第5話 アンチテーゼの咆哮(ジェラシー)
1.光あるところに、影あり
物理学の法則において、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影は濃くなる。 我がバンドのマスコット兼マネージャー、ナナは、歩く核融合炉のような存在だ。彼女が「おはよう!」と笑えば、クラスの平均気温が二度上がり、男子生徒の偏差値が五下がる。 その圧倒的な「陽」のエネルギーに対し、最も濃い「陰」を形成しているのが、寧々(ねね)だ。
彼女は不思議な生き物だ。
口を開けば「キモい」「下手くそ」「解散しろ」と罵倒してくるのに、なぜか放課後の部室にも、夜の喫茶店にも必ず顔を出す。 ツ
ンデレではない。デレの成分が検出されないからだ。彼女は純度100%のアンチでありながら、最も熱心なファン(監視者)でもあった。
ある日の夕暮れ。 僕とタカシが「Set Sail」の片隅で、新曲の構想(という名の無言の睨み合い)をしていた時だった。
カランコロン、とドアベルが鳴り、ネネが入ってきた。
その表情は、いつになく殺気立っていた。
「おい、ケン。……これ、読んで」
彼女は僕の目の前に、一冊の黒いノートを叩きつけた。
「なんだこれは。不幸の手紙か? それとも犯行予告か?」
「……似たようなものよ」
僕は恐る恐るノートを開いた。
そこには、震えるような筆圧で、呪詛の言葉が刻まれていた。
その笑顔は偽りだ その優しさは毒だ お前の無邪気さが 誰かの才能を殺す I hate your pure love. I want your dark blood. 引きずり下ろしてやる 泥の味を教えてやる
僕は息を呑んだ。
対象が誰であるかは明白だ。ナナだ。
だが、僕が驚いたのはその内容ではない。文章の持つ「鋭利さ」だ。
僕の書くポエムが「湿っぽく、カビの生えた地下室の絶望」だとしたら、彼女の言葉は「研ぎ澄まされたナイフの輝き」だった。
「……なんて、美しい悪意だ」
僕は思わず呟いた。
「僕たちのバンドに足りなかったのは、この『攻撃性』かもしれない」
「感心してないでよ。これを……この『真実』を、あんたたちの曲に乗せて拡散しろって言ってんの」
ネネは目をぎらつかせた。 「ナナの耳に届くまで、大音量で流せ。あいつの能天気な脳みそを破壊してやるのよ」
それは楽曲提供という名の、テロ予告だった。
タカシが横からノートを覗き込んだ。 文字の羅列を見た瞬間、彼の瞳孔が開いた。
「……鋭(鋭いな)」
タカシがギターを手に取る。
いつもの重厚なハードロックではない。
ジャキジャキジャキ! 高速のダウンピッキング。
歪みきった、攻撃的なパンク・リフ。
ネネの肩が、その音に反応してビクッと跳ねた。
2.ヴォーカリストの不在証明
翌日の部室。
僕たちは新曲『Antithesis(アンチテーゼ)』のリハーサルを行っていた。
テンポはBPM190。
疾走するドラム(ユウジが必死に食らいついている)、唸るギター、ルートを刻むベース。 あとは、歌を入れるだけだ。
「……無理だ」
僕はマイクの前で首を横に振った。
「僕の声質じゃ、この歌詞は歌えない。どうしても『恨み節』になって、演歌か昭和歌謡になってしまう」
カズが腕組みをして頷いた。
「ああ。ケンの声は『湿気』が多すぎる。この曲に必要なのは『ドライアイス』のような冷たさと、『火薬』のような爆発力だ」
「じゃあ誰が歌うんですか? タカシ先輩はギターで忙しいし、僕は歌詞の英語が読めません!」
ユウジが竹刀を振り回しながら叫ぶ
。
全員の視線が、部屋の隅で腕を組んで壁に寄りかかっているネネに集まった。
「……は? 何見てんのよ」
ネネが睨み返す。
「私が歌うわけないでしょ。私は黒幕よ。プロデューサー(笑)のカズより上の、フィクサーなの」
「……声(お前しかいない)」
タカシがギターでイントロを弾き始めた。
アンプから放たれる音圧が、空気をビリビリと震わせる。
ネネの足が、無意識にリズムを刻み始めたのを、僕は見逃さなかった。
「ネネ。思い出せ」
僕は煽った。
「あいつ(ナナ)の笑顔を。お前が積み上げてきた嫉妬を。文字じゃなくて、音で叩きつけろ。それが一番、あいつに効く復讐だぞ」
「……うるさい!」
ネネが衝動的に、僕の手からマイクを奪い取った。
彼女は深く息を吸い込み、世界のすべてを呪うような目で叫んだ。
「I want your dark blood!! 全部壊れちまえぇぇぇ!!」
強烈なシャウト。
ガラス窓が共鳴し、ユウジがビビって竹刀を取り落とす(ガシャン!)
