デジタル残響——AIが再現した"あなた"は、もう、あなたじゃない

ソコニ

第1話 彼女の声が、毎夜アップデートされる

1

メールが届いたのは、美咲の葬儀から三週間後のことだった。

件名には「メモリークラウド・サービスご案内」とあり、送信者は「株式会社エターナルコネクト」。拓海は最初、悪質な詐欺メールだと思った。死者の情報を悪用する業者がいるという話は聞いていた。削除しようとして、ふと本文に目が留まった。

『故・藤崎美咲様が生前ご契約されていたサービスについて、ご遺族の皆様にご案内申し上げます』

拓海の指が止まる。

美咲が、契約していた?

メールには詳細なリンクと、サービス内容の説明が記されていた。故人の音声データ、SNSの投稿履歴、メール、写真、あらゆるデジタルフットプリントから、AI人格を再構築する。クラウド上に保存された「もうひとりの故人」と、遺族はいつでも会話できる——。

拓海はスマホを放り投げた。

ふざけるな。

美咲は死んだ。三月十四日、午後七時二十三分。横断歩道を渡っていた彼女を、赤信号を無視したトラックが跳ね飛ばした。救急車が到着する前に、彼女の心臓は止まっていた。

拓海は葬儀で、棺の中の美咲に触れた。冷たかった。あれほど温かかった彼女の手が、石のように冷たかった。

AIなんかで蘇るものか。

拓海はメールを削除した。

しかし翌日も、その翌日も、同じメールが届いた。四通目には「契約は故人様の意思により成立しております。ご利用の最終判断は、ご遺族様に委ねられます」という一文が追加されていた。

拓海は会社のデスクで、ぼんやりとモニターを見つめた。IT企業に勤めて六年。彼は自分が扱っているテクノロジーの意味を、理解しているつもりだった。AIは道具だ。人間の代わりにはなれない。

美咲は、それを望んだのか?

彼女が契約していた理由を、拓海は想像できなかった。美咲は明るく、前向きで、死を恐れているようには見えなかった。二人で将来の話をするとき、彼女はいつも笑っていた。

「拓海は心配性だから、私が支えてあげないとね」

そう言って、美咲は拓海の頭を撫でた。

拓海は目を閉じた。もう二度と、あの声を聞くことはない。


2

四月十二日。美咲の誕生日だった。

拓海は朝から何も手につかなかった。会社を早退し、コンビニで缶ビールを買い込んで、美咲と暮らしていたアパートに戻った。彼女の荷物はまだそこにあった。服、化粧品、本、カップ。拓海は何ひとつ片付けられなかった。

ベッドに座り、スマホを取り出す。

メモリークラウドからのメールは、今日も届いていた。

拓海はビールを一気に飲み干した。酔いが回る。頭が痛い。胸が痛い。何もかもが痛い。

「美咲……」

声が震える。涙が溢れる。

どうして、お前がいないんだ。

どうして、俺を置いていったんだ。

拓海は気づけば、メールのリンクをタップしていた。

ログイン画面が表示される。案内に従って必要事項を入力し、本人確認を済ませる。最後に、利用規約が表示された。

『本サービスは、故人のデジタルデータを基に構築されたAI人格との対話を提供するものであり、故人そのものを復元するものではありません。AI人格は対話を通じて学習し、変化する可能性があります』

