第17話 復讐の炎と暗殺者

 フラミニア・ディ・アルディーニは、ベッドの上で左足の包帯に触れた。


 もはや感覚はない。

 冷たい氷の矢が神経を断ち切ったのだ。


「絶対に許さない、あの氷姫。」


 「氷姫」の異名を持つその女は、フラミニアに目と足に一生治ることのない傷を負わせ、何よりも大切な兄、優秀な軍人であったデメトリオの命を奪ったのだ。


「兄さま……」


 フラミニアの心臓を焼くのは、肉体の痛みではなく、兄を失った絶望と、憎悪の炎だった。


 父であるアルディーニ公爵は、権力と財力に物を言わせ、あの女の暗殺を企んでいた。しかし、現実は厳しい。


 軍務省内に監禁され、その警備体制は鉄壁。

 腕利きの暗殺者たちですら、軍務省内に侵入不可能だと、軒並み依頼を断ってきた。


「ならば私がやろう。その後の人生なんて、どうだっていい。兄さまの仇さえ討てれば。」


 フラミニアは公爵に黙って決意した。


 彼女はまだ軍籍にある。その身分を利用して、軍関係者の中に潜む汚職に手を染めた者たちを金で買収し、氷姫の居場所と警備体制についての情報を集めさせた。


 情報提供者の一人、使い込まれた制服の伍長は、金を握りしめながら耳打ちした。 「『氷姫』殿は、軍務省の奥にある特別棟に、厳重に監禁されていると聞いております。警備は、ナルディーニ大佐、バルトロメア殿、フィオーレ中尉が専属で務めているとか。あとは当番の兵士が数名。それ以上はおりません」


 特別棟。バルトロメア、ナルディーニ、フィオーレ、他当番兵数名。


 フラミニアは、その構成を聞いて胸の内に嘲笑を浮かべた。


 これなら、簡単に倒せる。


 彼女は、傷の療養後に「復帰願」を提出した。

 左足の回復が不十分であるとして、しばらくは内勤に就くようにという指示が下りた。

 これはまさに天の助けだった。軍務省内部に身を置きながら、復讐の機会を静かに窺うことができる。


 そして、そのチャンスは巡ってきた。


 土曜日。週末で警備兵が手薄になり、多くの者が家族の元へ早く帰る日。その深夜、決行すると決めた。


 夜中、月の光さえ届かない濃い闇に紛れて、フラミニアは軍服の上に黒い外套を羽織り、特別棟の入口へと忍び寄った。

 彼女の肩には、官給品のライフルが提げられている。


 入口の角に、歩哨が一人立っていた。


 フラミニアは音もなく、その背後へと近づいた。吐息すら聞こえないほどの静けさ。


 次の瞬間、全身の力をライフルに集中させ、その銃床を振り上げ、歩哨の後頭部目掛けて、一気に振り下ろした。


「う、っ…」


 歩哨は、呻き声とも言えない短い声を漏らし、その場に崩れ落ちた。


 フラミニアは素早く彼の制服から鍵を抜き取り、扉を開ける。


 重い鉄扉をくぐり、フラミニアは薄暗い通路へと侵入した。


 ライフルを杖の代わりにして、左足を引きずりながら歩く。


 不規則で小さな足音が石の床に響く。


 彼女はポケットから取り出したロウソクに火を灯し、その光を頼りに進んだ。


 音を立てないように、できる限り静かに。しかし、心臓は激しく波打っている。


 ここにいる捕虜は氷姫だけ、そう聞いている。


 彼女は階段を登り、特別棟の三階へとたどり着いた。


 三階の通路は、他の階以上に静寂に包まれていた。

 いくつもの鉄格子の牢が並んでいるが、どの牢の中も無人。ガランとして、人の気配はなかった。


 フラミニアは、一つ、また一つと牢を通り過ぎていく。


 そして、廊下のつきあたりの、奥まった一室。そこだけは、かすかに何かの気配がしていた。


 彼女はろうそくを壁際にそっと置き、ライフルを構えながら、その牢に近づいた。


 鉄格子の向こう。牢の中央に置かれたベッドの上で、誰かが毛布にくるまって横たわっている。顔までは見えない。ただ、そこに人間がいるという確かな重みが感じられた。


「これで終わりよ、氷姫。」


 フラミニアは心で呟いた。


 ライフルをしっかりと構え、標的に照準を合わせる。そして、引き金に指をかけた。


 ダンダン!


 けたたましい2発の銃声が、静寂を切り裂いた。


 反動で肩が揺れ、火薬の匂いが鼻をつく。フラミニアは、確かに毛布にくるまれた人間に、2発の弾丸が命中したことを確認した。


 大きな音がした。この銃声で、すぐにでも誰かが駆けつけてくるだろう。


「逃げる……」


 フラミニアはすぐに踵を返し、来た道を戻ろうとした。その時だった。


 両脇から、強い力で、フラミニアの腕が掴まれた。


「なにを……!」


 彼女は暴れたが、力の差は歴然だった。瞬く間に動きを抑えられ、ライフルは床に落ち、石の床を滑った。


 そして、正面から、馴染みのある顔が現れた。


 フラミニアが壁際に置いたロウソクを手に取り、その光を彼女の顔に当てる。


 そこに立っていたのは、バルトロメアだった。

 彼女は無表情で感情が読み取れない。


「ご苦労様、フラミニア。」


フラミニアの両脇、抑えていた一人は、ナルディーニ。そしてもう一人は、フィオーレだった。


「なによ、離しなさい!」

 フラミニアは叫んだ。


ナルディーニが、厳かな声で逮捕状を読み上げるかのように告げた。


「フラミニア・ディ・アルディーニ、歩哨への暴行及び捕虜暗殺未遂の罪で逮捕する。全ての抵抗を止め、我々の指示に従いなさい。」


「暗殺未遂、て何よ! 私は確かに撃ったわ!」

 フラミニアは、最後の足掻きのように反論した。


 バルトロメアは、静かに、そして深いため息をつくように言った。

 その声には、憐憫と、僅かな失望が混じっていた。


「あなたが撃ったのは……人形よ。」


 その言葉と同時に、ナルディーニが彼女の頭を、牢の方向に向けた。


 フラミニアの視線の先。

 バルトロメアが牢の鍵を開け、毛布をめくって見せたのは、ただの大きな人形だった。


 ナルディーニは、ゆっくりと話し始めた。


「君が情報収集を始めた時点で、私たちは気づいていた。公爵閣下の動きも、君の金の使い方も、全てね」


「……っ」


「君が買収した伍長、彼も我々の手で動かされていた。つまり、この『氷姫が特別棟に監禁されている』という情報は、君を引きずり出すための餌だった。そして、君が最も警備の手薄な土曜日の深夜を選ぶことも、予測通りだ」


 ナルディーニが、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「嘘よ、そんな……」


 フラミニアの顔から血の気が引いた。復讐の炎は、冷たい真実によって一瞬で凍らされ、絶望へと変わった。


「フラミニア、君は軍人として優秀だった。しかし、君の兄を討ち取ったのは、氷姫の正当な軍人の戦闘行為だ。そして、君が復讐に駆られ、己の全てを捨てようとした時、君はもう軍人ではない。ただの殺人者だ」


 ナルディーニは淡々と告げた。 

「君の復讐心は理解できる。だが、その結末は、君が想像していたものとは違う。君はこれから軍法によって裁かれる」


 フラミニアは抵抗する気力を失い、ただうなだれた。

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