第3話

 それから季節は二つほど進み、私たちは中学三年生の夏を迎えた。受験生の天王山とも呼ばれる夏。私たちの通う学校は普通の公立中学校だから、みんな受験をしなければ高校生になれない。


「あぁぁぁ、夏休み始まったら塾で勉強漬けだよ~……今年ばっかりは、夏休みなんて来なきゃいいのに」


 夏休みを目前に控えた七月の教室は、着々と受験に向けて時間が進んでいくことへの嘆きで満ちていた。蒸し暑い空気が、余計にみんなの気持ちを落ち込ませているようだ。


 私はというと、まあ人並みに受験勉強を恐れてはいたものの、少なくとも高校に進学できないなんてことはないだろう、と思っていた。私が何をやらせても平均的な人間だということは両親もよくわかっているから、そこまで期待もかけていないのだ。


 それより心配なのはマリンだった。マリンは成績が悪い。彼女はちゃんと進学できるんだろうか、と不安になって、マリンが座っている席の方に視線を送る。目が合うなり、マリンは何も考えてなさそうな表情で手を振ってきた。心配していたのが馬鹿らしく思えてきた。


 そうやって、いつも通りの日常を過ごし、帰りのHRに先生が早くやってこないかと気だるげに待っていた瞬間のことだった。


「おい、みんな! やばい、やばいぞ!」


 そう言って、突然クラスの中心的な男子が騒ぎ出した。そいつは校則で禁止されているにも関わらずスマホを持ってきているアホで、先生にスマホを没収されては取り返しといういたちごっこをしていて、よくスマホに入ってきたネットニュースを目にして騒ぎ立てていた。たいていは芸能人の誰々と誰々が結婚した、みたいな、くだらないニュースだ。


 だけど、今度ばかりはくだらないなんて言ってられない内容だった。


 クラス中がそいつの周りに集まって――スマホの画面を見た途端、絶句した。


 海に、見たこともないような怪物が出現している。


 毒々しい色をしたタコが、鎌倉の大仏レベルにデカくなったみたいな、そんな怪物。怪物は浜辺で逃げ惑う人々をにゅるにゅるした触手で絡めとっては、海の中に放り捨てていた。


「こんなの、絶対AIが作ったやつだろ」


 と、冷静な誰かが言った。途端にみんなの緊張が解け、「そりゃそうだよな」「こんな化け物、現実にいるわけないよな」と口々に言いあう。


 しかし、その直後、いつもよりだいぶ遅れて教室にやってきた先生の言葉によって、あの映像はAIなんかじゃなかったと知ることになる。


「海に、えー……見たこともないような、巨大で危険な生き物が現れたそうです。……信じられないかと思いますし、先生もまだ信じられていませんが、とにかく安全のためにみなさんすぐ下校してください。あと、絶対に海に近寄らないこと」

 

 先生の顔は真っ青だった。


 まるで現実味が湧かなかったけど、私はとにかくこの話を聞いて、真っ先にマリンの作り話を思い出していた。もしかしてあれは、よくある中二病患者の妄言なんかじゃなくて、本当にマリンは海で戦う戦士だったんじゃないか?


 教室のみんながざわつく中、私はマリンの方に再び視線をやった。マリンは抜け殻のようになっていた。


「それで、マリンはやっぱり、本当に戦士だったの?」


 どうしても気になった私は、その日の帰りマリンを誘って一緒に帰った。マリンは途中まで帰り道が一緒だった。


 私の質問に対して、マリンは力なく首を横に振った。


「全然……だって、あれはぼくの頭の中でしか起きてないことで、今ここで、この世界で起きることだなんて思ってなくて」


 マリンはずいぶん混乱して、参っているようだった。声は震えて、足取りはふらついていた。無事に帰れるか心配なほどに。


「ねえ、もしかして、これってさ、ぼくのせいなのかな」


 だしぬけに、マリンはそう言った。


「ぼくが毎日毎日、海の中の怪物とか、そこで戦う自分の姿とか、そういうものを想像していたから、想像が現実になっちゃったのかな」

「……大丈夫だよ、マリン。きっとたまたま現実に起こったこととマリンの妄想が、ほんのちょっとだけ一致したっていうだけで」

「でも!!!!」

 

 マリンは私の言葉を遮った。喉が枯れてしまいそうな、絶叫だった。


「あのタコは、ぼくがずっと頭の中で思い描いていたタコにそっくりなんだ!!!!!!」


 そんなの、やっぱりたまたま、偶然の一致に過ぎないのだと言うこともできた。


 だけど、泣いているマリンにかけるべき言葉はそんな言葉じゃないということぐらい、私にもわかった。


「マリンのせいじゃないよ……絶対、マリンのせいなんかじゃないよ」


 だから私は、とにかくそう繰り返すしかなくて、その言葉のあまりの頼りなさに辟易した。私はいつも、誰かが本当に苦しんでいるとき、とても無力な存在に成り果ててしまう。


「ぼくが、みんなを殺しているんだ……」


 結局、何を言ってもマリンは聞いてくれず、最後にその言葉を残して別れた。私とは反対の方向に曲がっていくマリンの背中を見送って、追いかけようとして、やめた。私がいても、マリンを余計に追い詰めるだけだった。

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