少年は花を摘む
内藤 いと
少年の日常
教室の窓から差し込む朝の光が、机の上にまぶしく反射していた。静かに降り注ぐ光は、空気を少しだけ温め、白い紙やノートを淡く照らす。李都はいつもの席に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。風が校庭の木々を揺らすたび、遠くで誰かの笑い声や足音が響く。何も特別なことのない、いつも通りの朝。しかし、李都にとって「普通」は、少しだけ複雑だった。
目に映るのは、クラスメイトたちの表情――笑顔や困惑、眠そうな瞳、些細な苛立ち。誰も気づかないだろうが、李都には見えていた。人の感情は、彼の目の前でそっと花の形をとって咲いている。小さな笑顔からは淡いピンクの花が、少し悲しげな眉間の皺からは深い紫の花が、怒りの感情からは赤い花弁がちらりと覗く。色も形も千差万別で、触れるとその花が発する空気の熱さや冷たさ、香りまでが、李都の胸に流れ込むのだ。
「……今日もか。」
小さく呟きながら、李都は隣の席の女の子の花に手を伸ばした。彼女は昨日、部活で失敗したことを気にしていたらしい。淡い紫色の花が、かすかに揺れている。指先がその花に触れると、胸の奥に重みがずんと落ちてきた。見たことのない景色、心に焼きついた忘れたい記憶――それが一瞬で彼の中に流れ込む。女の子の表情は変わらず、机にうつむいたままだったが、花はすっと消えた。
「……大丈夫かな」
李都は無意識に息を吐き、肩を少し落とす。しかし、彼の心はすでにずっしりと重かった。誰にも見せることのできない痛みが、胸の奥で波のようにうねる。けれど、助けられた女の子の背中は少しだけ柔らかくなったように見えた。そう思うと、微かに安堵が胸を通り抜ける。
昼休み、教室を出た李都は中庭へ向かった。校庭の片隅、木々の間にひっそりと咲く花々。誰のものかもわからないけれど、そこにもまた色とりどりの花が揺れている。風にそよぐその花たちに触れ、李都は次々と心を受け取る。友人たちの悩み、教師の小さな苛立ち、部活の先輩の焦り。触れるたび、胸の奥に重さが増していく。
しかし、李都はためらわなかった。自分の心が痛むことはわかっていた。それでも、彼は人々を助けたいという気持ちの方が強かった。触れることで、誰かの悲しみが少しだけ軽くなる。たとえ自分の心が削られるとしても、やめることはできない。
昼休みの鐘が鳴り、再び教室へ戻る道すがら、李都はふと気づく。校内のあらゆる場所で、見えない花が揺れている。体育館の裏、図書室の窓際、職員室の廊下――誰のものでもかまわない、李都は静かに歩きながら、触れては花を摘んでいった。教師たちの小さな苛立ちも、先輩たちの焦りも、すべて彼の胸に吸い込まれていく。
「……でも、これでいい」
心の奥で繰り返す言葉。助けられた誰かが笑う瞬間、ほんの少しでも軽くなる瞬間、李都はそのために自分を削っているのだ。誰も気づかない、見えない戦い。でも、その戦いこそが彼の生きる証であり、切なさの源でもある。
夕暮れ時、教室に戻った李都は自分の席に座り、窓の外に広がる夕焼けを見つめる。空は淡いオレンジ色に染まり、校庭の花々も夕日の光を浴びて金色に輝く。しかし、李都の胸の中には、摘み取った花の色と香りが混ざり合い、痛みと重みだけが残っていた。
「……僕の花は、咲かないのかな」
小さな呟きが教室に響くことはない。だが、李都は確かに知っていた。自分の心は痛みで満ちている。それでも、誰かを救いたい気持ちは消えない。胸の奥に重さを抱えたまま、彼は静かに夕焼けを見つめた。助けることと孤独の間に揺れる、静かな戦いは、まだ始まったばかりだった。
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