不可逆性加虐~番外編~

野水はた

夏の記憶


 じっとりとした汗を流すシャワーの音に交じって、館羽が途切れ途切れの吐息を荒げた。


「館羽、声出てるから」


 こんなところ見つかったら説明のしようがない。詳細な説明を完遂してしまっても、それもまた問題で、つまるところどちらにも転べないのだ。


 タイルの床に根を張って、雨にも負けず、風にも負けずを体現する。室内だから風はないのだけど、降り注ぐ雨だけを、しっかりと受け止めた。


「瑠莉ちゃ……もう、一回……」


 館羽の最近のお気に入りは、お腹を膝で押されることと、口を塞がれること。まるで楽曲をプレイリストに入れるみたいに更新されていく館羽の好きを、私は繰り返し聞いている。


 膝の押し方にも、もう慣れた。館羽は打撃に伴う痛みより、圧迫するような苦しさが好きなようで、なるべく勢いが付かないよう、膝を押しつける。


 館羽のお腹にズブズブと入っていく様は、まるで底なし沼に飲み込まれていくみたいだった。まるで、今の私だ。


「あれ、浅海さんと深山さんは?」


 シャワー室に誰かが入って来た。ドアの下を肌色の足が何度も通過する。聞き慣れた声が私たちの名前を呼んでいることに気付いて心臓がバクバクする。


 勢いを調整できないタイプのシャワーは、急に冷たくなったり、熱くなったりする。隣の個室に誰かが入ったのが音で分かった。その瞬間、私たちのところのシャワーが一気に冷たくなった。


 声が出そうになったのを我慢しようとして、思わず館羽の二の腕を触ってしまう。プールと特有の塩素が、しっとりとしているはずの館羽の肌を蝕むようにカサつかせている。


「見てないよー、先あがったんじゃない?」


 館羽の膝がガクガクと震えていた。張り付いた髪の奥で、館羽の瞳が真っ赤に滲んでいる。


「……ッ、げほっ!」


 立てなくなった館羽が、水を吐いてその場にうずくまった。


 普段は見えることのない館羽の肩が、背中が、じっとりと汗ばんで、絶えることなく水滴を運んでいる。水に濡れたうなじが呼吸するたびに肌に押し上げられ、光沢を変えていく。


 シャワーを止めたかったが、それでは館羽の息遣いが外に漏れてしまう。


「てか、浅海さんと深山さんって仲良いよね」

「思ったー! 中学同じってわけでもないんでしょ? 家が近いとか?」

「どうなんだろうねー。あ、もしかして二人だけの秘密があるとか!?」

「その可能性ある! なんだろう、まさか……付き合ってるとか!?」

「えー!」


 クラスメイトの会話の矛先が、完全にこちらに向いていた。露出された肌が、途端に頼りなくなってくる。


 薄いパレオを踏んで転ばないように、私はゆっくりと座り込んで館羽と視線を合わせた。口元に人差し指を添えて「しー」と合図を送ると、館羽は瞳を潤ませたまま頷いた。


「だったら言うでしょー。そうじゃなくてもさぁ、例えば……なんかの事件の共犯者とか」

「いやドラマの見すぎ。普通に相性いいんでしょ。うちらは壁になってればいいの」

「でもそしたらさぁ、うちらが深山さんと遊べる機会少なくなるじゃん? だからぁ……うん? なんだこれ、嫉妬か?」


 クラスメイトの笑い声に囲まれながら、息を潜めた。


 私、周りから見たらそんな風に見えてるんだ。


 館羽と仲が良い。特別に距離が近い。共犯者……ドラマの見すぎは私も同意する。二人だけの秘密がある……というのは間違いではない。


 付き合ってる……は、一番遠いかもしれない。


「瑠莉ちゃん」


 小さい声で、館羽が私の名前を呼ぶ。


「首」


 ねだるような言い方に、喉の奥で溜飲が沸騰したように熱くなる。どろりとしたものを飲み込んだように引っかかって、胃に落ちてくれない。落ちてくれないのなら、外に出すしかないのだ。


