第3話「闇堕ち聖女の誕生」

 魔王の唇が離れると、私の身体は経験したことのない感覚に包まれた。今まで「聖女の力」として使っていた、温かく穏やかな光の奔流。それが今、根こそぎ反転していく。冷たく、鋭く、そしてどこまでも深く、全てを飲み込むような闇の力へ。


「くっ……ぁ……!」


 思わず膝から崩れ落ちそうになった私を、魔王の腕が力強く支える。


「案ずるな。お前の器が、本来あるべき姿に戻っているだけだ」


 彼の声は、不思議と私の苦痛を和らげた。見上げると、赤い瞳が面白そうに私を見つめている。


「我が名はノワール。この地の、そして全ての魔族の王だ。以後、そう呼べ」


「ノワール……様」


「様はいらん。ノワールでいい」


 ノワールはそう言うと、私を軽々と抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこだった。追放された日にこんな扱いを受けるなんて、皮肉にもほどがある。


「ここは冷える。我が城へ行くぞ」


 彼が軽く指を鳴らすと、私たちの足元に禍々しい紋様の魔法陣が浮かび上がった。視界が闇に包まれ、次の瞬間には、全く別の場所に立っていた。


 そこは、巨大な城の一室だった。天井は高く、黒曜石と紫水晶で彩られた壁には、怪しくも美しいタペストリーがかけられている。呪われた森の陰鬱さとは全く違う、洗練された闇の空間。

 ノワールは私を部屋の中央にある豪奢なソファにそっと下ろした。


「さて、元・聖女殿。まずはお前のそのみすぼらしい格好をどうにかせねばな」


 彼が再び指を鳴らすと、どこからともなく数人の侍女が現れた。人間とは違う、尖った耳や小さな角を持つ美しい魔族の女性たちだ。彼女たちは驚くほど手際よく、私の泥だらけのドレスを脱がせ、温かい湯を用意し、身体を清めてくれた。

 そして、最後に用意されたのは漆黒のドレス。夜空に星を散りばめたような、繊細な銀糸の刺繍が施された、息をのむほど美しいドレスだった。


 鏡の前に立つと、そこに映る自分の姿に息を呑んだ。

 聖女だった頃の面影は、どこにもない。

 腰まであった柔らかな銀髪は、まるで月光をそのまま固めたかのような輝く白銀に。聖女の証とされた澄んだ青い瞳は、溶かした黄金のような鋭い光を放つ金色に変わっていた。黒いドレスが、その変貌をより一層際立たせている。

 これが、私。闇の力を受け入れた、新しい私。


「悪くないだろう?」


 いつの間にか背後に立っていたノワールが、鏡越しに私を見て満足げにうなずいた。


「さて、エラーラ。お前の力について、もう少し詳しく教えてやろう」


 彼はそう言うと、私の手を取った。


「お前の力の源泉は、生命力そのものだ。今までは『祈り』というフィルターを通して、それを光の治癒魔法として限定的に使っていたにすぎん。だが、フィルターを外した今、お前はその力を自在に扱える」


「自在に……?」


「そうだ。癒やしも、呪いも、破壊も、創造も。全てはお前の意のまま。ただし、今の力の源泉は『祈り』ではない。お前の『感情』だ」


 ノワールは私の瞳をまっすぐに見た。


「特に、憎しみや怒りといった負の感情は、強大な闇の力を生み出す。……アレスとか言ったか。あの男を思い出せ。お前を裏切った者たちの顔を思い浮かべろ」


 彼の言葉に導かれるように、私はあの日の広場の光景を思い出す。

 アレスの冷たい声。リナの嘲笑。民衆の罵声。

 ふつふつと、腹の底から黒い何かが湧き上がってくる。憎い。許さない。あいつらを、全員、この手で絶望の底に叩き落としてやりたい。

 その瞬間、私の右手からどす黒い闇のオーラが立ち上った。それは渦を巻き、凝縮し、鋭い槍のような形を成していく。


「そうだ。そのイメージだ。それを、あの忌々しい王国に向けて放ってみろ」


「ここから……?」


「無論だ。力に距離は関係ない」


 私は言われるがまま、窓の外に広がる遥か彼方の王国の方向を睨みつけた。そして、憎しみの全てを込めて、右手に形成した闇の槍を解き放つイメージを固める。


「――滅びろ」


 呟きと同時に、闇の槍が手から離れ、凄まじい速度で空を切り裂いて消えていった。


 本当に届いたのか半信半疑だった私に、ノワールがくつくつと喉を鳴らして笑った。


「面白いことになったぞ。今頃、王国の食料庫の一つが、中身ごと腐り落ちている頃だろう」


「え……?」


「お前が放ったのは、ただの破壊の力ではない。『腐敗』と『劣化』の呪いだ。食料は腐り、武具は錆び、建物は脆くなる。じわじわと、だが確実に、王国を内側から蝕んでいく厄介な呪いだ。復讐の始まりとしては上出来ではないか?」


 私は自分の右手を見つめた。聖女だった頃には、人を癒やすことしかできなかったこの手が、今や遠く離れた国の食料庫を一つ、丸ごと腐らせてしまったのだ。

 罪悪感はなかった。ただ、胸がすくような、ぞくぞくするような高揚感があるだけ。


「これが……私の本当の力……」


「そうだ。そして、これはまだ始まりにすぎん」


 ノワールは私の肩を抱き、窓の外の景色を示した。眼下には、雄大で、しかしどこか物悲しい魔王領の景色が広がっている。


「これからは、この魔王城がお前の家だ。そして、我がお前の師となり、庇護者となる。その力が完全に覚醒した時、お前は人間などでは到底及ぶことのできない、最強の存在となるだろう」


 最強、という言葉が、甘美な響きをもって私の心に染み込んだ。もう誰にも虐げられない。誰にも裏切られない。私が、全てを支配するのだ。


「よろしくお願いします、ノワール様」


 今度は、はっきりと「様」を付けて言った。彼への敬意と、そして少しばかりの依存。

 ノワールは私の言葉に満足げに笑うと、私の額にそっと口づけを落とした。


「歓迎するぞ、エラーラ。我が新たなる、闇の聖女よ」


 闇に堕ちた聖女は、こうして魔王の城で、復讐のための新たな一歩を踏み出したのだった。

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