Ⅲ
昔のことである。家の帰り道を歩いているときに、ぼんやりと頭に浮かんできたのだ。
私が明日の宿題をするために教室の中に居座ったことが一回だけある。その時も、阿久津君は一人でポツンと机の上の本にかじるように眺めていた。
その時はめまいがするような厚さじゃなくて、スゴイ薄い本だった。表紙には、べらぼうに偉そうな白黒のおじさんが二人、笑みか危機が迫っているのか、よく分からない表情でこちらを見つめているような本を読んでいた。
教室には二人しかいなかった。言うまでもないけど、私と阿久津君。私は一番、前の窓側の席に座っていた。席替えは常にくじ引きだったから、これも本当にたまたまの話。そして、隣が阿久津君。これもたまたまの話。
「なぁ、君」
阿久津君から話しかけられたのは、これが初めてだった。だから、肩がびっくりする、呼吸もちょっと強く吐きすぎた。
「な、なにかな」
私がいそいで隣を見ると、阿久津君はいつものように本から目を離すこともなかった。だから、もしかしたらひとり言だったのかもしれない疑念が湧いてきてしまった。
「いや、作業の途中なら、別に問題はないんだよ。そっちに集中してもらっても。でも、もしも僕の言うことに耳を貸してくれるなら、一寸ばかりうれしいだけのことなんだ」
とにかく、阿久津君はベラベラと喋る。これは昔も今も変わらない。頭の容量がビィビィなんて音と熱を帯び始めている。つまりは、ちょっとだけ話を聞いてほしいってことなのかな。それが分かるまで、数秒かかる。
「どうしたの」
「ひとめぼれ、という現象を知っているだろうか? あの現象について聞きたいことがある」
ひとめぼれ。阿久津君の口からは絶対に出てこなさそうな言葉。
「まぁ、知っているよ」
「あれは、どういう条件で発生するんだ」
なんとも難しい質問。一度も考えたことがなかった。条件なんて必要ないからひとめぼれなんじゃないかと思ったけれど、阿久津君はやっぱり理屈の人、人間心理を解析しようとする人。先生は、阿久津君のことをそんな風に言っていたような気がして、それがピッタリな気がして、私はいつも難しい話がスタートするときはその言葉を頭の片隅に置いているのだ。
「条件はないんじゃないかな。ほら、もうすでに起こってしまったことに理由は求められるけどさ、その前には戻れないでしょ。つまり、そういうことだよ」
カラッポ頭から出てきたカラッポ言葉。阿久津君は本を閉じて、いつ折れるか分からないほどの細い腕を組んで目も閉じた。少し開いた窓の奥から、涼しげで陽気な風が流れてきて、この微妙な間を埋めようとしてくれた。
「なるほど。うん、実に良い考察だ。それはそうだ」
なんとも意外に阿久津君は全てを分かったみたいな口ぶり、目も開かれて、キラキラと呼ぶにふさわしいような表情。
「いいや。最近、気になっていたんだ。恋とか愛だとか、そういったものを科学的に分析しなければならないような気がしていたんだ。いや、しかし、そんなのは不要だな。そもそも、そんなことは不可能だったのだな」
阿久津君は、淀みなく一息。私も、それを飲み込むのに一息。
「いや、もしかしたら現代の枠組みでは不可能なだけで、より素晴らしいフレームが誕生しさえすれば、可能になるのだろうか。そうすれば、もっと良いだろうか」
ずっと、変なことを語りだした阿久津君。しかも、最後は疑問なのか、それともひとり言なのか分からない。なんとも難しいコミュニケーションである。
「そうなのかもね」
私は会話を途切れるのは、阿久津君にも失礼だろうと思って、良いか悪いかは別として言葉を口にしてみたのであった。
「ねぇ、どうして科学をそこまで信じるの」
私はなんとなく聞いただけであった。しかしながら、阿久津君は生まれて初めて眉間にしわを寄せたのだ。腕を組んだ、指先の爪は少しだけ阿久津君の肌を刺している。
「そうだね。でもね、こういうことが言いたい。僕はね、小学生だろう。だからなんだ。小学生っていうのは弱いだろう。それは体が弱いだけだろう。僕はね、頭も弱いんだよ」
私が思ったことのないことを、阿久津君はスラリと言ってみせる。そんなことないと言う暇もなく、彼は次のように述べた。
「誰かがギフテッド、つまるところはね、僕の知性は天からの贈り物であって、君の持っているものじゃないなんて言葉にする者がいるけれども、あれは僕のことを何も分かっていないどころか、世界すらも知らない人間の言うことなんだ。これが同じクラスの人が言うならまだしも、大人までこんなことを言う。馬鹿らしいね」
なんだか難しそうなことを阿久津君は整理しないままにぶわっとあふれてきた。
「だからね、僕は科学で自分を守りたいんだよ。僕の心理とか本質とか、そういったものを言葉にするには、僕はあまりにも脆くて愚かで弱いんだ」
それから、彼は深呼吸をした。ずっと喋り続けるのは、阿久津君も疲れるのである。
「だから、どうしてもそういう言葉で取り繕わないと、本当に何もかもが終いになってしまいかねない。とにかくね、なんで科学を信じるのかといえば、それは僕を信じるためだから、としか今は答えられないな」
阿久津君は勝手に議論を自分の中で始めてそれを勝手に終わらせていた。とにかく、自分がスカスカだから科学でいっぱいにしたいってことらしかった。
阿久津君という人はこう見えても、すごくシャボン玉に近い存在なのかもしれない。とってもきれいに見えるけど、触るとパンッと弾けちゃう。
「なんか、シャボン玉みたいだね」
私は、そのまま口にした。すると、阿久津君はこちらをゆっくり振り返り、
「シャボン玉はキレイかい」
と問いてきたので、
「うん。なんかキラキラしてるじゃん。それがとっても不思議で好き。だって、私の生活であんなに輝いているのは見たことないからね」
素朴な思いを告げてみた。阿久津君は、桜に似た香りを頬に絡めて、
「そうか、シャボン玉、みたいか。君からすると、それがピッタリなんだろうね」
私に向かって歯を見せながら、じっとりとほほ笑んでいた。私は彼の笑顔を初めて見たような錯覚を覚えた。
私がそれをぼうっと思い出しながらベッドの中に潜っていた。私はいつも大きいクマさんのぬいぐるみと一緒に寝ている。これが、とっても恥ずかしいけど、そうでなくちゃいけない。
夜はさみしい。夜がさみしいから。だから、一緒に誰かと寝てあげると、さみしい気持ちも収まってよく眠れる。でも、六年生になったのに、いまさらになってお母さんと一緒に寝るのは、もっと違う意味での恥ずかしさがやってくる。
阿久津君にとっての科学は、もしかしたらそういうものなのかもしれない。あの時は、何も思わなかったけれども、私のクマさん人形は、阿久津君の科学なのだろう。
でも、それを使って何から守られているかは全然、見当もつかない。心理とか本質とか、難しい言葉ばっかり言われているけど、そんな言葉は中身がなくって、見せかけのいいハリボテみたいだ。
私は多分、鈍感なのかもしれない。少しは頭でいろいろ考えてみないとダメなのかもしれない。でも、それで阿久津君みたいになったら、阿久津君はそれでも私の話を聞いてくれるなんてことがあるのだろうか。
ベッドの中に入ってみると、頭がグルグルと回りだして止まらなくなる。そういうときの発想は大体弱い心を映すみたいに、びちゃびちゃした考えばっかり浮かんでくる。阿久津君もそうなのかもしれない。いつも、びちゃびちゃしている。だから、それを乾かしたくって堪らなくって、乾かしに行きに本を開いてみたりする。そしたら、上手い具合に乾くときもあるけど、そうじゃないときは逆にプチャプチャしてしまう。
やっぱり、とってもヘンな人。でも、そういうところは嫌いじゃない。なんだか、ヘンテコなんだけど、ちゃんとした人間、純粋な生物なのかもしれない。だんだん、阿久津君の言葉に似てきていて、恥ずかしくなってきたところから、私は記憶を失い始めた。明日にでも、阿久津君のかくしごとを掘り出してみよう。そういう勇気が生まれてきた日だった。
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