生きて帰った英雄と、仇の娘の後悔と日々

羽園零雅

第1話 不幸の序曲は長調で







 実のところ、初めはあまり嬉しいとは思えなかった。いくらベルティス候爵がこの国有数の資産家でも名門でも、私は新しい父親が欲しいと思ったことなどなかったのだから。



 お母様が亡くなったお父様ではない男性と結婚などすること、住み慣れた元の家から移らなければならないこと、友達と別れなければならないこと、他にも気に入らないことは多々あったが、特に受け入れられなかったのは、少し前まで何の関わりもなかった子供たちの中に放り込まれたことだ。

 一日や二日では他人を家族としては見れないというのは、当たり前の気持ちではないだろうか。



 初めて顔を合わせた時などあまりの彼我の差に圧倒されて、挨拶さえ忘れてしまった。

 父親から末の男の子まで全員が麗しく、私も恥ずかしくはない服装をさせられてはいたが、それでも違いは歴然としていた。 



 嫌だった。自分のくすんだ薄茶の髪と青緑色の目が、明らかに浮いていたことが。

 よく似た四人の姉弟はずっと仲良く談笑していて私が話しかけられる隙など存在せず、これから毎日こうなのかと思うと、早くも生家に帰りたくて仕方がなかった。



 しかし、その心配に限れば全くの杞憂だったと言える。彼らフライナ姉弟は距離を測りかねていただけで、私たち母娘を歓迎していなかったわけではなかったのだ。

 実際に一緒に暮らしてみると、とても優しく親しみやすい人たちだった。私はすぐに、全員と仲良くなった。



 コルデリアとは一緒に縫い物をして、お義父様とロドルフには街に連れて行ってもらった。テオドールからは外国語を教わり、オルランドとは野や森を駆け回って遊んだ。

 思い上がりではなく、私たちは本当に五人姉弟だったのだ。



 特に同い年のオルランドとは、いつも一緒だった。一緒に本を読み、森の木に登り、羊を構って暮らした。久しぶりの幸せだった。実のお父様が生きていた頃と同じくらいに。



「ディーナ」

 今でも鮮明に覚えている。初夏の柔らかい草の上で、採ったばかりの木苺を分け合って食べていた。彼の銀髪が風に揺れ、その横ではかわいい子羊が眠る、平和な時だった。

「なあに?」

「首都って行ったことある?」

 それまでの話と全く脈絡のない質問が来たので、思わず首を傾げた。



「そうね、たまにお父様に連れて行ってもらってたわ。どうして?」

「聞いてみただけだよ。父上が、僕は向こうの学校に入れるって言ってたから」

「……ふーん。そうだったの」

 初めて聞いたことだったので、驚きで特に中身のない答えを発した記憶がある。



「全寮制? あちらの家から通うの?」

「全寮制。なんかめちゃくちゃ厳しいらしいよ」

「ええ……あなたはいいの? それで」

「……わざわざ断るほどではないな。勉強は嫌いってわけでもないし。ここもいいけど、都会に住むのも好きだからさ」



「……そう。よかったじゃない。それって、もう決まってることなの?」

「多分。父上にそれでいいか聞かれた時、分かったって言ったから」



 降って湧いた不安と失望が、胸を塞いだ。何の根拠もなくオルランドはずっとベルティスにいて、私のそばにいるのだと思っていたのだ。

 それなのに急に現実を見せつけられて、どうしたらいいのか分からなくなった。



「……そうなったら、もうあんまり会えなくなるでしょうね。向こうは結構遠いから」

「……そんなことないよ。いつでも会える方法がある」

 オルランドは、私に向き直った。



「僕について来ればいいだろ」

「……え?」

「もちろんしばらくは無理だけどさ……卒業したら、一緒に住もうよ。今みたいに」



 私は長い間返事をせず、残りの木苺を口に運んでいた。ふわふわした子羊が身じろぎし、木の葉のそよぐ音がいつまでも響いていた。

 そしてついに、腕を広げてオルランドの首にしがみついた。



「……楽しみね」

 髪に頬を擦り付けると、彼も私の胴に手を回した。長く続いた抱擁に、口付けも加わった。

 草の上に寝転び、唇と腕を離してからも距離まで離すことはしなかった。



 近い未来にオルランドがベルティスから出ると予定されていても、私たちは幸せだった。

 ロドルフ兄様が婚約し、オルランドが末子ではなくなった。皆で新年を祝い、揺り籠を揺らし、旅行に行った。

 そして今にして思うことは、私は本当に学ばないということだ。



 これまでが楽しかったからと言って、それがいつまでも続くという保証はどこにもない。実のお父様が亡くなった時、オルランドが遠くの学校に入ると聞かされた時と二度も経験したはずだったのに。



