湯気の向こう側
よし ひろし
第一話 湯気の向こう
東京の喧騒が遠ざかる郊外の、寂れた商店街の片隅にその店はあった。
『らーめん
昼間は固くシャッターが下り、人の気配すらない。この店が息を吹き返すのは、時計の針が真夜中を指してからだ。
大学二年の
「小泉さん、だったな」
店主の
「はい、よろしくお願いします」
遥の返事に、源蔵は一瞬だけ手を止め、壁にかけられた古びた木札を顎で示した。黒光りする木札には、筆で書かれたような独特の字体で三つの文が刻まれている。
「うちにゃあ、掟がある。それを守れるなら、働かせてやる」
源蔵は低い声で、木札の文字をなぞるように言った。
「一、客には話しかけるな
一、ラーメンは、一杯だけしか出すな
一、客が帰る際は、湯気が消えるまで見送れ」
「……掟、ですか」
遥は思わず聞き返した。まるで、古い言い伝えのような響きだった。
「ああ、掟だ」
源蔵はそれ以上何も言わず、再び鍋に向き直った。
厨房は、豚骨と野菜が煮込まれる濃厚な匂いと、絶え間なく立ち上る湯気で満たされていた。その湯気はあまりに濃く、まるで乳白色のカーテンのように店内を覆い隠し、ガラス窓の向こう側の景色を曖昧にぼやかしていた。店の奥には、場違いなほど立派な神棚が祀られており、薄暗い照明の中で静かな存在感を放っている。
営業開始の午前〇時。
ガラガラガラ……
開店を知らせる暖簾を出す間もなく、店の扉が静かに開いた。
最初の客は、よろよろと入ってきた中年のサラリーマンだった。雨にでも濡れたのか、スーツの肩がじっとりと湿っている。彼は何も言わずにカウンターの隅の席に座った。
「……お待ちどう」
源蔵が、湯気の立つラーメンを客の前に置く。客は無言で箸を取り、黙々と麺をすすり始めた。表情はなく、まるで何かの儀式をこなしているかのようだ。
「……」
遥は源蔵に言われた通り無言のまま、その様子をカウンター内から見守っていたが、心中では奇妙な違和感を覚えていた。それが何なのか自分でも分からないまま、その客はラーメンを食べ終え、料金をカウンターに置くと店を後にする。
すると、源蔵が厨房から出てきて客の消えた扉をじっと見送る。そして、しばらくすると、遥へと声をかけた。
「丼と金を頼む」
「あ、はい」
客の残した代金をキャッシャーに入れ、空になった丼を下げる遥。
「あ、あの店長、その…今のは――」
「掟をただ守れ。それ以上は知ろうとするな。知れば、お前も『あちら側』へ行くことになる」
「え、あちら側?」
「次の客が来るまでに、洗い物をしておけ」
源蔵はぶっきらぼうにそれだけ言うと、寸胴鍋へと顔を向けた。それ以上話す気はない――そんな雰囲気を感じ取り、遥は言いつけられた通り、洗い物をした。
その日から、遥の不思議な夜が始まった。客は、午前〇時から三時の間に、まるで申し合わせたかのようにぽつりぽつりと現れる。誰も言葉を発しない。年齢も性別も服装もバラバラなのに、全員が同じような虚ろな目をしていた。彼らは決まって一杯のラーメンを食べ終えると、静かに席を立ち、代金をカウンターに置いて出ていく。
遥の仕事は、その代金を片付け、空になった丼を下げ、その洗い物をするだけだった。源蔵の言いつけ通り、客に話しかけることはしない。しかし、客たちが放つ異様な雰囲気は、遥の心を少しずつざわつかせた。彼らは生きている人間が持つはずの、活気や体温といったものを一切感じさせなかったのだ。まるで、この世のものではない何かが、人の形をしてそこに座っているような……
特に奇妙だったのは、最後の掟――「湯気が消えるまで見送れ」――だった。客が店を出ていくと、源蔵は必ず厨房から出てきて、客が消えた扉の向こうをじっと見つめる。掟に従い遥もそれに倣った。
そのうちに、食べ終えた客の身体にラーメンから立ち上った湯気がまとわりつき、立ち上っているのに遥も気づいた。客はその湯気をまとったまま、夜の闇へと消えていく。その湯気の最後の一片が見えなくなるまで、源蔵は微動だにせず見送っていたのだ。それは、まるで何かの魂を見送る儀式であるかのように、遥は感じた。
「……」
遥はその事について源蔵に何度か尋ねようとしたが、できなかった。何か聞いてはいけないもののような気がして、言葉に出せなかったのだ。
(湯気の向こう側には、一体何があるのだろうか……?)
疑問は霧散することなく、遥の心の中に深く澱のように沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます