小さな逃避行2 ― 休日の終わりに ―
昼を過ぎる頃、目的の駅に降り立った。
ホームの端には潮の香りがかすかに漂い、海が近いことを知らせてくれる。改札を抜けると、駅前にはのどかな商店街が広がっていた。提灯のぶら下がった軒先からは、出汁や油の混ざった食堂の香りが立ちのぼり、思わず笑みがこぼれた。
B級グルメめぐりのスタンプラリーの協賛店のひとつ、「みなと食堂」は駅から歩いて5分ほどの場所にあった。
入口ののれんを潜ると、店内は昼時を少し過ぎたせいか落ち着いており、常連客らしい人が数名、テーブルの上には美味しそうな料理が並んでいた。
店内を見回すと壁には、「B級グルメめぐりのスタンプラリー」のポスターが貼られていて、そこに自分の名前が小さく「企画・取材」と記されているのを見つけた。
なんだか照れくさい気分になる。
4人席のテーブルに座り、メニューを見ながら注文したのは、目的の「激辛たんたんうどん」と「海鮮丼」。どちらも彩りが鮮やかで、思わず写真を撮りたくなった。
たんたんうどんのスープは真っ赤で、レンゲを入れるとふわりと香ばしいゴマと唐辛子の香りが立ちのぼる。辛さの奥に旨味があって、汗をかきながらも箸が止まらない。
そして海鮮丼は、漁港の町らしくネタが新鮮そのもので、口の中でとろけた。
「取材で忙しかったけど…やっぱり来て良かったな」心の中で呟きながら、手帳にメモを取る。
――次回は“埼玉うどん特集”も検討。
そんな事を書き足していると、ふと、隣の席の老夫婦がスタンプラリーの冊子を広げているのが目に入った。
「次はどこ行こうかねぇ」「この辺の焼きそばも美味しいらしいよ」
穏やかなやり取りを聞いているだけで、なんだかこの企画を始めて良かったと思った。自分の考えた企画が、誰かの小さな楽しみになっている。その事実が、静かに嬉しかった。
この企画を実施するにあたり若手の後輩も大いに役立っていた。あのお茶室での上司の会話の事も告白して来た。「元々は先輩の企画だったわけだし」とあの上司に辞退を申し入れたと聞いて驚いた。上司は最初憤慨していたが、「企画を通してもらえるなら、一から自分で考えたい。」と事情を説明して納得してもらった。
今回の企画を通すために上司ともよく話をした。嫌味ばかりの上司がこちらの話をきちんと聞いていた。何か言われても、やんわりと反論すると食いついてくる。
それが結果的に良い方向へ向かう事もあるので、話をするなら嫌味はこの人の言い方だ!と思うようにしていたら、それなりに会話も成立するし、良いアドバイスをくれたりもするようになった。
そして、この「B級グルメめぐりのスタンプラリー」が実現した。
ただし、うどんの話題が出る度に、上司は「うどんなら埼玉だろ~」と言っていたので、 “埼玉うどん特集”も企画しなければと、若手の後輩と話をしたところだった。
食後、町を散策した後、駅に戻る途中の道で、踏切の向こうを走り抜ける電車が見えた。
銀に青と黄色のラインが入った車体。JS-TC外回り線の列車が目の前を駆け抜けていった。
駅に着いてしばらくすると、上り列車がやって来た。
休日のせいか、車内は比較的空いている。JS-TC外回り線は都内までの直通運転がないため、終着駅で一度乗り換える必要がある。だが、その先の直通列車の接続時刻をあらかじめ調べておいたおかげで、安心して座席に腰を下ろすことができた。
終着駅での乗り換え列車。その最後尾で、あの有名車掌が確認作業をしていた。白 手袋が陽射しを反射して、わずかに光る。
その瞬間、乗り換え客の流れが変わった。
スマホを手にした人たちが、次々と後方の車両へと歩いていく。中には、いったん電車から降りてホームを小走りに後ろへ向かう人の姿まであった。
皆一様に、何かを確かめるようにスマホを握りしめている。
「何かあるの?」思わず口に出していた。
理由はすぐに分かった。
発車して間もなく流れた車内放送――それが、あの有名車掌の声だったのだ。落ち着いた声色に、聞き取りやすく、温かみのあるアナウンス。
それを耳にした瞬間、彼を見たいという気持ちが自然に湧いてきた。ほんの出来心で、後ろの車両へと歩き出した。進むほどに人は増え、座席はすでに埋まっていた。やがて10両目にたどり着くと、驚くほど多くの乗客がスマホを構え、彼の車掌動作を録画していた。
その光景に、正直、息をのんだ。こんなにも彼のファンがいるとは――。
だが、次の瞬間には納得していた。
彼の放送は美しく、動作には無駄がない。停車駅のアナウンスを聞きながら、人気の理由が良く分かった。ひとつひとつの動作が絵になる。スマホの中に閉じ込めておきたくなるほど、彼は洗練されていた。
「TVで放送されるのも分かるわ」思わずそんな独り言を漏らして10両目を後にした。
放送だけなら、どの車両にいても聞こえる。ならば、座ってゆっくりと車窓を眺めながら、時おり流れる彼の声を楽しみたい。
終着駅が近づいたころ、再び響いた放送も、やはり丁寧で心地良かった。
乗り換えのためにホームに降り、ふと10両目の方を振り返る。そこでは彼が、きびきびと確認作業を行っていた。
本当は、あの時出会った女性車掌に会えたらと思っていた。
けれど今日は、別の「有名車掌」と出会えた。彼の姿を見た瞬間、胸の奥に不思議な高揚感が広がった。TVを見て反発心を抱いていた自分が恥ずかしくなるほどに。
休みの日に、美味しいものを食べに来たはずが、思いがけず、素敵な出会いに恵まれた。
美味しいものを目指して電車に乗る――
そんな何気ない日常の中で、あの車掌に出会えたことは、小さな奇跡のように思えた。
次の取材先、次の休日、次の“偶然の出会い”。そんな未来の小さな楽しみを胸に、電車のドアが静かに閉まった。
遠ざかる電車を見つめながら、彼女は小さく笑った。
――今日という一日は、間違いなく、少しだけ特別だった。
つづく
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