 だがまさかお義父様もコルデリア姉様も、ロドルフ兄様もテオドール兄様も殺され、オルランドは行方不明のまま十年が過ぎるなどとは夢にも思わなかった。







 それまでは何もおかしなことはない、夏の休暇期間の夜だった。わずかに残った者たち以外は皆帰省していたので、屋敷の中が妙に静かに感じられた。

 その時はお姉様とロドルフ兄様以外はまだ十五歳に届いていなかったので、食卓へ行かずに子供たちで集まり遊んでいた。



 そうしているとある時、急に階下が騒がしくなり、意味の聞き取れない大声が屋敷の中に響きわたっていた。

「またか。相変わらずうるさいな」

「え、何なの?」

「父上とロドルフ兄さんの喧嘩だよ、いつもこうなんだ。最近はあんまりやってなかったけど」



「ディーナも見るか? 見てるだけなら面白いよ」

「えー、嫌ですけど」

「そうですよ、いけませんよテオ坊ちゃん。また旦那様にお叱りを受けますよ」

「だって、最近ずっと部屋の中にいるんだよ。いいじゃんそのくらい」



 私は笑いを堪えながら、こっそり兄弟に目配せした。それから、姉やのベリンダに飛びついた。

「きゃっ! お嬢様!」

「行って! 早く、早く!」

 テオドールとオルランドは、笑い転げながら走り出て行った。

 この場面の記憶には、何年経っても慣れることはない。これが、最後に見たテオドールの生きた姿、オルランドの少年の姿だった。



 ベリンダはずっと説教をしていたが、末弟のイフィクレスが泣き始めたのでそちらにかかりきりになった。

 私も弟に集中していて、しばらく二人のことは忘れていた。しかし銃声らしき音が聞こえて、私と彼女のどちらもぱっと顔を上げた。



「銃だったわよね? 今の」

「そうですね? 狩りでしょうか」

「もうとっくに暗くなってるのに?」

 などと話していると、誰かが乱暴に扉を開けた。



「ディーナ!」

「えっ? お姉様?」

 崩れて垂れ下がる髪にも構わず、義理の姉が駆け込んできた。

「まあ、まあ、コルデリアお嬢様! お怪我を⁉︎」

 見ると確かに肩に走る赤い線から血が滴り、夜用の服の胸元が裂けていた。私はゾッとしたが、どうにか適当な布を持ってきて押さえつけた。



「誰か、変な人たちが急に……! お父様とロドルフたちがどうにかしてるけど、人数が多くて……ああもう、痛いわディーナ……!」

「強盗ですか⁉︎ そんな、どうしましょう……!」

「さっき廊下でも見たわ、ここまで来るかもしれないの! 下の村まで逃げましょう!」



「でも、オルランドとテオドール兄様を呼びに行かなくちゃ……! お母様は⁉︎ 皆は⁉︎」

「二人ならもう下で会ったわ、先に逃げるように言っておいたの。お義母様はお父様とロドルフといるから大丈夫よ!」

「……でも……」

 ベリンダはぎゅっと目を閉じた。



「……早く先生に診ていただきましょう。きっと大丈夫ですよ、テオドール坊ちゃんもオルランド坊ちゃんもお強いですから。他の方々もご無事のはずです。さあディーナお嬢様、イフィクレス坊ちゃんをお願いしますよ」



