた両親は惨殺された。あの財閥当主の命だ。殺しの報酬は相当に違いない。
人の命で富を築いた者が、その命を金で狙われる。実に皮肉な最後ですわね。どういう気分かしらお母様、お父様。
唾の一つでも吐きながら聞いてみたい。
そんな下品な真似なんてただの一度もしたことないが、初めての「お行儀悪い」なら、この二人に向けるには適当だろう。上品は両親に刷り込まれたものだから、今から反抗期とやらをやってみても面白いし、それに……。
この二人のせいで、受け継いだこの姓でわたくしの人生はぐちゃぐちゃにされたのですから。
「澄凰財閥の評価は超一流企業から悪徳企業へひっくり返すように変貌して、澄凰は悪名として世界に轟いたのです。そしてもちろん澄凰の姓を持つこのわたくしも。ね?」
わたくしは千鶴の目を射抜くように見つめた。すると彼女はばつの悪そうに伏し目がちになる。
知っている。だってわたくしのクラスメイトですから。
「見てきたよ。学校のクソみたいなやつらが澄凰サンに嫌がらせしてんの」
普通の人にとってはテレビの向こうの世界の話かもしれない。しかしわたくしが通う学校の人たちにとってはそうはいかない。なぜならテレビの中の澄凰の娘がすぐそこにいるのだから。
事業の報道の次の日から全てが一変した。
「ごぎげんよう」
「……」
挨拶しても誰も目を合わそうとしない。教室でも廊下でも部活でも。昨日まで親しく談笑してくれた友人の誰もがわたくしの側に寄らない。遠巻きからひそひそと聞こえる話し声の全てがわたくしを話題にしていた。
次の日からいじめが始まった。
懲悪せんとわたくしを共通の敵に据えて嫌悪の視線を浴びせてきた。力と勇気を持つ者は直接罵声や暴力を振るったし、それ以外の者は見て見ぬふりを決め込む。見て見ぬふりと言ってもそこから感じる「ざまあ見ろ」という意識はひしひしと伝わってきた。
わたくしは悪者だった。
「金持ちだからって調子になりやがって」
「クソ外道が」
「だって悪いことしてきたんでしょ」
「そんな人だと思わなかった。サイテー」
初めて身に受けた罵詈雑言の数々。
「だってニュースを見たらねぇ……。みんなそう思うでしょ。仕方ないっていうか……」
教師だって味方はしてくれなかった。正面から向かってくることはなかったこそすれ、胸中は生徒と同じだろう。いや、生徒よりも社会を生きている分、憎さは数倍かもしれない。
「でも……澄凰サンはニュースが言ってるようなことには関係してないんだろ?」
千鶴はそう確かめるように尋ねた。
「はい、ですがわたくし夕鶴羽が関わっているかは問題ではありません。人々にとっては澄凰の姓を持つ人間が問題なのです」
人間とは至って単純な生き物で、周りが悪だと叫べば、自身に関係性が無くてもその人にとっての悪となる。そして悪を糾弾することで自分は善の立場にいることを欲するのだ。
澄凰は悪。澄凰は悪。
わたくしから夕鶴羽という認識は除かれ、「澄凰」という敵を示す記号しか残らない。
「わたくしは知らない!」
そう声高に言いたかった。
事実わたくしは財閥の善良な事業しか携わっていないし、どんなことをして利益を得ているかも一般人と同程度しか認知していなかった。
いわゆる綺麗な部分だけだ。
両親はまだ歳若いわたくしを、財閥の全てを知るには足り得ないと判断していたのかもしれない。
従ってあの報道は私にとっても、今まで吸ってきた空気を疑うかのように衝撃だったのだ。
だが反論の言葉は吐けなかった。反論する口も、それを考える頭も、わたくしの体は澄凰が稼いだ金でできている。他者を犠牲にした金で生まれ、育ち、ここにいるのだ。
わたくしは即ち凶行の結晶。
そんな人間がなにを言えるというのだろうか。
「そして次が澄凰の呪い。先ほど外でお話した通りです」
やがてわたくしに危害を加える者には不幸が見舞うという噂がまことしやかに囁かれはじめる。
「わたくしが風の噂で聞いた話ですと、階段から落ちて大怪我とか交通事故とか急な体の異変とか……。この前突然辞められた先生は身内に不幸があったとも言われてますわね」
その全員が直接ないし間接的にわたくしに仇をなした人だとも聞いている。
独り歩きした呪いのおかげで暴力的な悪意は向けられなくなった。それ自体は助かったが、孤立することは避けられない。
澄凰には近づかないほうがいい。
きっと殺された両親が怨霊になっている。
わたくしは呪物のような扱いで避けられ続けた。
顔も見られない。
近づかれない。
話しかけられない。
