亡花/艶 歌う女

神田或人

【00】子守唄



その夜は、不自然なほど静かだった。

窓の外には、街灯の光が微かに漏れているはずなのに、影やけに濃く、黒い墨を流し込んだように輪郭が滲んでいた。

風は鳴らず、遠くの犬の声も、車の走る騒音もない。

世界が「音」というものを忘れてしまったかのような沈黙。


その沈黙の真ん中で……細い声が、するりと入り込んできた。


⸻ねんね、ねんね。

⸻いい子だね。眠れ眠れ。


女の声だった。

柔らかく、細い糸のように途切れず続いている。

聞けば聞くほど胸の奥がじん、と温まるようなのに、同時に背筋を氷で撫でられるような寒気が走る。

その矛盾が渚の体をじわじわと蝕んでいった。


布団の中で、渚は息を潜めて耳を塞ごうとしていた。

だが、声は耳を素通りして、頭の内側に直に降り注いでくる。

逃げ場はない。


「……」

思わず布団を握り締める。

胸は熱いのに、手足が冷えて震えている。


眠気はある。むしろ、眠りに沈めと命じられているかのように、瞼は重い。

けれど……一度沈んでしまったら元には戻れない気がする。


歌が一節ごとに深く刺さり、脳の奥に杭を打つ。

意識が少しずつ解けていく。

夢と現実の境界が曖昧になり、渚はもう、布団の上にいるのか、井戸の底に沈んでいるのか、自分でもわからなかった。


その時、視界の端に「女」が現れた。

白い着物を纏った女。

腕には布を抱いている。

子供をあやすように、優しく布を揺らしている。


声を出そうとしても、喉は音を結ばなかった。

女は渚に気づく様子もなく、ただ歌を紡ぎ続ける。


⸻ねんね、ねんね。

⸻起きちゃだめよ。


渚の胸に重さがのしかかる、

涙が滲んだ。

恐怖ではなく、わけのわからない切なさで胸が苦しい。

自分がこのまま眠ってしまったら、きっと永遠に目を開ける事は無い。……そんな確信が骨にまで刻まれる。


……久遠先生!!


心の中でその名前を呼んだ時、すすり泣きが重なった。

それが女のものなのか、自分のものなのかさえ、もう区別ができなかった。


歌は途切れなかった。

一息ごとに調子を変え、子守唄と言うよりは呪文のように繰り返される。

渚は頭の奥がじんじん痺れるのを感じていた。

まるで見えない手が脳を撫で、意識をほぐしているかのようだった。


⸻ねんね、ねんね。

⸻全て忘れてしまいなさい。

⸻眠れば、何も怖くない。


「……やめろ」

掠れた声が唇からこぼれる。

けれど、女は止まらない。

ただ一方的に、声を注ぎこんでくる。


部屋の輪郭が溶け出した。

障子は墨汁を垂らしたようにじみ、天井の梁は水面のように揺れている。

畳の匂いは遠ざかり、代わりに湿った土の匂いが鼻を刺した。


「……ここは」


瞬きをした次の瞬間には、景色が変わっていた。

闇の底に井戸がある。

蓋をされたはずのそれが、夢の中では口を開けていた。

底は見えない。覗き込むたび、吸い込まれるような熱が胸を引く。


井戸の淵に、女が立っていた。

白い着物。長い黒髪。両腕には白い包み布。


その包みを覗き込んだ瞬間、渚の心臓は強く波打った。


……空っぽだ。


子供を抱いているはずなのに、重さがない

空の布を揺らしながら、女は幸せそうに笑を浮かべていた。


渇きで喉が張り付いて声が出せない。代わりに涙がにじみ、頬を伝った。

理由はわからない。ただ胸が締め付けられ、悲しくてたまらなかった。


女は渚に視線を向けることなく歌い続ける。


⸻ねんね、ねんね。

⸻起きちゃだめ。さあ、眠るのよ。


歌に合わせるように、渚の体は地面に沈んでいった。

膝が沈み、胸が沈み、最後に頭が沈む。

井戸の底に落ちるのではなく、世界そのものが液体に代わって、彼を飲み込もうとしている。


「助け……て」


掠れた声は泡となって消えた。

残ったのは女の詩声だけだった。

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