EP 16

タイムリミット

1944年7月、ワシントンD.C.、ペンタゴン。

統合参謀本部(JCS)の会議室は、マリアナ沖海戦(米側呼称:七面鳥撃ち)の「後味の悪い勝利」と、B-29撃墜の衝撃によって、重苦しい空気に満ちていた。

「スプルーアンスは、敵空母を殲滅する絶好の機会を逃した!」

海軍作戦部長アーネスト・キング提督が、机を叩いた。

「それどころか、敵の狂信的な攻撃で、我が軍の上陸船団は壊滅的打撃を受けた! サイパンの制圧は、予定より大幅に遅れている!」

陸軍航空隊司令官ヘンリー・アーノルド大将は、それ以上に深刻だった。

「諸君、問題はそこではない。『天雷(テンライ)』…海軍情報部(ONI)が掴んだ、日本の新型迎撃機のコードネームだ」

彼は、サイパンから辛うじて持ち帰られた『天雷』の残骸の写真をテーブルに滑らせた。

「排気タービン(ターボチャージャー)だ。高度1万メートルでB-29に追いつき、30ミリ砲で一撃離脱…我々が最も恐れていた事態だ」

「つまり?」

「つまり、現状、サイパンを完全に制圧し、『天雷』の脅威を排除するまで、B-29による日本本土爆撃は実行不可能だ。護衛のP-51マスタングは、まだサイパンからでは東京まで往復できない」

アーノルドは、ルーズベルト大統領への報告書を指差した。

「対日戦終結の切り札(B-29)が、サイパンの一点で足止めされている。マンハッタン計画(原爆)の進捗とも連動しているこの計画の遅延は、1日たりとも許されん」

キング提督は、冷徹に結論を下した。

「全艦隊火力をサイパンに集中。島が更地になるまで撃ち続けろ。上陸部隊(海兵隊)には、コストを無視した総攻撃を命じよ。『天雷』の基地を、物理的に粉砕する」

1944年7月下旬、サイパン島、タポチョ山地下司令部。

栗林忠道中将は、水筒に残った生ぬるい水を一口含み、地図に刻まれた赤い前線を睨んでいた。

凄まじい艦砲射撃で、島の地形は変わり果てていた。

「司令官! 米軍、第2海兵師団が、西海岸より再上陸!」

「タナパグ飛行場、『天雷』の掩体壕(えんたいごう)に直撃弾! 残存機、2機のみ!」

史実では、とっくに「玉砕」の電文が打たれている時期だった。

だが、栗林の兵士たちは、坂上(東條)が強引に送り込んだ重火器と、無数の洞窟陣地に拠って、米軍に血の代償を強要し続けていた。

「…まだだ」栗林は、血走った目で呟いた。「まだ飛行場は、我々の砲撃の射程内だ。奴らにB-29を離陸させるわけにはいかん」

彼は、東京の「総理」から与えられた任務——『玉砕ではなく、遅延』——の意味を、骨の髄まで理解していた。

自分たちの命が、本土の「何か」を守るための「時間」として消費されていることを。

「最後の『天雷』を発進させろ。目標は、敵の指揮艦(戦艦)だ。一矢報いる」

1944年8月中旬、東京・理化学研究所、地下。

灼熱の空気の中、数十台の遠心分離機が、金属の悲鳴のような高周波音を立てて回転していた。

「大和」から徴発された超高精度ベアリングが、このあり得ない光景を支えていた。

「博士! 臨界質量まで、あとわずか…!」

「計算を急げ! サイパンが、まだ持ちこたえているうちに…!」

仁科芳雄は、もはや物理学者ではなく、破滅の未来と競争する技術者の顔になっていた。

彼は、一枚の計算用紙を掴むと、震える手で官邸に電話をかけた。

官邸、総理執務室。

坂上(東條)は、二つの報告を同時に受け取っていた。

『サイパン、陥落セリ。栗林中将以下、残存兵力、タポチョ山ニテ玉砕(自決)。シカシ、敵ニ与エタル損害甚大。飛行場ノ復旧ニハ、ナオ数週間ヲ要スル見込ミ』

(史実より、1ヶ月半、遅延させた)

そして、もう一つは、仁科博士からの、受話器越しでも分かる興奮した声だった。

「(東條)総理! …できましたぞ! 試作爆弾(リトルボーイの日本版)、9月中旬には、実証実験(臨界テスト)が可能です!」

坂上は、受話器を置いた。

彼は、珈琲飴の瓶を掴んだが、その手は微かに震えていた。

(間に合った…のか?)

栗林の犠牲で稼いだ「時間」。

仁科博士が完成させた「抑止力」。

カードは、揃いつつある。

だが、坂上は知っていた。

サイパンを落とした米軍は、次(B-29の本土爆撃)の準備を急ぐ。

そして、米国の「マンハッタン計画」もまた、最終段階にあることを。

(実証実験(テスト)ではない。間に合わん)

坂上は、新たな決断を下した。

(使う…! 使うのではない。『見せる』のだ。敵が、広島に落とす前に、俺が『見せつける』!)

彼は、赤松秘書官を呼んだ。

「トラックの『信濃(山本の司令部)』に打電。山本長官に、直ちに上京せよ、と」

「じょ、上京!? 長官は『死んだ』ことになっておりますが!」

「構わん。死者を蘇らせる時が来た」

坂上は、壁の地図の、太平洋のど真ん中、米軍が補給基地として使っている「ウルシー環礁」を、赤いペンで力強く囲んだ。

「そして、呉のドックに告げろ。建造を急がせた『アレ』を、実戦配備する」

赤松は、その「アレ」が、大和の鋼材と海軍の全技術を注ぎ込み、この1年で秘密裏に建造された、一隻の巨大な「怪物」であることを知っていた。

空母「信濃」(史実とは異なる、坂上の思想が反映された重装甲の航空戦艦)。

「『ニ号研究(原爆)』を、信濃に搭載する。目標、ウルシー環礁」

坂上の目は、もはやこの時代の人間のものではなかった。

破滅の未来を回避するため、自らが「悪魔」の引き金を引くことを決意した、未来の司令官の目だった。

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