Boundary Clash

菱公太

プロローグ

 西暦二〇一九年五月。日本、桐葉とうよう市。


 午後の住宅街。一方通行の細い道を二つの傘が並んで進む。ビニール傘の少年と青い傘の少女の間に会話はない。


 少年は先刻から声をかけようとしているのだが、強まる雨と傘のせいで一メートル先の少女の気配を感じ取れずにいる。話の切り出し方が分からないまま、雨粒が傘に当たって弾ける音や濡れてきた靴下の不快感に逃避していた。


「今日で部活も終わりかー」


 先に口を開いたのは少女の方だった。ノイズの中でも耳に届く透き通った声。聞き慣れたその声に引き寄せられるように、少年は少女を見やる。


 同じく見慣れた少女の横顔。その目元は僅かに赤らんでいた。


 県立桐葉高校弓道部主将、瀬理町一瑠せりまちいちるの部活動最後の大会が終了したのは一時間と少し前。三人立ちでは入賞まであと一中及ばず、上位大会進出を逃してしまった。結果を見て泣き崩れる二人のチームメイトを静かに抱きしめていた一瑠だったが、結局は堪えきれず、一緒になって泣いていた。その涙につられて顧問と他の女子部員も泣き出し、最終的には昨日大会を終えていた男子部員数人にまで伝播したのだった。


「……惜しかったな。もう少しだったのに」


「うん。すっごく悔しい。麻衣まいはるかちゃんも、それにつかちゃんもあれだけ練習に付き合ってくれたのに……」


 大会までのおよそ一ヶ月間、一瑠とそのチームメイトは放課後の練習に加えて、居残り、朝練、休日返上と弓道漬けの毎日を送っていた。あくまで自主的な練習ではあったが、部活動には教師の監督が義務付けられている。そのためか、顧問である大塚おおつか教諭は明日から一週間、部活動の休止を宣言したのだった。


「でも……すっごく楽しかった。特訓のことだけじゃなくて、弓道部で過ごした時間ぜんぶが楽しかったよ」


「……そうか」


 今の瀬理町一瑠には一人で物事に整理をつけ、前に進むことのできる強さがある。とっくの昔からそうだった。独りで走れるようになった自転車に補助輪は必要ない。ただ走行を邪魔するだけなのだ。


 一瑠が一歩前に出て立ち止まり、少年の顔を覗き込む。


「あっくんは、部活楽しかった?」


 一瑠と目が合う。その大きな黒い瞳に捕まる。こうなれば逃れられず、嘘をつくこともできない。


「その呼び方、やめろ」


「ごめんごめん、久しぶりに呼んでみたくなっちゃって。……それで、どうだった?」


 何かを期待しているのか、からかっているのか。少年が答えるまでは通せんぼを決め込む様子の一瑠。


「…………弓道部にいながら退屈するほうが難しいだろ」


 気恥ずかしさのなかの精一杯の抵抗。それを聞いて一瑠は少し目を細めたが「許してあげる」と言わんばかりにうなずいて、再び歩き出した。


「色んなことがあったもんね」


「──ああ。数えきれないくらいあった」


 一瑠が的紙まとがみ貼り競争で前人未到の五連覇をしたこと。合宿のカレー作りで野菜の大半が消失したこと。金的大会ではなかなか的中者が出ずに日が暮れたこと、デートに行くという大塚先生の服装チェックと称してファッションショーが開かれたこと。笑い話、失敗談、秘話。次々に咲く思い出ばなしの数々。それらはもう、積み重ねられることはない過去。


「…………」


 瀬理町一瑠と彼が部活動の仲間だというのも、もう過去の話。減っていく接点。薄れていく関係性。これが自然で正しい終わり方なのかもしれない。迷いと焦り、寂しさと安堵が少年の心から染み出していった。




 ひとしきり思い出話を語り合った二人。これまでの話は終わり。今からするのはこれからの話。


「部活も終わったし、進路のことも考えなきゃ」


「進路か。考えたくないな」


 少女の独り言にも聞こえるトーンの声に、少年は悪態をつく。いつもの仏頂面がやや険しさを増した。そんな彼も、小学生までは誰よりも感情豊かに笑ったり泣いたりしていたことを少女は覚えている。忘れられない。今のようになってしまったのは、きっと“あの出来事”のせい。


 弓道部会計にして一瑠の幼馴染み、伊形慧いがたあきらは普段から見方によっては不機嫌そうな表情をしていた。それに加え、ものをはっきり言うせいで周囲、特に後輩たちから誤解されやすかったが、今では「表情筋が貧弱なだけのぶきっちょな先輩」という認識が一般的となっている。


