第十六話 火の揺り籠

 山道を越えると、景色は唐突に開けた。

 赤い土が途切れ、緑と黒が混じった段畑が見える。

 その斜面の途中に、木と土壁で作られた小さな集落があった。


「ここが……」

「焔ノ峰の麓だ」


 沙羅は細い指で集落を指し示した。


 山の熱が漂っているはずなのに、風はどこか柔らかく、

 まるで大地が深く息を吐いているみたいだった。


 集落の入口に差し掛かると、老人たちが薪を割る音や、

 子供たちが走り回る声が聞こえてくる。

 だが、その明るさの奥に、目に見えない“影”のような空気があった。


 ひかりは無意識に、胸に手をあてる。


 火は、まだ泣き止んではいない。


 ただ――少しだけ、息ができている。


「この集落は火の国の“揺り籠”。

 火が生まれ、育ち、戻る場所」


 沙羅の声はどこか懐かしむようだった。


「焔ノ峰が震えると、真っ先にここが揺れる。

 だから皆、どこかで怯えてる」

「……だから、祭りがあんなに賑やかだったの?」

「うん。

 賑やかじゃないと、怖いから」


 その言葉は、火よりも熱かった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 集落の端にある、低い軒の家に案内された。

 木の床は温かく、火の国の土がよく乾いていた。


「旅人はここに。

 薪はそこ。

 寝床は自由に使って」


 短い言葉で、しかし柔らかかった。

 この土地の人は、火のように無駄がない。


 ひかりは刀を丁寧に脇へ置き、床に腰を下ろす。


「……疲れた?」

「うん。でも……」


 ひかりは空を見上げる。

 天井はない。

 代わりに、火山の赤が見える中庭が開いていた。


「火が、まだ震えてる」

「そうだね」


 沙羅も同じ方向を見た。


「火は人より強いけど、人より繊細でもある。

 少しの歪みでも、すぐ苦しくなる」


 ナナシは壁に背を預け、草を噛む。


「……沙羅」

「なに?」

「お前さんは、なんで火巫女なんてやってんだ?」


 沙羅は目を閉じ、少しの間を置いた。


 その沈黙は、苦しみでも後悔でもなく――

 息を整えるための沈黙だった。


「火に、焼かれたことがあるの」


 ひかりは、はっと息を呑む。


「……焼かれた?」

「火が怒ってたんじゃない。

 私が、火に向き合うのを間違えたの」


 沙羅は袖をまくった。


 その腕は――白く見えた。

 でも、よく見れば、細かい火傷跡が幾重にも重なっている。


「火はね、“触れる”んじゃない。

 寄り添って、“聞かせてもらう”もの」

「でも私は、その頃の私は……

 火を“使おう”としてた」


 声が、かすかに震える。


「焔ノ峰の心に触れたとき、火は泣いていた。

 苦しくて、痛くて、助けてって」

「でも私は……

 “助ける”んじゃなくて、抑えつけた。

 静まれって、無理に押し込んだ」


 ひかりは息を止めた。


 それは――

 ユグラの森で見た“理の歪み”と同じだった。


「だから、火は私を焼いた」


 沙羅は微笑んだ。

 痛みではなく、許しの色で。


「火は、ただ苦しかっただけだったのに」


 ひかりの胸が熱くなる。

 炎ではなく、涙の熱。


「沙羅は、怖くないの?」

「怖いよ」


 即答だった。


「でも、怖いまま離れたら、火はまた泣いちゃう。

 それは……嫌だから」


 ひかりは、拳を握った。


「……私も、一緒に行く」

「うん。

 ひかりがいてくれるなら、火はきっと大丈夫」


 ナナシがため息を吐く。


「まったく……世話が焼ける連中だ」

「ナナシさん」

「なんだ」

「ありがとう」

「……あ?

 なんで礼言われなきゃならねぇんだ」

「だって、ナナシさんがいなかったら――」

「嬢ちゃんはとっくに燃え尽きてるな」

「そういうこと」

「言い切るなよ」


 ひかりが笑う。

 沙羅も、小さく笑う。


 火は、少しだけ――

 本当に少しだけ、楽になったように揺れた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 外の風が、赤い空気を揺らす。


「明日は山に入る」


 沙羅が言う。


「焔ノ峰の“心”に触れる日」


 ひかりは、刀をそっと抱えた。

 心臓の音が、火の脈と重なる。


「行こう」

「うん」

「嬢ちゃん、寝ろ。明日は燃えるぞ」

「燃えないよ」

「燃やすなよ」

「……がんばる」


 三人の笑いが、小さく混ざった。


 火はそれに、ほんのわずか、寄り添うように揺れた。

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