第6話 ピニャコラーダ

「お母さん、少し出掛けてくるから、家から出ないでね」

「はい、大丈夫よ。今日は何も予定が無いから」


 冬服を詰めたスーツケースを持って家を出る。電車で2駅のところに、私と夫のマンションがある。駅近の新築で、結婚と同年に買った。ペアローンを組んでしまったので、絶賛ローン地獄真っ只中……


「ただいま」


 日曜の昼に夫がいたことはない。交友関係が広く、趣味に時間とお金を注ぎ込む明るい性格の人だ。持ち帰った冬服をクローゼットに入れ、空になったスーツケースに夏服を詰めてゆく。


 何か食べて帰ろうかと冷蔵庫を開けるが何も入っていない。この人が自炊するはずがなかった……結婚したのは27歳の時、今から9年前のこと。職場結婚だった。同い年の英語教師だった彼のことが好きだった、かどうかは分からない。出会いが無く、結婚をしたいという焦りで、自分の気持ちなんてどうでもよかった。


 5年前に母が倒れ、父が蒸発し、実家に頻繁に行くようになると夫の態度は急激に変わった。それまでは家事を一手に引き受けていた私に労いの言葉をかけてくれていたが、ここで過ごす時間が減り、家事が疎かになると露骨に嫌な態度を見せた。


 所詮「家政婦」のようにしか見られていなかったのだろう。公務員は福利厚生が充実しているから、私も早く子どもが欲しいと思っていた。同僚の多くがそうするように、産休・育休をたっぷりとって、職場に復帰したいと思っていた。いつか子ども部屋にと思っていた一室は、夫の趣味の物で溢れ返っている。


「行ってきます」


 次はいつ帰って来るのか分からない家に挨拶をした。




 ***




 明け方から昼すぎまで寝て、のっそりと起きる。洗濯機を回そうと思って、柔軟剤を切らしていることに気付く。「しまった……」昨日、帰りにコンビニで買って来ようと思っていたのを忘れていた。10年も日光を避けて生きて来たから、『昼間』が大の苦手だ。外を見てうんざりする。ドラキュラか……俺は……


 今夜、買ってくればいいかとも思ったが、また忘れるだろうと思い直し、サンダルを履く。普段は行かないドラッグストアに行くことにした。ついでにシャンプーや歯ブラシやらも買ってしまおう。


 商店街を歩いていると、ガラガラとキャリーケースを引っ張っている人がいた。心愛さんだ。白いパンツスタイルがまぶしい。無意識に駆け寄る。


「こんにちは」

「あ……こんにちは」

「昨日は大丈夫でしたか?」

「はい。ご心配いただきありがとうございます。今から、お店ですか?」

「いえ、まあ、はい」


 ドラッグストアに柔軟剤を買いに、なんていちいち言う必要は無いだろう。


「日曜日も営業されてるんですか?」

「はい。定休日は月曜です」

「そうなんですね」

「今夜も来てくれますか?」


 口走ってからしまったと思った。強引に誘ったように思われなかっただろうか。


「私……一人ですし、そんなにお酒も飲みませんし……」

「それは、お気になさらないでください」

「でも……」

「なら、今からどうですか?」


 いつになく積極的な自分に、俺自身が驚いている。


「今からですか?」


 キャリーケースに目を落とした心愛さん。


「お持ちします」


 そう言って、取っ手を握った。一瞬、手が触れてしまい焦ったが、平静を装う。

 もう行ったもん勝ちだ。ガラガラと音を立てながら店に向かう。16時。開店準備にはまだ早いが、準備中の札を掲げて店に入る。


「いいんですか?」

「構いません。あの……連絡先を教えていただけませんか?」

「え?」

「いえ。あの、昨日、聞いとけばよかったなと。家についたら連絡をもらえれば安心なので」

「そういうことですね」


 心愛さんはピンクのスマホを出し、俺たちは晴れてお友達登録を済ませた。


「何を飲まれますか?開店前なので、今日はご馳走します」

「いいえ。悪いです……」

「一人で準備するの寂しいんですよ。付き合っていただくお礼です」

「では、お言葉に甘えて……龍二さんのお勧めを……」


 名前を呼ばれてゾクッとしてしまった。


「お任せください」


 ホワイトラム、パイナップルジュース、ココナッツリキュール、ココナッツミルクを入れてステアし、味を確認。氷をシェイカーに入れ振る。シャッカシャッカシャッカ


「おぉ!」


 そういう反応が欲しくて、無駄にかっこつけてしまった自分が急に恥ずかしくなった。

 グラスにクラッシュアイスを入れて、カクテルを注ぎ、カットした生パイナップルを添えて、ストローを刺す。コースターに乗せ、スッとカウンターを滑らした。


「ピニャコラーダです」

「ピニャコラーダ……」

「ココナッツとパイナップルのトロピカルなお酒です。ラムベースで飲みやすいと思いますよ」


 心愛さんはそっとストローに口を付けて、一口飲んでから手で口を押さえた。


「美味しいっ」

「よかったです。どちらか、行かれてたんですか?」


 大きな荷物が気になってしまう。


「あ、自分の家に……衣替えって言うか……」

「ご自宅、この辺じゃないんですか?」

「あ、今、母と一緒に住んでいて。体調がよくないので。実家がすぐそこで……」


 そういう事か。プライベートのうまくいかない事って、これなのかな。



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