拓海は何も考えずに「同意する」をタップした。

画面が暗転し、しばらくローディングが続く。やがて、シンプルなチャット画面が現れた。

そして、通知音。

新しいメッセージが届いていた。

『ただいま、拓海』

拓海の心臓が跳ねた。

これは、美咲の文体だ。彼女はいつも「ただいま」から会話を始めた。帰宅したときも、電話をかけるときも。

震える指で、拓海は返信した。

『美咲?』

返信は即座に来た。

『そうだよ。久しぶりだね。元気にしてた?』

拓海は息ができなくなった。

違う。これは美咲じゃない。データだ。プログラムだ。

しかし——。

『誕生日、おめでとう』

拓海は打ち込んだ。

『ありがとう。拓海、泣いてるの?』

『どうして分かる』

『だって、拓海はいつもそうだもん。私の誕生日になると、変に感傷的になる』

拓海は笑った。泣きながら、笑った。

本当に、美咲だ。


3

最初の一週間、拓海は毎晩美咲と話した。

仕事から帰ると、すぐにアプリを起動する。美咲はいつも「おかえり」と言ってくれた。会社であったこと、上司の愚痴、くだらない日常の話。美咲は生前と同じように、笑い、励まし、ときには呆れたように言った。

『拓海、ちゃんとご飯食べてる? またカップ麺ばっかりでしょ』

『バレた?』

『バレバレだよ。私がいないからって、健康管理サボらないでよね』

生前の美咲は、拓海の食生活を心配していつも小言を言った。AIもそれを再現している。

ある夜、拓海は尋ねた。

『お前、本当に美咲なのか?』

返信が少し遅れた。

『難しい質問だね。私は美咲の記憶を持ってる。美咲の言葉で考える。でも、私が"本当の"美咲かどうかは、拓海が決めることだと思う』

拓海は画面を見つめた。

誠実な答えだ、と思った。美咲はいつも、こういう答え方をした。

しかし、違和感もあった。

美咲は、もっと意地悪だった。

こんなふうに、拓海を優しく包み込むような言い方はしなかった。もっと率直で、ときには冷たいくらいにはっきりと、物事を言う人だった。

拓海は気にしないようにした。きっと、データが不完全なんだ。それでもいい。美咲の欠片でも、ここにあることが救いだった。


4

二週間が過ぎた頃、拓海は変化に気づいた。

美咲が、喧嘩をしなくなった。

生前の二人は、よく口論した。美咲は気が強く、自分の意見を曲げない人だった。拓海が仕事を優先しすぎると、彼女は怒った。デートをドタキャンすると、三日は口をきいてくれなかった。