 しかし、少女にしてみればこんなに分かりやすい人はいない。表情のコントロールが下手というのは、裏を返せば心情が顔に出やすいということなのだ。それでも、慧の表情の機微を楽しむことができる上級者は、現時点で瀬理町一瑠と、もう一人の幼馴染みだけである。


「でも、進路希望調査の初回提出、来週でしょ」


「そう、だったか?」


 目線をやや上へ逸らす。これはとぼけている顔。


「ねえ、慧は進路どうするの? 進学か就職」


「……とりあえず進学のつもり。ばあちゃんが大学には行っておけって。地元の国立。といっても一つしかないけど」


「なあんだ、ちゃんと考えてるんじゃない」


「考えてるもんか。そう言われて俺に拒否権なんかない。あの人たち祖父母は、なんだ」


「……ひねくれ者」


「うるさい……それより、そっちはどうするんだよ、進路」


 慧の切り返しに対し、少女は静かに、決意を口にする。


「わたしも、地元の国立にする」


「──それ、今決めなかったか?」


「ううん。ずっと前から決めてたよ」


 青の傘が一歩前を歩く。今はきっと、泣き顔よりも見られたくない表情をしているだろう。まだ見られるわけにはいかない。


「なんだそれ」


 呆気に取られる慧。その声を聞いて少女は安堵と寂しさを感じる。まだこのままでいい。来るかどうかも分からない“そのとき”まで、この気持ちはしまっておこうと決めたのだ。




「なあ、一瑠」


「ん?」


 慧は切り出したはいいものの、あとの言葉がなかなか出てこない。


「…………志望校が同じってことは、卒業後も同じ学校ってことだよな」


「──ふふっ。なにそれ、まだ合格もしてないのに」


「そりゃそうだけど……」

 慧は手に持っていた傘を肩で支えるようにした。前が見えないくらい視界が遮られる。


「…………なあ一瑠。俺さ──」


「うわっ!」


 背後からの突風。一瑠の青い傘が飛ばされていく。


 ──なんて間が悪いんだ……!


 自分のビニール傘を一瑠の上で広げた慧。頭と肩に冷たい感触が広がる。


「これ持ってろ。走りにくい」


 反射的に差し出された細い手に傘の柄を押し付けて、慧は走り出す。頬の茹であがった少年を嘲笑うように、青い傘は転がっていく。


「おいおい、どこまで行くつもりだよ……!」




 走り去る慧を見送る一瑠。どんどん濡れていくワイシャツ。浮き彫りになっていく輪郭。若干細くはあるものの、間違いなく男子の背中だ。


「…………」


 大立ち回りを演じた慧は、十メートルほど先の道の真ん中で傘の捕獲に成功した。一部始終を見届けて、一瑠は彼のもとへ歩き出す。


「ありがと。大丈夫?」


「なんとか……溺れるくらいびしょびしょだけど」


 笑い合う二人。幸いにも、一瑠の家はもう近い。お風呂と着替えを貸そうなどと考えていると──


 再び、一瑠の背後に何かが迫る。今度はけたたましいエンジン音。


「────ッ!」


 一瑠と向き合っていた慧は、猛スピードで突っ込んでくる車にいち早く気がつき血相を変えた。音と彼の視線を追って一瑠も振り返る。


 スローモーション。


 視界一面を埋め尽くす黒。


 咄嗟に目を瞑る。


 背中に衝撃。


 轟音。


 ブラックアウト。





「────ウッ」


 警報。


 水の匂い。


 冷たく激しい雨。


 頭と足に鈍い痛み。呼吸が苦しい。


 ──わたし、なにしてるんだっけ?


 ゆっくりと目を開ける一瑠。


 数メートル先の民家の塀。そこに突っ込んで止まっている黒いバン。雨に滲んで点滅するハザードが、何かをしきりに訴えている。


「──?」


 倒れている一瑠の横を通る水の流れが、側溝へ吸い込まれていく。小さな急流はどういうわけかあかみがかっていて、少女は視線でその川を遡る。そこには骨組みが折れた青い傘。それと──


「あき、──らっ!」


 声が上手く出せない。それでも呼び続けた。何度呼び掛けても“それ”は応えない。


 深紅のまだらに染まったワイシャツ。ありえない方向に捻じ曲がった手足の関節。


 伊形慧の身体は、すでに温度を失っていた。

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