第5話「記憶の証人」
第一章 覚醒
ナイフを持った拓也が、香織に近づいてくる。
だが、香織は逃げなかった。
彼の目を見つめた。
虚ろで、焦点の合わない目。
これは──拓也じゃない。
拓也の身体を借りた、何か。
「拓也」
香織は、静かに呼びかけた。
「私よ。香織」
拓也の足が止まった。
彼は、首を傾げるように香織を見た。
「……か、おり?」
声が出た。掠れて、不確かな声。
「そう。私」
香織は、ゆっくりと立ち上がった。
「ナイフを、置いて」
拓也は、自分の手を見た。ナイフを握っていることに、今気づいたかのように。
そして──
ナイフが、床に落ちた。
拓也は、その場に崩れ落ちた。
「……ごめん。俺、何を……」
香織は、拓也に駆け寄った。
「大丈夫。大丈夫よ」
拓也を抱きしめる。彼の身体は冷たく、震えていた。
「香織……俺、どこに……」
「後で話す。今は、休んで」
拓也は、香織の腕の中で意識を失った。
第二章 真実への手がかり
翌朝。
拓也は、リビングのソファで眠っていた。
香織は、彼の額に冷たいタオルを置き、毛布をかけた。
拓也の身体からは、薬物の匂いがした。
睡眠薬。
あるいは、もっと強力な薬物。
彼は、操られていた。
誰に?
香織は、拓也のポケットを調べた。
スマートフォンはない。昨夜、寝室に置かれていたものは、犯人が用意したダミーだろう。
だが──
ポケットの中に、小さな紙片があった。
香織は、それを広げた。
手書きのメモ。拓也の字ではない。
『川崎区、臨海工業地帯、第三倉庫』
住所。
これは──
香織は、スマートフォンで地図を検索した。
川崎区の臨海工業地帯。廃工場が立ち並ぶエリア。
ここに、拓也は囚われていた?
香織は、柏木に電話をかけた。
「柏木、起きてる?」
「今起きた。どうした?」
「拓也が戻ってきた」
「本当か!?」
「でも、意識が朦朧としてる。薬を盛られてた」
「すぐに病院に──」
「その前に、確認したいことがある。映像の解析、もう一度やってほしい」
第三章 二分のズレ
午前十時。柏木が香織の自宅に到着した。
二人は、書斎にこもり、すべての監視カメラ映像を再検証した。
「香織、気づいたことがあるんだ」
柏木は、複数の映像ファイルを並べて表示した。
「これを見て。すべての映像で、タイムコードが実際の時刻より二分進んでる」
「二分……」
「最初は誤差かと思ったんだけど、すべてのファイルで一貫してる。これは意図的だ」
香織は、画面を凝視した。
「つまり、犯人は映像を改ざんする際に、タイムスタンプを操作した。でも、完璧には隠しきれなかった」
「そういうこと。それに──」
柏木は、別のウィンドウを開いた。
「元データを復元したら、削除されていたファイルが見つかった」
画面には、新しい映像が再生される。
それは──寝室。
だが、映っているのは香織と拓也ではない。
一人の女性が、寝室に侵入している。
桐谷由美。
彼女は、天井の換気口に何かを設置している。
監視カメラ。
「やっぱり……」
香織は、拳を握りしめた。
「由美が、最初からすべてを仕組んでいた」
「それだけじゃない」
柏木は、映像を進めた。
「この映像、音声も復元できた」
柏木がスピーカーの音量を上げる。
最初は、ホワイトノイズだけ。
だが──その中に、規則的なパターンがある。
「これ、モールス信号だ」
柏木は、信号を解読し始めた。
トン、ツー、トン、トン……
数分後、柏木がメモに文字を書き出した。
『カオリ、コレヲキイテイルナラ、オレハトラワレテイル』
『ユミハキミヲワナニハメヨウトシテイル』
『シンジテホシイ、オレハズットキミヲマモロウトシテタ』
『ニフンノズレガカギダ』
香織の目に、涙が滲んだ。
「拓也……」
第四章 拓也の証言
昼過ぎ、拓也が目を覚ました。
香織は、彼に水を飲ませ、落ち着くのを待った。
「香織……ごめん」
拓也は、掠れた声で言った。
「何も謝らなくていい。何があったか、話せる?」
拓也は、ゆっくりと頷いた。
「三ヶ月前……俺、気づいたんだ」
「何に?」
「君が、誰かにストーカーされてることに」
香織は、息を呑んだ。
「ストーカー……?」
「最初は、些細なことだった。家の周りに不審な人影。君が外出するときに、後をつけてる車。でも、君は気づいてなかった」
「それで?」
「俺、調べたんだ。誰が君を狙ってるのか」
拓也は、深く息をついた。
「桐谷由美。美咲さんを追い詰めた女性だ」
「知ってたの……?」
「ああ。君から美咲さんの話を聞いたとき、違和感があった。だから、独自に調べた。そして、由美が君に復讐しようとしてることを知った」
香織は、拓也の手を握った。
「だから、あなたは……」
「君を守りたかった。でも、警察は動かないだろう。証拠がないから。だから、俺が囮になることにした」
「囮……」
「寝室に監視カメラを設置したのも、俺だ。由美が侵入してくることを予測して、証拠を残すために」
香織は、涙を拭った。
「でも、由美は気づいたんだ。そして、俺を拉致した」