答えてくれない。
居場所なんてない。
ない。ない。ない。ない。ない。
わたくしの存在は。
ない。
「親に裏切られ、虐げられて、見向きもされず……。そうして考えるのも嫌になって。こんな絵に描いたような絶望の中のどこに生きる意味があるのでしょうか。さっさと幕引きにしたほうが楽。そう思いませんこと?」
「……だから死ぬのか」
「そういうこと」
私は苦しみから解放される安楽の笑顔でそう返した。
「それにどうせ皆さん隕石で死ぬのです。もう早く死んでも遅く死んでも同じでしょう」
そして三日前、告発からちょうど六日後だ。
突如巨大隕石が捉えられた。
突然としか言いようがないらしい。宇宙の観測網の内側にいつの間かあったとのことだ。
人類の終わりの知らせとしては理不尽なことこの上ないが、そのおかげで澄凰財閥のスキャンダルはさっさと時流から追い出された。どんなに驚愕ニュースでも、人類滅亡の前では可愛いペット特集くらいの注目度しかないのだ。
それでもわたくしの胸深くに根を張って、なにもかもを無にしてしまう深淵のような失意は別問題。
隕石来訪には感謝している。何事もなく世界が進んでいたらわたくしは自分の生命を絶つ勇気があったか怪しい。いくら英才教育が施されても、痛みや
頼れる人もいないし、財閥ご自慢の資産も差し押さえ待ったなし。そんな悲嘆に暮れながらも死ぬ意気込みもない中途半端な存在として苦しみ続けている未来を想像したら、隕石にありがとうの一言も言いたくなる。誰にも平等に死のタイマーを設定してくれたおかげで気が楽になったのだから。
どうせみんな死ぬ。
それはいつかはとか寿命の話ではなくて、差し迫って七日後なのだ。これは紛れもない事実だった。
「これでわたくしのお話はお終い」
「重ね重ねお礼申し上げます。あなたとの食事、最後の晩餐に相応しい愉快なものでしたわ。それではよい終末を」
外なら汚してもいいかしらね。
そう思いながら満足いく死に場所を求めて部屋の出口へ向かった。もうここに用はない。
しかしその意に反してわたくしの腕は引っ張られ、退出は叶わなかった。
振り返ると千鶴がわたくしの手首を握っている。
「さっきさ、早く死んでも遅く死んでも同じって言ったよな」
低い声でそう呟く様子はなんだが本職っぽかった。
「ええ」
「だったらあと……今日入れて七日か。あと七日間私にちょーだいよ」
「……わたくしにまだ生きろと?」
まだ苦しめと言いたいの? という確認を言外に匂わす。
「そうだ。なんつーかさ……そう! 私一人じゃ寂しいんだよ」
千鶴は自嘲気味な表情をした。
「母親はとっくの昔にいねぇし、父親はなんだか知んねぇけどくたばったし。ツルんでたやつらいなくなったし」
「少なくとも一つはあなたの仕業ですけど」
「ははっ。まぁ、私は……こんなどうしようもねぇ世界だけど、もう少し生きてたいなって思ってる。しがらみとか周りへの配慮とか取っ払って好き勝手できる機会なんて最初で最後だろ。最高だと思わない?」
今でも好き勝手してそう……。
「だからそれの道連れっていう感じ。さっきのすき焼きと一緒。一人より二人のがおもしーじゃん」
千鶴視点だったらその考え方は妥当だろう。だがわたくしの自分語りはちゃんと聞いたはずだ。
「でもそれってエゴですよね? あなたの。わたくしが生きてるだけで苦しいって言ってますのに、自分一人じゃ嫌だからって生かすの、おかしくありませんか?」
「それは……」
理路整然と放った言葉にわたくしを繋ぐ手の力が少し緩まった。
この隙に振り払ってしまいなさい。
わたくしがわたくしに命ずる。
わたくしはもういいのです。
このまますんなり逝けたほうが——。
「私が楽しい思いさせてやる! それも初めての!」
目を見開いた。
千鶴の決した意を堂々と書き殴ったような面構えに。
「コンビニのから揚げだって卓上コンロでやるすき焼きパーティだって、澄凰サンにとっちゃ初めてで新鮮だろ。そういうのを私が色々教えて、嫌なこと塗り替えて、今までの悪運がアホみたいになるくらい笑わせてやるよ。死ぬんだったら暗い気持ちじゃなくて、人生満喫してから明るく逝こうぜ」
言ってる言葉は安っぽいけど、その分余計なものが無くてストレートに飛び込んでくる。
「でもわたくしは……」
「一度は捨てたその命、私に賭けてみない? 元より捨てちまうものなんだから減るもんじゃないだろ。その賭け分、超絶でっかくして返してやる」
この人は、どうしてこんなにも自信満々にそんなこと言えるの?