 私たちは必死に館の中、森の中を進んだ。お姉様が何度も苦しげに足を止める間、私はイフィクレスが泣き出して賊に見つかりはしないかと気が気ではなかった。

 木の枝に怯え、茂みの陰に震えながら村を目指した。明かりの下に入れた時には、安心しすぎて立ち上がれなかった。



 呼んでもらった医者は助からないかもしれないと言っていたが、私は信じなかった。大きい傷だったが、それほど深くはなかったからだ。

 だが、結局はその先生の言った通りになった。お姉様はひどく痙攣して、最期には傷口の周りが変色していた。刃に毒が塗られていたらしい。

 私にはただ、無責任に励ますことしかできなかった。



 その後、村で呑んでいた連隊の兵士たちが家族を探し出して、並べてくれた。テオドール兄様は銃で撃たれ、ロドルフ兄様は剣で刺されていた。お義父様はそのどちらもだった。

 唯一の救いだと思ったのは、お母様が物置きに隠れていて無事だったことだ。見つけた時には、抱き合って泣いた。



 太陽が昇ると、皆でオルランドを探し回った。だがどこにも見つからなかった。

 敷地の中、森、川、麦畑、牧草地、村、隣町、どこにもいなかった。五日目、ベリンダに引きずられて村に戻った。



 警察は、犯人たちは二階の窓から侵入したのだろうと言っていた。

 そう聞いて、私の脳裏にある映像が蘇った。

 あの日、あの夕方。お母様は確かに二階の部屋で、私に言った。



「空気が悪いから、窓を開けておいて」

 と。



 その時は私とお母様、イフィクレスしかいなかったので、特に疑問にも思わなかった。そして、私はそのまま窓を閉めなかったのだ。



 それだけならまだ不幸な偶然と思い込めたかもしれない。けれども私は四人で逃げていた時、庭と森の境目で見ていた。

 人影が、木の向こうにあったのを。



 思考も体も硬直して動くことができなかったが、それはそのまま通り過ぎていった。

 そのため、コルデリアとベリンダには鹿がいたと説明した。人間がいたという可能性など口に出したくもなかったし、過ぎたことで余計な恐怖を与えたくもなかった。



 だが、だが。私は元々、館と森を抜けて村へ逃げるなんて計画には賛成できなかった。途中で会敵するとしか思えなかったからだ。

 しかし実際にそうなったにもかかわらず、私とイフィクレス、ベリンダは無事に逃げ延びられている。その理由に思い至った時は、気絶するかと思った。



 私たちはあの時、見逃されたのだ。お姉様はもう長くはないと知っていて、ベリンダと私たち姉弟は初めから標的ではなかったから。

 どうして? そんなことは考えるまでもない。お母様の、血の繋がっていない子供ではないからだ。



 ベルティス候爵の実子であるイフィクレスは、れっきとしたフライナ家の相続人の一人だった。だがロドルフ兄様は既に婚約していた上、その次にはテオドール兄様とオルランドがいる。

 順当に行くとなると、イフィクレスが跡継ぎになれる確率は限りなく低かった。

 自分にとっての長男に全てを与えるために、夫とその子供たちを殺戮したに決まっている。



 だがそこまで察せていても、私にできることは何もなかった。一応生き残るに至った経緯は包み隠さず証言したものの、それだけで候爵夫人を捕まえられるわけもない。

 襲撃犯は全員死体となって発見された上に母との繋がりは認められず、オルランドの行方も容として知れなかった。



 全員が埋葬され、ついに中身のない墓を一つ用意した後になっても、手掛かりは全く出てこなかった。

 もうその頃になると涙も枯れ果て、親戚、知り合いの目線や囁き声にもある程度は耐えられるようになった。

 ただ数多の陰口や嫌がらせがある度に皆との思い出や叫び声、血溜まりの臭いが蘇り、そうなると立ってもいられなくなった。



 しかし、私にはまだ希望があった。オルランドは、まだ見つかっていない。

 あの子は生きているに決まっている。ただ警戒して、どこかに隠れているだけだ。必ず見つかる。

 あの優しい赤紫色の目、手の感触、声を全て覚えているのに死んでいるわけがない。あの子が私を置き去りにするはずがない。私には分かっていた。

 その確信とコルデリアとの約束が、幸福と惨劇が染みついたこの屋敷の中に耐えさせた。



 あの夜、お姉様は苦しい息の中でこう言った。

『ごめんね、二人とも……私の代わりに、あの子たちを迎えに行ってあげて……』



 それが最後だった。義姉が今、何を思っているのかは分からない。

 私にも原因の一端があると知っていたら、きっとあんなことは言わなかっただろう。それとも母を疑っていた上で、私のことは信頼してくれたのだろうか。

 だがきっと、見守ってくれていると信じたい。義父も、義兄二人も。



 ああ、ごめんね。

 本当にごめんなさい。謝ったからって許されることではないけど、でも、謝らないよりはましでしょう。本当にごめんなさい、知ってさえいれば……。

 ごめんね、でも、せめて最後の約束くらいは守らせてね。大丈夫よ皆、どうか見ていて。私だけは、何があっても絶対に諦めないから……。



 姉弟の中で一番初めに話しかけてきてくれたコルデリアの姿は、何年経ってもすぐに思い出すことができる。

 義父には実の子供たちと分け隔てなく、とても優しく接してもらった。

 ロドルフは時に穏やかで、時に決然とした性格だった。

 それから誇り高く、責任感が強かったテオドール。

 彼らの無辜の魂に誓って、オルランドを探し出すことだけが人生の使命だった。

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