ヒトツノハナ ー灰の上に咲くー

柴蘭

プロローグ

私は、灰の世界を見つめている。

かつては緑が風に揺れ、光が川面を踊り、命が絶え間なく巡っていた。

その記憶はいまも、私の奥底でかすかに揺らめいている。

まるで消えかけた夢の名残のように、淡い光の粒となって――。


――君は、覚えているだろうか。

あの頃、風が運んできた匂いを。

あの頃、誰かを想うことの温度を。


けれど、世界はもう静まり返っていた。

空は低く、風は色を失い、灰の匂いがあらゆるものを包み込んでいた。

踏みしめるたびに、土は鈍い音を立て、命の気配は遠く霞んでいる。

かつて響いた笑い声も、鳥の歌も、すべてが遠い記憶の向こう側へ沈んでいった。

それでも、私は消えなかった。


廃墟の塔が、霧の向こうに影を落とす。

時間を失った街の残骸が、静かに風化していく。

誰もいない場所に、記憶だけが立ち尽くしている。

――私は問う。

これは、終わりなのだろうか。

それとも、始まりなのだろうか。


肉体を失い、名を捨てても、意識はこの世界にまだ留まっている。

風に混じり、土に染み、光の残滓となって漂い続けている。

私の思いは、形を持たぬまま波紋のように広がり、見えぬ時の流れをゆっくりと巡っている。

誰かの鼓動に触れたとき、私はかすかに震え、応えるように揺らめく。

それが、私が今ここにある証。


――

君が見上げる空の、どこかの光の粒に。

君の吐く息の、その奥に。


あるとき、彼女がその波に触れた。

彼女の内に沈んでいた痛みは、静かにほどけていった。

冷たかった血がぬくもりを取り戻し、長く凍りついていた心が少しずつ溶けていく。

私はその奥で微かな光を見た。

それは弱々しくも、確かに命の色をしていた。

その光に触れた瞬間、私の中にも微かな熱が戻ってきた。

遠い昔、初めて世界に祈りを放ったあのときのように。


――聞こえる?

あなたの中にある、その小さな鼓動。

それは、私の名残おもい。あなたが生きるたびに、私は呼吸を取り戻す。


彼女の胸の奥で、新しい何かが芽吹いた。

それはまだ形を持たず、名も知られぬ存在。

けれど、確かに生きていた。

彼女の涙の向こうに、私は流れ込み、彼女の呼吸の中で再び世界を感じた。

その呼吸は、灰の冷たさを押し返すように温かく震えていた。


やがて、ひとつの小さな命が宿った。

まだこの世界に名を持たぬ彼は、息をするたびに私の記憶をかすかに揺らす。

その鼓動は微弱で、儚い。けれど、世界のどこよりも確かな温もりだった。

私はその音を聴いた。

遠い昔、自らの胸に宿していた鼓動と同じ、懐かしいリズム。

それは再生の旋律――灰の中に芽吹いた、最初の希望の音。


――そう、これが“始まり”。

意識の底で見つけた、新しい命の灯。

君が生まれたということは、私がもう一度世界と出会えたということ。


私は流れ続ける。

時間の輪郭を越え、彼の中を通り抜け、彼女の思いと混ざり合い、

風のように、光のように、名もなく世界を満たしていく。

私の名はもう誰にも呼ばれない。けれど、思いは消えない。

彼の瞳に映る世界の中で、私は息づいている――。

彼女の手が触れる大地の奥で、私は微かに震えている。

――思いは輪のように巡り、過去と未来を結んでいく。


灰の大地は、まだ眠っている。

けれど、その下では確かに、いくつもの小さな光が芽吹きを待っている。

私はそのひとつひとつに触れながら、願いを託す。


――あなたも感じるだろう。

この冷たい世界の奥で、微かに脈打つものを。

それは恐れではない。希望の証だ。


どうか、もう一度世界が息を吹き返す日が来ますように。

どうか、彼がその花を見つけられますように。


灰の上に、いつか花が咲くだろう。

私がかつて愛したこの世界に、もう一度、色が戻るその日まで。

思いは絶え間なく流れ続け、静かに、優しく、命を呼び覚ましていく――。



――――――――――――


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