第五章 計画
拓也の証言を聞き終えた香織は、決意を固めた。
「拓也、あなたはここで休んでて。私が、終わらせる」
「香織、危険だ。警察に──」
「警察は動かない。証拠が不十分だって言われる。それに──」
香織は、拓也を見つめた。
「私が、けりをつけなきゃいけない。これは、私と由美の問題だから」
「でも──」
「あなたは、もう十分やってくれた。今度は、私の番」
香織は、柏木と作戦を立てた。
「廃工場に行く。そこに、拓也が囚われていた場所がある」
「一人で行くのか?」
「そのつもり」
「危ないだろ」
「分かってる。でも、由美は私を呼んでる。彼女は、私と対峙したいんだ」
柏木は、ため息をついた。
「せめて、これを持っていけ」
柏木は、小型のボディカメラを香織に渡した。
「これで、すべてを記録する。もし何かあったら、これが証拠になる」
「ありがとう」
「それと──」
柏木は、スマートフォンを見せた。
「GPS追跡をオンにしておく。もし連絡が途絶えたら、警察に通報する」
第六章 廃工場
夕方。香織は、川崎区の臨海工業地帯に到着した。
錆びた工場が立ち並ぶ、寂れたエリア。
第三倉庫。
古いコンクリートの建物。窓は割れ、壁には落書きが残っている。
香織は、ボディカメラを起動し、建物の中に入った。
内部は薄暗く、機械の残骸が散乱している。
足音が、反響する。
奥へ進むと──
地下への階段があった。
香織は、スマートフォンのライトを点け、階段を降りた。
地下室。
そこには──
複数の監視カメラが設置されていた。
すべてが、中央の一点を向いている。
椅子。
拘束具。
そして──
壁一面に貼られた、写真。
香織の写真。
美咲の写真。
そして──血で書かれた文字。
『証人』
第七章 対峙
「よく来たわね、香織」
背後から、声がした。
香織は振り返った。
そこには、桐谷由美が立っていた。
手には、ビデオカメラ。
「ようこそ、私の舞台へ」
由美は、微笑んだ。だが、その目には狂気があった。
「由美……あなたが、すべてを」
「そうよ。すべて、私が仕組んだ」
由美は、カメラを香織に向けた。
「美咲がどれだけ苦しんだか、あなたに体験させてあげる」
「美咲は──」
「黙って」
由美の声が、鋭くなった。
「あなたに、何が分かるの? 妹を失う苦しみが。愛する人を失う苦しみが」
「私も、美咲を失った」
「あなたは守らなかった!」
由美は叫んだ。
「美咲があんなに助けを求めてたのに、あなたは信じなかった。私と同じよ。私も、藤原を守れなかった」
「でも、美咲を追い詰めたのは──」
「私よ。分かってる」
由美は、うつむいた。
「私は、間違った人を恨んだ。でも、もう止められなかった。憎しみは、私を支配した」
由美は、顔を上げた。
「だから、あなたにも同じ苦しみを味わってほしかった。愛する人を失い、自分を責め、狂っていく苦しみを」
第八章 記憶の証人
香織は、深く息をついた。
「由美、あなたは間違ってる」
「何が?」
「憎しみは、何も生まない」
「きれい事を──」
「きれい事じゃない」
香織は、由美に近づいた。
「私も、あなたと同じだった。美咲を守れなかったことを、ずっと後悔してた。誰かを責めたかった。自分を責めた」
「だったら──」
「でも、拓也が教えてくれた。守るということは、疑うことじゃない。信じることだって」
香織は、拓也が残したメッセージを思い出した。
「拓也は、私を疑わず、守ろうとしてくれた。たとえ自分が危険にさらされても」
「それが何?」
「あなたも、美咲を守りたかったんじゃないの? 本当は」
由美の手が、震えた。
「私は……美咲を殺した」
「違う」
香織は、首を振った。
「あなたは、美咲を追い詰めた。でも、殺したのはあなたじゃない。システムよ。誰も信じてくれないシステム。私も含めて」
由美の目から、涙が溢れた。
「私……私は……」
「もう、終わりにしよう」
香織は、手を差し伸べた。
「憎しみの連鎖を、ここで断ち切ろう」
由美は、カメラを落とした。
そして──
香織の手を、握った。
エピローグ
一週間後。
桐谷由美は、逮捕された。
拓也への監禁、香織への脅迫、そして証拠改ざん。
だが、香織は嘆願書を提出した。
由美にも、被害者としての側面があると。
裁判は、まだ続いている。
香織と拓也は、新しいアパートで暮らし始めた。
寝室に、監視カメラはない。
「もう必要ない?」
拓也が尋ねると、香織は微笑んだ。
「うん。でも──」
「でも?」
「あなたがまた怪しいことしたら、即設置するからね」
「了解」
二人は、笑い合った。
その夜、香織は一人でリビングに座っていた。
手には、美咲の日記。
「美咲、ごめんね。もっと早く、信じてあげられたら」
だが、もう後悔はしない。
前を向いて、生きていく。
それが、美咲への償いだから。
第5話 了
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