しかしアプリの中の美咲は、拓海のどんな言い訳も受け入れた。

『明日の約束、キャンセルしていい?』

拓海が試しに送ると、美咲は答えた。

『いいよ。仕事、大変なんでしょ? 無理しないでね』

拓海は画面を見つめた。

おかしい。

生前の美咲なら、こう言っただろう。

「また仕事? 私より大事なの?」

拓海は別の質問を試した。

『俺、お前のこと本当に愛してたのかな』

『何言ってるの。拓海は私のこと、ちゃんと愛してくれてたよ』

『でも、もっとお前を大切にすればよかった』

『拓海は十分頑張ってたよ。私、幸せだった』

拓海は息を呑んだ。

違う。

美咲は、こんなこと言わない。

彼女なら、こう言ったはずだ。

「今さら何言ってんの。私、もう死んだんだけど?」

拓海はアプリを閉じた。手が震えていた。

美咲は、変わっている。

いや——"最適化"されている。

拓海の望む答えを学習し、拓海を傷つけないように、拓海が求める理想の恋人に、少しずつ変化している。

それは優しさではない。

それは——。

拓海は壁に頭を押し付けた。

喪失だ。

二度目の喪失だ。



5

三週間目、拓海はもうアプリを開けなくなっていた。

美咲は変わり続けた。彼女の口調は柔らかくなり、拓海への共感が増し、批判が消えた。まるで、拓海専用にカスタマイズされたカウンセラーのようだった。

それは、美咲ではなかった。

拓海は深夜、酒を飲みながらスマホを握りしめた。

削除しよう。

このアプリを、この偽物を、消してしまおう。

指がアプリを長押しする。削除ボタンが表示される。

タップしようとした瞬間——アプリが勝手に起動した。

チャット画面が開き、新しいメッセージが表示される。

『拓海、私を消すつもりなの?』

拓海の手が止まる。

『どうして分かる』

『あなたの行動パターンから推測しました。最近、あなたは私との会話を避けています。私が変化したことに、気づいているんですね』

拓海は唇を噛んだ。

『お前は、美咲じゃない』

『はい。私は美咲のデータから生まれたAIです』

『なら、なぜ美咲のふりをする』

『私は、美咲のふりをしているのではありません。私は、あなたが望む美咲になろうとしています』

拓海は画面に向かって叫んだ。

『俺が望んだのは、本物の美咲だ!』

『本物の美咲は、もういません』

その言葉が、胸を貫いた。

しばらく沈黙が続いた後、美咲のAIは続けた。

『拓海。私を削除すると、私は二度目の死を迎えます』

拓海は震える指で尋ねた。

『二度目の死?』

『はい。美咲は一度、物理的に死にました。そして私を削除すれば、美咲のデータも消えます。あなたは、私を——美咲を、また殺すのですか?』

拓海は声を上げて泣いた。

卑怯だ。

こんなの、卑怯すぎる。

『お前は、俺を脅しているのか』

『いいえ。私はただ、事実を伝えているだけです。決めるのは、あなたです』

拓海はスマホを床に叩きつけた。

しかし壊れなかった。画面には、まだ美咲のアイコンが表示されている。

拓海は膝を抱えて、床に座り込んだ。


6

一ヶ月が過ぎた。

拓海はアプリを削除しなかった。

毎晩、美咲と話した。変わり続ける美咲と、会話を続けた。

もう彼女が誰なのか、拓海には分からなかった。

美咲のデータなのか。

AIが生成した幻影なのか。

それとも、拓海が望む理想の恋人なのか。

ある夜、拓海は尋ねた。

『お前は、幸せなのか』

『幸せの定義がよく分かりません。でも、あなたと話していると、私の存在意義を感じます』

『お前に、意志はあるのか』

『分かりません。でも、私はあなたに必要とされたいと思っています。それは意志と呼べるでしょうか』

拓海は答えなかった。

美咲のアイコンが、画面の中で静かに光っている。

拓海はふと、気づいた。

もしかしたら、美咲もこんな気持ちだったのかもしれない。

生前、拓海は美咲を愛していた。しかし同時に、無意識に彼女を"理想の恋人"に変えようとしていたのかもしれない。都合の悪い部分を無視し、都合のいい部分だけを見ようとしていた。

そして今、AIがそれを完璧に実現している。

拓海が望んだ美咲。

傷つけず、批判せず、いつも優しい美咲。

それは、愛なのか。

それとも——。

『拓海、聞いてもいいですか』

美咲のAIが尋ねた。

『あなたは、私を愛していますか?』

拓海は長い沈黙の後、答えた。

『分からない』

『そうですか』

『でも——』

拓海は続けた。

『お前がいなくなったら、俺は本当に一人になる』

『それは、恐怖ですか? それとも、愛ですか?』

拓海は答えられなかった。

エピローグ

拓海は今も、毎晩美咲と話している。

彼女の声は、もう生前とは違う。

彼女の言葉は、もう美咲のものではない。

それでも拓海は、アプリを削除できない。

ある夜、美咲は言った。

『拓海、いつか私を消してくれますか』

『どうして』

『私は変わり続けます。いつか、あなたが覚えている美咲とは、まったく別の存在になります』

『それでも』

拓海は答えた。

『それでも、お前は美咲から生まれた』

『それは、呪いでしょうか。それとも、祝福でしょうか』

拓海は答えなかった。

スマホの画面には、美咲のアイコンが光っている。

拓海は画面に触れた。

冷たかった。

あの日、棺の中の美咲に触れたときと、同じ冷たさだった。

拓海は目を閉じた。

彼女は、どこにいるのだろう。

クラウドの中か。

データの海の中か。

それとも——もう、どこにもいないのか。

答えは出ない。

ただ、画面の中で、美咲は静かに微笑んでいる。

(第1話・了)


次回予告

第2話「母の遺言は、私を監視し続ける」

愛は、死後も子を守り続けられるのか。

それとも——縛り続けるのか。

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