根拠なんてどこにもない、正直でまかせに過ぎないだろう。
だけど今まで投げかけられたどんな言葉よりも、わたくしに刺さっている。
散々ぶつけられた言葉のナイフから心を守るため、過度に傷つくことを恐れて閉ざし切ったわたくしの胸の内。
強固な守りを築いたそれが今、千鶴の安っぽい言葉で脈動している。
さっきのパーティは楽しかった。
ただ栄養を摂取するためだけに、あり物を口に運ぶだけに成り果てていた食事。
だけどお喋りして、くだらないことで笑って、味に酔いしれて。
別段特別に優れた料理ではない。
けれどそこに楽しいなんて感情はいつぶりに抱いただろう。
わたくしが笑顔になったのはいつぶり?
きっとそれはわたくし一人では到達できなかった場所だ。
そしてこの先忘れていたもの、あるいはまだ知らないものに触れていくことができるなら……?
黙っている間、彼女はわたくしから一ミリも顔をずらさなかった。
こんなにも……。
敵意ではない、こんなにも透き通った眼差しだってわたくしは知らない。
きつく閉ざしたカーテンの隙間から差し込む陽光のように、わたくしの中にスッと入り込んでくる。真っ暗だった気持ちをほんの僅かだが照らしてくれる。カーテンの向こうに駆け出すための気力はまだないけど、覗いてみたくはなってしまう。
掴まれた手首はもう弱くない。
あぁ困ってしまう……。
わたくしは今生きることに一瞬興味が湧いてしまった。
しつこくへばりついた
「それに、澄凰がどうだって難癖つけて突っかかってくるやつももういないだろ。こんなご時世に。だからこっから悪くはなんねー」
「そう……ですわね……」
「いたらいたで、私がぶちのめすわ。ケンカも嗜んでるんで」
掴んだ手を離すとシュッシュとシャドウボクシングを披露してくれる。確かに身のこなしにキレはある。
ま、死ぬのはいつでもいいでしょう。
死にたくなったらそのときまた首を括ればいいだけの話だ。わたくしは今良くも悪くも自由なのだ。束縛されていた人生とは違って爪先の向きは自分で決められる。
自由……。
いい響きですわね。
わたくしはちょうど頭くらいだったロープの輪っかを閉じた。
「いいですわ。寝食のお礼だと思って余生とやらに付き合ってあげます。わたくしを死なせないように精進なさい」
「随分と偉そうなことで」
「あら、あなたの望みでしょう。今から気が変わってもおかしくないわよ」
わたくしが親指でシュッと首切りをして見せると千鶴はやれやれといった様子で息を吐く。
「はいはい。分かりましたよお嬢様」
「あなたもお嬢様でしょうに」
「私はそんなもんじゃね。ただの不良娘だよ。そんじゃどこで寝る? 部屋なんて売るほどあるから好きなの選びな」
「それでは内覧と行きましょ。ご案内お願いします。できればお部屋は……」
こうしてわたくしは捨てかけた命をしまいなおしてもう少しだけ生きてみることにした。
わたくしみたいな小さな者の灯火が輝いてたって世界は変わらない。隕石だって落ちてくる。澄凰の姓を持って、人間界で幅を利かせていたって、宇宙からすればごくごく小さな存在なのだ。
けれど千鶴はこの
長い廊下の途中、外を覗けば、暗黒の中にぽつんと白い月が浮かんでいるのが分かる。
愉快な生活が待っているか、さらなる地獄が続くか。
どちらに転んだとしても。
どうせ皆死ぬのです。
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