純喫茶『時間のかけら』
まちゃおいし
第1話 甘すぎたクッキー
その路地は、注意深く探さなければ絶対に見つからない場所にあった。 大手町のビル風が吹き荒れるメインストリートから一本、さらにもう一本裏へ入った、古い雑居ビルの隙間。まるで都市開発の波から忘れ去られたかのように、そこだけが昭和の空気を纏っていた。
「……なんだ、ここは」
見上げた先に、小さな木製の看板が吊り下がっていた。 『純喫茶
疲弊した心が、その古めかしい佇まいに妙な懐かしさを感じていた。斎藤は、何かに引かれるように、重いドアの
カラン、と乾いたドアベルの音が鳴る。 店内は、想像した通りの琥珀色に満ちていた。使い込まれたマホガニーのカウンター。深緑色のビロードが張られた椅子。そして、壁にかけられた大きな振り子時計が、コチ、コチ、と正確だがどこか現実離れしたリズムを刻んでいる。
客は斎藤一人。カウンターの奥に、背筋を伸ばした初老の男が静かに立っていた。真っ白なシャツに黒い蝶ネクタイ。マスターだろう。
「……いらっしゃいませ」 低いが、よく通る声だった。
「あ、どうも。雨宿りを……。ブレンド、一ついただけますか」 カウンターの一番端の席に腰を下ろしながら、斎藤は濡れたコートの襟元を緩めた。
マスターは無言で頷くと、手際よく豆を挽き、湯を沸かし始める。 店内に、芳醇な香りが立ち込めていく。それは、斎藤が若い頃に慣れ親しんだ、少し酸味の強い、本物の「喫茶店」の香りだった。
(いつからだろうな。こんな風に、ゆっくりコーヒーを淹れてもらうなんて)
ここ数年、彼が口にしていたのは、コンビニの100円コーヒーか、オフィスで煮詰まった泥水のような液体だけだ。 仕事。仕事。仕事。 課長に昇進してからは、それが全てだった。家庭を顧みず、妻の声に耳を傾けず、娘の成長から目をそむけた。
結果、3年前に妻の美咲(みさき)から離婚届を突きつけられた。 『あなたにとって、私と結衣(ゆい)は、仕事の邪魔でしかないのね』 最後に聞いた妻の声は、凍えるほど冷たかった。
コチ、コチ、コチ……。
振り子時計の音が、やけに耳につく。まるで、失った時間を取り立てに来た高利貸しの足音のようだ。
「……お待たせいたしました」
目の前に、白いノリタケのカップが置かれた。湯気と共に、深い香りが鼻腔をくすぐる。 斎藤は一口、その黒い液体を含んだ。
(……あ)
熱い。苦い。だが、その奥に、驚くほど澄んだ甘みがある。 そう感じた瞬間だった。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。 琥珀色の店内が、まるで水彩絵の具のように滲んでいく。マスターの姿も、カウンターも、振り子時計の音も遠ざかっていく。
次に目を開けた時、彼はオフィスのデスクにいた。 いや、違う。かつて住んでいたマンションの、リビングダイニングだ。 目の前には、美咲が立っている。その手には、あの、見慣れた書類が握られている。
(……やめろ)
声が出ない。これは幻だ。夢だ。
『誠さん。私、本気よ』 冷たい声。そうだ、あの日もこんな風に雨が降っていた。
『ああ、分かった。好きにしろ。それより、明日の会議の資料を……』 自分の口が、勝手にあの時の言葉を繰り返す。 (違う、そうじゃない!)
『もう、いいのね』 美咲が絶望したように顔を覆う。
『パパ!』 不意に、テーブルの下から小さな影が飛び出してきた。当時8歳だった娘の結衣だ。その手には、いびつな形をした、焦げ目のあるクッキーが握られている。
『これ、パパのために焼いたの! あのね、家庭科で……』 『うるさい! 今、大事な話をしてるんだ!』
斎藤の手が、娘の差し出した手を乱暴に払い除ける。 クッキーが床に落ち、乾いた音を立てて割れた。
『……っ! パパの、バカ!』 泣き叫びながら部屋に駆け込む結衣。 それを見送る美咲の、最後の、諦めに満ちた目。
(ああ、ああ……違うんだ、結衣。そうじゃない、美咲……!)
斎藤が手を伸ばそうとした瞬間。
カラン。 ドアベルの音で、斎藤はハッと我に返った。
そこは「時間のかけら」のカウンターだった。手には、まだ温かいコーヒーカップが握られている。振り子時計は、相変わらず正確に時を刻んでいた。 (今のは……夢か? 幻か?) あまりに鮮明な後悔の光景に、冷や汗が背中を伝う。
「お客様」 マスターが静かに声をかけてきた。 「落とし物でございます」
「え……?」 マスターが差し出したのは、小さな白い小皿だった。 その上に。
「……!」
斎藤は息を呑んだ。 そこに乗っていたのは、紛れもない、あの日のいびつな形をした、焦げ目のあるクッキーだった。 一つだけ、床に落ちた時と同じように、無残に割れている。
「なぜ、これを……」 震える声で尋ねる斎藤に、マスターは表情一つ変えずに答えた。
「『時間のかけら』でございますから。時折、お客様がこぼされた“かけら”が、こうして見つかるのでございます」
斎藤は、恐る恐る、そのクッキーを手に取った。 割れた破片を口に運ぶ。
(……甘い)
砂糖とバターの、素朴な味。 あの時、一口でも食べていれば、分かったはずの味。 8歳の娘が、一生懸命に伝えたかった味。
「……甘すぎる……」
あの時、もし「ありがとう、美味しいよ」と嘘でも言えていたら。 いや、払い除けるのではなく、ただ受け取ってさえいれば。 何かが、変わっていただろうか。
コーヒーの苦味と、クッキーの甘さが口の中で混じり合う。 斎藤の目から、熱いものが溢れて止まらなくなった。 それは、3年間ずっと、心の奥底で凍りついていた後悔のかけらだった。
どれくらい泣いただろうか。 斎藤が顔を上げると、マスターは静かに布巾(ふきん)でグラスを磨いていた。
会計を済ませ、斎藤はドアに向かう。 「……ごちそうさまでした。あの、クッキー、美味しかったです」
マスターはこちらを向かず、小さく会釈だけを返した。
店の外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。 ビルの隙間から、鈍色の空が覗いている。
斎藤はスマートフォンを取り出した。 「至急」の通知を全て無視し、連絡先リストをスクロールする。 美咲は、もう番号を変えているかもしれない。
だが、斎藤は、ある番号をタップした。 元妻の番号ではなく、別れた後も時折やり取りを許されていた、高校生になった娘・結衣の番号を。
コール音が数回鳴る。 『……もしもし、パパ? 珍しいね、こんな時間に』 少し大人びた、ぶっきらぼうな声。
「あ……結衣か。いや、あのな」 斎藤は深く息を吸い込んだ。
「今度の週末、もし時間があったら……なんだが。その、昔、お前が焼いてくれたクッキー……あるだろ。あれ、もしよかったら……もう一度、食べさせてくれないか」
受話器の向こうで、娘が息を呑む気配がした。
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