 館羽を壁に押しつけて、その首を締め付ける。


 もう、何度しただろう。


 館羽の首には私の手の痕が付いている。


 このまま外に出たら、きっとバレてしまう。


 やめてしまえばいいのに、やめられない。


 枢にバレそうになったとき、私は本当に終わったと思った。心臓が絶望に染まっていく心地はもう二度と味わいたくない。


 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、話してもいいんじゃないかと思うときもあった。罪を償うというのは、きっと罪を隠すということではない。せめて枢には、相談してもいいんじゃないかって。


 でも、そういうのも、もう消えてしまった。


 バレたくない。知られたくない。


 ……怖い。


 その不安が、そのまま力となって腕に乗ってしまっている。


 嫌だ、嫌だ。


 子供が駄々をこねるみたいに、館羽の首に指をめりこませていく。


 酸素を欲した館羽の口が、恥じらいもなく大きく開いた。


 並びのいい白い歯の間で、真っ赤な舌が暴れている。助けて、助けてって、鳥に食べられそうな芋虫が必死に抵抗するみたいだった。


「はぁー、ていうか深山さんの水着見た? うちもああいうの着れるようになりたーい」

「あれはスタイルよくないと無理だなぁ。うちは一生スク水でいいや」

「いやぁ、高校生でスク水はなぁ。そろそろ卒業したくない?」

「いやそれ、浅海さんにも失礼だから」

「あ、そういえば浅海さんもスク水族か。同士だ」

「スク水族て」


 素肌と素肌が、互いを掴んで離さない。吸い付くような感触に、何度も背筋が凍った。


 館羽が足をバタつかせ、爪を立てて必死に私に抗おうとしている。もう限界の合図だ。これ以上やったら、館羽は本当に気を失ってしまうか、下手したら死んでしまう。


 ここからは館羽の瞳孔と、顔色をしっかり見極める必要がある。館羽に馬乗りになって、顔を近づける。足がドアにガン! とぶつかってしまい肝が冷えたが、気付いたらシャワー室からクラスメイトの声は聞こえなくなっていた。


 水に濡れた館羽の姿は、いつになく生々しく、そして言いようのない神秘さがある。産まれたばかりの赤ちゃんを見て感動するように、そんな館羽の姿に私は釘付けになっていた。


 ――まさか、付き合ってるとか!?


 ……最低最悪の想像をしてしまった。


 そんなこと、考えちゃいけないのに。だってそれは、心が通じ合っていない。身体だけ、一身上の都合だけで構成された骨組みだけの関係だ。


「ねぇ、館羽は……」


 話しかけても返事ができないのは分かっている。声すら出せないほど喉を押さえつけているのは私だ。手の中で、館羽の喉が何度も動く感触があった。


 スクール水着姿の館羽は、制服姿より幼く見える。それはきっと、館羽を虐めていたときの記憶のせいだろう。


 服の下にスクール水着を着て学校に来させていたのは私だ。


 最初は、いつもプールを休む館羽をからかいたかった。なんで休むのか、理由をあぶりだしたかった。もしかしたら、身体に変な痣があって、それが恥ずかしくてプールに入らないんじゃないか。


 そうじゃないなら水着を着てこいと、そう言ったのだ。


 しかし、館羽の身体には痣なんか一つもなかった。それどころか、誰もまだ足を踏み入れていない雪道のように白く、清く、瑞々しかった。


 館羽の水着姿を見て、妙な感覚を抱いたのを今でも覚えている。一番近い感情でいえば、おそらく悔しさなんだろうけど、それだけじゃ説明できないほどの要素が、水着姿の館羽には含まれていた。


 暴れる館羽の肩紐が、するっと取れた。


 心臓が跳ねる。


 胸元が見えそうになって、私は慌てて肩紐を元の位置に直した。


 シャワーの温度が、より一層、熱くなる。早く、ちゃんとしたシャワーに変えてほしいものだ。


 滲み出てくる汗に額を拭いながら、シャワーを止める。


 気付けばもう、夏がやってきていた。

 

 

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