そのノイズさえも飲み込んで、曲が完成した。
彼女はアンチではない。天性のヴォーカリストだった。
3.ゲリラライブと誤解の天才
「よし、実践だ。ストリートでやるぞ」
カズの提案で、僕たちは休日の駅前広場に立った。
アンプの準備が整う頃には、そこそこの人だかりができていた。
その中には、偶然通りかかったナナの姿もあった。
「……来たわね、偽善者」
ネネがマイクを握りしめ、ニヤリと笑った。
「いいわ。私の歌で、あんたのそのお花畑な脳内を焼き払ってやる」
演奏開始。 『Antithesis』の攻撃的なビートが広場を支配する。
ネネは、観客の中にいるナナを指差し、鬼の形相で歌った。
『♪偽りのエンジェル! 羽をもいでやる!
その愛はエゴイズム! 気づけよナルシシズム!』
観客がどよめく。
「すげえ……あのヴォーカル、マジだぞ」
「誰かにめっちゃキレてる……パンクだ」
歌い終わったネネは、肩で息をしながら、勝ち誇った顔でナナを見た。
どうだ。これが私の本音だ。私の憎悪だ。傷ついたか? 泣いたか?
しかし。 ナナは目をキラキラさせて、一番前で拍手していた。
「すごーい!! ネネちゃんカッコいい!!」
「……は?」 ネネのマイクがハウリングを起こす。
ナナがステージ(ただの地面)に駆け寄ってきた。
「感動したよ! 『偽りのエンジェル』って、現代社会の欺瞞と戦うダークヒーローの歌だよね! ネネちゃんの歌声、『愛への渇望』ですごく切なかった!」
「はあ!? 違う! あんたのことよ! あんたをディスってるのよ!」
ネネが叫ぶが、ナナには届かない。
彼女のポジティブ・フィルターは、防音壁より分厚い。
「またまた~! 照れ屋さんなんだから! 私、ネネちゃんの『ツンデレな愛』、ちゃんと受け取ったよ!」
ナナがネネに抱きつく。
「離せ! 殺すぞ! ……くっ、いい匂いがするのよバカ!」
ネネは顔を真っ赤にして暴れるが、ナナの抱擁からは逃げられない。
僕はベースを下ろした。
勝てない。
光(ナナ)は、闇(ネネ)さえも飲み込んで、自分の養分にしてしまう。
ブラックホールは闇ではない。光そのものだったのだ。
4.光と闇の不協和音
ライブ後、いつもの喫茶店にて。
ネネは不本意ながら、正式にヴォーカルとして加入することになった。
「勘違いしないで。私は内部からこのバンドを崩壊させるために、スパイとして潜入したのよ」
ネネはメロンソーダを睨みつけながら言った。
「スパイ! カッコいい! コードネームは『ブラック・ネネ』ですね!」
ユウジが無邪気に喜ぶ。
「じゃあ私は、ネネちゃんの歌に合わせてキーボード弾くね!」
ナナが手を挙げた。
「ネネちゃんの『闇』には、私の『光』が必要だと思うの! 光と闇のコラボレーションだね!」
ナナが店のピアノで、『Antithesis』のコードを弾いてみせた。
本来はマイナーで重いはずの進行が、彼女の手にかかると、なぜか「日曜日の朝」みたいな爽やかな響きに変わる。
「……これだ」
僕は戦慄した。
「ネネの殺意に満ちたヴォーカルと、ナナの救いようのないほど明るいキーボード。この精神的な不協和音こそが、僕たち『爆音団』の真骨頂だ」
ネネは、ナナの隣で舌打ちをした。
だが、その横顔は、暗い部屋で一人スマホを握りしめていた時よりも、ずっと生き生きとして見えた。
僕はノートを開いた。
『アンチテーゼ。
それは否定ではない。
愛されたいと願う獣の、歪んだ求愛行動だ』
こうして僕たちは、ヴォーカルとキーボードを手に入れた。
そしてバンド内の人間関係は、より一層カオスへと突き進んでいくのだった。
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