湯気の向こう側

よし ひろし

第一話 湯気の向こう

 東京の喧騒が遠ざかる郊外の、寂れた商店街の片隅にその店はあった。


『らーめん福来軒ふくらいけん


 昼間は固くシャッターが下り、人の気配すらない。この店が息を吹き返すのは、時計の針が真夜中を指してからだ。


 大学二年の小泉遥こいずみ はるかが、この奇妙なラーメン屋のアルバイトとして初日を迎えたのは、月も隠れた暗い夜だった。求人サイトで見つけ、近所だったのとそれなりの時給に釣られたのだが、面接の時から何かがおかしいと感じてはいた。


「小泉さん、だったな」


 店主の福田源蔵ふくだ げんぞうは、厨房の寸胴鍋をかき混ぜながら、背中を向けたまま言った。齢七十は超えているだろうか。深く刻まれた皺と、岩のように動かない背中が、彼の生きてきた時間を物語っている。


「はい、よろしくお願いします」


 遥の返事に、源蔵は一瞬だけ手を止め、壁にかけられた古びた木札を顎で示した。黒光りする木札には、筆で書かれたような独特の字体で三つの文が刻まれている。


「うちにゃあ、掟がある。それを守れるなら、働かせてやる」

 源蔵は低い声で、木札の文字をなぞるように言った。


「一、客には話しかけるな

 一、ラーメンは、一杯だけしか出すな

 一、客が帰る際は、湯気が消えるまで見送れ」


「……掟、ですか」

 遥は思わず聞き返した。まるで、古い言い伝えのような響きだった。


「ああ、掟だ」

 源蔵はそれ以上何も言わず、再び鍋に向き直った。


 厨房は、豚骨と野菜が煮込まれる濃厚な匂いと、絶え間なく立ち上る湯気で満たされていた。その湯気はあまりに濃く、まるで乳白色のカーテンのように店内を覆い隠し、ガラス窓の向こう側の景色を曖昧にぼやかしていた。店の奥には、場違いなほど立派な神棚が祀られており、薄暗い照明の中で静かな存在感を放っている。


 営業開始の午前〇時。


 ガラガラガラ……


 開店を知らせる暖簾を出す間もなく、店の扉が静かに開いた。


 最初の客は、よろよろと入ってきた中年のサラリーマンだった。雨にでも濡れたのか、スーツの肩がじっとりと湿っている。彼は何も言わずにカウンターの隅の席に座った。


「……お待ちどう」


 源蔵が、湯気の立つラーメンを客の前に置く。客は無言で箸を取り、黙々と麺をすすり始めた。表情はなく、まるで何かの儀式をこなしているかのようだ。


「……」


 遥は源蔵に言われた通り無言のまま、その様子をカウンター内から見守っていたが、心中では奇妙な違和感を覚えていた。それが何なのか自分でも分からないまま、その客はラーメンを食べ終え、料金をカウンターに置くと店を後にする。


 すると、源蔵が厨房から出てきて客の消えた扉をじっと見送る。そして、しばらくすると、遥へと声をかけた。


「丼と金を頼む」

「あ、はい」


 客の残した代金をキャッシャーに入れ、空になった丼を下げる遥。


「あ、あの店長、その…今のは――」

「掟をただ守れ。それ以上は知ろうとするな。知れば、お前も『あちら側』へ行くことになる」

「え、あちら側?」

「次の客が来るまでに、洗い物をしておけ」


 源蔵はぶっきらぼうにそれだけ言うと、寸胴鍋へと顔を向けた。それ以上話す気はない――そんな雰囲気を感じ取り、遥は言いつけられた通り、洗い物をした。




 その日から、遥の不思議な夜が始まった。客は、午前〇時から三時の間に、まるで申し合わせたかのようにぽつりぽつりと現れる。誰も言葉を発しない。年齢も性別も服装もバラバラなのに、全員が同じような虚ろな目をしていた。彼らは決まって一杯のラーメンを食べ終えると、静かに席を立ち、代金をカウンターに置いて出ていく。


 遥の仕事は、その代金を片付け、空になった丼を下げ、その洗い物をするだけだった。源蔵の言いつけ通り、客に話しかけることはしない。しかし、客たちが放つ異様な雰囲気は、遥の心を少しずつざわつかせた。彼らは生きている人間が持つはずの、活気や体温といったものを一切感じさせなかったのだ。まるで、この世のものではない何かが、人の形をしてそこに座っているような……


 特に奇妙だったのは、最後の掟――「湯気が消えるまで見送れ」――だった。客が店を出ていくと、源蔵は必ず厨房から出てきて、客が消えた扉の向こうをじっと見つめる。掟に従い遥もそれに倣った。

 そのうちに、食べ終えた客の身体にラーメンから立ち上った湯気がまとわりつき、立ち上っているのに遥も気づいた。客はその湯気をまとったまま、夜の闇へと消えていく。その湯気の最後の一片が見えなくなるまで、源蔵は微動だにせず見送っていたのだ。それは、まるで何かの魂を見送る儀式であるかのように、遥は感じた。


「……」


 遥はその事について源蔵に何度か尋ねようとしたが、できなかった。何か聞いてはいけないもののような気がして、言葉に出せなかったのだ。


(湯気の向こう側には、一体何があるのだろうか……?)


 疑問は霧散することなく、遥の心の中に深く澱のように沈んでいった。


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