第4話 - 痛みと刃先
十一月。
朝の空気は冷たく、校舎の窓ガラスに指をあてると、そこに白い線が残った。
受験を控えた教室は、妙に落ち着かない静けさに満ちていた。
推薦で進学が決まった者たちは、どこか遠い世界の住人のように見えた。
それでも、黒板の隅には「あと九十日」と赤く書かれ、時間だけは確実に前へ進んでいた。
体育の授業では、相変わらず剣道が続いていた。最初のうちは竹刀を振るうことすらぎこちなかったが、秋になるころには全員がそれなりの形になっていた。
とはいえ、多くの学生にとって竹刀を構えることは、まだどこか怖かった。
面を打つとき、相手の竹刀がわずかに遅れて肩を叩く――竹刀を振る方も、受ける方も、”不慣れな”筋肉の痛みに耐えていた。
「力じゃない。構えと、呼吸だ」
汗のにおいと真新しい畳の匂いが混ざる武道場で、剣道の指導に来ている武道指導員の声が響く。
定年退職後のセカンドキャリアで指導に来ているとは思えないほどの落ち着きのある声だ。
「打突より先に、自分を整えろ。打ったところに相手がいるだけだ。」
その言葉が、妙に頭に残った。
試しに夜、勉強の合間に素振りをしてみた。
蛍光灯の下で振る刀の影が、壁に長く伸びる。
腕の筋が痛くなる代わりに、心の中のざわめきが薄れていた。
クラスの空気が少し変わりはじめた。
ヒデキが、刀をめぐる喧嘩に巻き込まれたのだ。
詳しいことは誰も知らない。ただ、「真剣だったらしい」という噂だけが広がった。
翌朝、彼の机は空っぽで、誰もそこに触れようとはしなかった。
担任も何も言わず、出席をとる声だけが淡々と響いた。
あの無音の瞬間を、遥は今も忘れられない。
家に帰ると、テレビでは帯刀令に反対するデモの映像が流れていた。
〈全国で抗議活動が広がっています〉
〈帯刀令は若者の暴力を助長している〉
アナウンサーの声は抑えていたが、その背後には燃えるような怒号が響いていた。
SNSを開けば、デモの映像が切り取られ、「#帯刀廃止」「#自由を返せ」というタグが並ぶ。
けれど、どれも極端に見えた。
怒りと正義感のあいだに、どこか薄っぺらいものを感じた。
「何かが違う」
そうつぶやいたとき、父が振り向いた。
「何が違うんだ?」
「みんな、ただ怒ってるだけに見える」
父はしばらく黙り、湯飲みを口に運んだ。
「怒りから始まることもある。だが、怒りだけじゃ何も続かない」
その言葉は重かった。
遥は返す言葉を持たず、ただ頷いた。
夜更け、机に竹刀を立てかけたまま、ふと考える。
もし、ヒデキの件が自分だったら――。
刀を握った瞬間に、何かが壊れてしまうような気がした。
竹刀と真剣のあいだには、見えない線がある。
その線を越えるには、覚悟が要る。
それを、まだ自分は持っていない。
翌日の体育で、武術指導員が言った。
「この授業は、体育じゃないんだ。ただの運動じゃない。自分と向き合う時間だ」
その言葉の意味が、少しだけわかる気がした。
打ち込む瞬間よりも、構える前の静けさの方が怖い。
その静けさに耐えることが、刀を持つことなのかもしれない。
腕が重くなり、手のひらにできたマメが痛んだ。
けれど、その痛みは悪くなかった。
竹刀の先が止め、息を整えて、また振る。
「体を鍛え、心を整える」
それが誰かに教わった言葉だったか、自分で思いついたものか、もう分からなかった。
ニュースでは、総理が久しぶりに会見を開いていた。
《帯刀令については、若者の教育の一環として…》
その口調は淡々としていたが、どこか確信に満ちていた。
「「未来のために」」と言う大人たちの顔が、次々に画面に映る。
もう反対とか賛成とか、そんな単純なことではない気がした。
刀を持つ理由が誰かの決定で決まるのではなく、自分の中で形を探すことなのだと思えた。
それはまだ漠然としている。
だからこそ形のなかったモヤモヤが、少なくとも「何かを変えたい」と思う”気持ち”になった。
模造刀を鞘に収め、窓の外を見上げた。
冬の初めの空に、細い月が浮かんでいた。
その下で、町のどこかから、また鍛鉄の音が響いてきた。
まるで世界全体が、静かに打たれているように思えた。
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