第10話

「……ヒロの方がマシだったってこと!?」 「あぁ!? 最後まで俺をコケにしやがって!」


バチン!と乾いた音が響く。 先輩が、ユイの手を荒々しく振り払った音だった。


「もういい、お前みたいな面倒くさい女、こっちから願い下げだ!」 「なっ……!」


先輩はそう言い捨てると、一人でさっさと駅の改札口へ消えていった。 一人残されたユイは、振り払われた手を握りしめ、呆然と立ち尽くしている。


「…………」


最悪のタイミングだった。 俺と雪菜は、その一部始終を、バッチリと見てしまった。


気まずい。 どうする? 声をかけるべきか? いや、でも……。


俺がどうすべきか迷っていると、 路地に一人取り残されたユイが、ふと顔を上げた。


――バチッ。


目が、合ってしまった。


ユイの目は、驚きで見開かれていた。 イメチェンした俺と、その隣で完璧な美貌を誇る雪菜(ユキ)が、二人並んで立っていることに。


そして、その驚きは、すぐに別の色に変わった。 先輩に捨てられた惨めさ。 そんな自分と、雪菜と幸せそうにデートしている俺との、圧倒的な対比。


ユイの顔が、屈辱に歪む。 だが、次の瞬間、彼女は――泣きそうな顔で、俺に「すがる」ような視線を向けた。


「……ヒロ……っ!」


か細い声が、俺の名前を呼ぶ。 それは、明らかに「助け」を求める声だった。


(あ……)


俺の心が一瞬、揺らぐ。 昔の俺なら、ここでオドオドしながら「だ、大丈夫か?」と声をかけてしまったかもしれない。 地味で、優柔不断で、人に強く出られない、昔の俺なら。


だが。


俺は、隣に立つ雪菜の気配を感じた。 彼女は、何も言わずに、ただじっと俺の横顔を見つめている。 俺がどうするのかを、信じて待っている。


――『ヒロくんは、私だけのヒーローなの』


昨日の雪菜の言葉が、脳裏に蘇る。


そうだ。 俺はもう、昔の俺じゃない。 俺には、俺を信じてくれる、大切な女の子が隣にいる。


俺が守るべきは、俺を「地味」だと捨てた過去(ユイ)じゃない。 俺を「ヒーロー」だと信じてくれる、今(ユキ)だ。


俺は、ユイから視線を外した。 すがるような彼女の声を、完全に無視した。


そして、隣にいる雪菜に、まっすぐに向き直る。


「……ユキ」


「!」 雪菜の肩が、小さく跳ねた。


俺は、一日中はしゃいで少し冷たくなった雪菜の右手を、自分の両手でそっと包み込んだ。


「あ……」 雪菜が、驚きに目を見開く。


「寒くないか? ……もう、帰ろう」


俺は、精一杯の笑顔で、そう告げた。 「あんなの、俺たちには関係ないことだ」


「…………」


雪菜は、数秒間、俺の顔と、包まれた自分の手を、交互に見た。 俺の行動の意味――ユイを完全に切り捨て、自分を選んでくれたこと――を、瞬時に理解したようだった。


次の瞬間。 雪菜は、今日一番の、花が咲き誇るような笑顔で、


「――うんっ!」


と、力強く頷いた。


俺は、雪菜の手を握りしめ、歩き出す。 もう、後ろは振り返らない。


背後で、「あっ……」と、ユイの絶望したような、小さな声が聞こえた気がした。


だが、俺はもう迷わない。 俺は、この温かい手を、絶対に離さない。 こいつを、世界で一番幸せにすると、心に強く決意した。

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