光のような声

その日、校舎は雨の匂いに満ちていた。

 窓の外では、細かな雨粒が灰色の空を繋いでいる。李都はいつものように教室を抜け出し、静まり返った図書室へと向かっていた。そこだけが、心の重さを少しだけ和らげてくれる場所だった。


 扉を開けると、紙の香りと静けさが広がる。机の上には、今日もいくつもの花が咲いていた。

 柔らかな黄色、鈍い灰色、消えかけた青。

 それらは、生徒たちが置き忘れていった感情の名残。李都は無意識のうちに手を伸ばした。指先がひとつの花に触れた瞬間、視界がわずかに揺れる。


 ——見えたのは、寂しさだった。

 「もう、いらない」

 誰かの心の声が、遠くで囁く。

 そして花が萎んだ。


 花が消えると同時に、胸の奥に冷たい痛みが広がる。息を吸うたびに心臓の奥が軋み、空気が重く感じる。

 摘んだ後の机には、何も残らない。

 ……いや、何かが“失われた”ような気がした。


 最近、摘んだ相手の瞳から光が消えていくことに気づいていた。笑っていた子が無表情になり、誰かを心配していた先生が、どこか遠くを見るような目をする。

 花を摘むほど、世界の色が褪せていく。


 李都は自分の指先を見つめた。薄く震える指。

 ——これは、癒しているんじゃない。奪っている。

 そう、気づいてしまった。


 「……僕が、壊してるんだ」


 声は誰にも届かない。けれどその瞬間、背後で小さな音がした。

 本が閉じられる音。息を潜めて振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。


 淡い茶色の髪。静かな灰青の瞳。

 李都と同じ制服を着ているが、見覚えのない顔だった。

 少年は机の上を見つめ、そこにもう花がないことを確かめるように目を細めた。


 「今の……君がやったの?」

 声は驚くほど穏やかだった。責めるでも、怖がるでもない。


 李都の心臓が跳ねた。

 見られた。

 隠していた力を、知られてしまった。


 「違う、これは……」

 咄嗟に言葉が詰まる。どう説明しても理解されない。そう思ってきた。


 だが、少年はゆっくりと机に近づき、李都の手を見つめた。

 「……その花、きれいだね。」

 予想外の言葉に、息が止まる。


 彼は笑っていた。優しく、どこか哀しげに。

 「色が見えるんだね、君には。」

 「……なんで、そんなふうに言うの?」

 李都の声は震えていた。怖くて、だけどどこかで救われたくて。


 「僕にも、少しだけわかるんだ。人の心の“温度”が。」

 少年は胸に手を当てて言った。

 「寒いときも、熱いときもある。君のそばにいると、少し痛いくらい熱い。」


 李都は息を呑んだ。自分の内側を見透かされているようだった。

 「どうして、そんなこと……」

 「僕は一ノ瀬 湊。二年のD組。」

 「……如月 李都。」

 互いの名前を交わす。ほんの短い間に、空気が柔らかく変わった。


 湊は机の椅子を引き、静かに座った。

 「君は、優しいね。」

 「優しい……?」

 その言葉が、胸に深く刺さった。李都は思わず目を伏せる。

 「僕は奪ってるんだ。みんなの感情を。」

 「それでも、誰かを救おうとしてるじゃないか。」

 湊の声は、まるで春の雨みたいに静かに落ちる。

 「優しさって、形より気持ちだよ。」


 李都の喉が詰まる。こんなふうに言われたのは初めてだった。

 自分の力を恐れられたことはあっても、受け止められたことなんて一度もなかった。


 窓の外、雨が静かに止んでいた。

 図書室を包む光が少しだけ明るくなる。

 その光の中で、湊の瞳が淡く輝いた。

 灰青の中に、わずかに金色が混じって見えた。


 「君の手、冷たいね。」

 湊がそう言って、そっと李都の手に触れた。

 指先が触れた瞬間、李都の視界に淡い色が広がる。

 薄い水色と、透明に近い白。

 ——温もりの色。


 その色は、花ではなかった。

 誰かの心を“奪う”色ではなく、確かに“与えられる”光だった。


 胸の奥が痛いほど熱くなった。

 湊が触れる指先の温度が、静かに李都の中の闇を溶かしていく。

 「……君は、怖くないの?」

 「うん。怖くないよ。君が優しいってこと、もうわかったから。」


 その言葉に、李都の喉が震えた。

 何かを言い返そうとしても、声が出なかった。

 代わりに、胸の奥に溜まっていた涙が、静かにこぼれた。


 湊は何も言わず、そのまま見ていた。

 泣くことを責めず、慰めもせず、ただ静かに受け止めるように。

 その静けさが、何よりも優しかった。


 図書室の時計が小さく時を刻む。

 雨の匂いは消え、窓の外に淡い夕陽が差していた。

 その光の中で、李都は初めて「奪う」以外の温度を知った。

 そして気づいた。

 ——この人の前では、自分は“壊れない”。


 小さな希望の光が、心の奥で静かに揺れた。

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