健康で文化的な最低限度の霊活
采宮
第1話 悪夢
桐下いのむは、夜ごと同じ夢に追われていた。
夢の中の街は、現実とほとんど変わらない。灰色のアスファルト、無機質なビル群、街灯の下で揺れる電線。だが、そこには人影が一つもなく、ただ彼女の背後から「何か」がついてくる。
最初は遠かった。振り返れば、街の端に黒い影が立っているだけだった。 だが夢を重ねるごとに、その距離は縮まっていった。 昨日は十メートル。今夜は五メートル。
影は顔を持たない。だが、輪郭は次第に濃く、肉の塊のように膨れ上がっていく。 黒い靄の中からは、脈打つような赤黒い筋が浮かび、まるで血管が外に露出しているかのように脈動していた。 皮膚のない肉片が寄せ集まって人型を模している――そんな嫌悪感を伴う存在感。 揺らめく度に、湿った音が耳の奥に響く。
それでも、確かに「こちらを見ている」とわかる。 眼球はないのに、肉の奥から視線だけが突き刺さってくる。 見られている、追われている、捕まえられれば終わる――その確信だけが、夢の中で彼女を突き動かしていた。
目が覚めると、全身は汗で濡れ、心臓は暴れるように脈打っている。
枕元の時計は午前三時を指していた。
「……またか」
声に出すと、部屋の空気がひどく重く感じられた。
六畳一間のアパート。壁紙は薄汚れ、隣室のテレビの音がかすかに漏れてくる。
現実のはずなのに、夢の続きのように息苦しい。
桐下いのむには兄がいた。 両親の愛情は、ほとんどすべて兄に注がれていた。 成績優秀で、親戚の集まりでも褒められる兄の隣で、いのむはただ「比較対象」として存在していたにすぎない。
「お前は本当に手がかかる」 「兄さんを見習え」
そんな言葉を繰り返し浴びせられ、やがて彼女は「自分は愛されていない」と確信するようになった。
短大に進学できたのは、決して期待されていたからではない。 学費を出してもらえた理由は、母の口から直接聞かされた。
――馬鹿な娘がいると思われるのは不愉快だから。
その一言が、胸に深く突き刺さった。 だからこそ、いのむは実家から一番近い短大を選び、卒業と同時に逃げるように家を出て就職した。 愛されなかった家から、少しでも遠ざかるために。
しかし会社に就職できても、そこもまた悪夢だった。 蛍光灯の白い光に照らされたオフィス。 机の上に積み上がる書類。 「昨日までに」と赤字で書かれたメール。 上司の舌打ち。 お局の無視。同僚の無言の視線。 年配幹部のセクハラ。後輩からの嘲笑。
五年も勤めているのに、いのむの存在は空気のように扱われていた。 いや、空気よりも悪い。空気はなくてはならないが、彼女は替えの利く部品、そして皆のストレスのはけ口にすぎなかった。
転職すればいい――頭では何度もそう考えた。 だが現実は、そんな単純な話ではなかった。
貯金はほとんどない。 給料は低く、残業代も出ず、生活費で消えていく。 引っ越し資金も転職活動の余裕もなく、辞めた瞬間に路頭に迷う未来がはっきりと見えていた。
さらに追い打ちをかけるのは、会社からの「脅し」だった。
「お前に任せているのは重大な案件だ。途中で投げ出せば会社が潰れる」
「責任を取れるのはお前しかいない」
そう言われ続け、桐下はいのむは次第に信じ込まされていた。 本当は替えの利く歯車にすぎないのに、自分が辞めれば全てが崩壊するかのように思い込まされていたのだ。
だから、辞めたいのに辞められない。 逃げたいのに逃げられない。 その矛盾が、彼女の心をじわじわと削っていった。
…そういう星の下に生まれてしまったのだろう。しょうがない、しょうがない。そう自分を励まし、誤魔化しながら今まで生きてきた。
しかし、夜になると、また夢が来る。これだけは誤魔化しようがない。 逃げても逃げても、ソレは確実に近づいてくる。 目覚めても疲労は抜けず、むしろ削られていく。
「いや…いや…いやぁ…!!」
肉体も精神も摩耗し切り…いのむはついに会社を無断で休んだ。
朝の光の下、彼女は町を彷徨っていた。 コンビニの前で鳩が羽ばたく音に怯え、信号待ちで隣のサラリーマンの咳払いに肩を震わせる。
「……もう、だめかもしれない」
もう、いっそのことこのままビルの屋上から…そんな考えが頭を過る。
不意に、声がかかった。
「おい、そこの嬢ちゃん」
声は低く、湿った路地裏の空気に溶け込むように響いた。
振り向くと、スーツを着崩し、その顔には複数の傷跡を持つ、ヤクザのような男が立っていた。
周囲を見回しても、今周囲には自分とその男以外に誰も居ない。明らかに堅気には見えない男に目を付けられた事実に困惑しながらも、疲弊しきっている今のいのむは彼に怯える気力すら無かった。
「……どちら様ですか」
声を出した瞬間、自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
男は口角をわずかに吊り上げた。笑っているのか、顔の筋肉が痙攣しているのか判別できない。
「俺は霊媒師だ」
その言葉に、いのむの背筋を冷たいものが這い上がった。 夢の中で感じていた『視線』と同じものが、今この現実で彼女を射抜いている。
「ひっでえ顔色だな。……お前、悪霊に追われてるだろ」
男の声は、まるで彼女の胸の奥に直接落ちてくるようだった。 否定しようと口を開いたが、声が出ない。 代わりに、夢の中で迫ってきた化物の気配が脳裏に蘇る。 その影と、この男の存在が、どこかで繋がっているような錯覚に陥った。
男は一歩、彼女に近づいた。 靴音はしない。 ただ、空気が押し寄せるように重くなる。
「今からしっかり飯を食って、風呂に入り、ストレッチをして八時間眠れ」
「…は?」
「それがお前が唯一生き残れる道だ」
「……は?」
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