第33話 学校ごっこ


 その日は、透き通った青空だった。

 朝の空気は冬の気配を含んで冷たく、けれど陽は優しくて、山の斜面に広がる畑は金色に光っていた。


 相沢家の庭先に、子どもたちの声が集まりはじめる。


「おはよー、モコちゃん!」

「今日も学校やる?」

「やるやる! 黒板持ってきた!」


 小さな机代わりの木箱、古いノート、色鉛筆。

 みんなで持ち寄った“学校ごっこ”の道具が並ぶ。


 モコはもう、すっかり中心だった。


「モモッ!(きた!)」


 しっぽがふるふる揺れる。

 子どもたちはそれを見るだけで笑顔になる。


 その輪の端に見慣れない兄妹がいた。


 兄はまだ小学生も半ば。妹は兄の影に隠れるように立っていて、手をぎゅっと握りしめていた。


 彼らの父は冒険者だ。

 数日前、第七ダンジョンで怪我をしてしまい、療養のためこの地域に一時滞在していると聞いていた。


 慣れない場所。知らない子どもたち。

 妹は不安でいっぱいの顔をしていた。


 そこにモコが歩み寄る。

「モモ(いこう)」


 ふかふかの背中をすっと妹の足元に添えて、しっぽでそっと“どうぞ”と促す。


「……すわっていいの……?」


「モモ(いい)」


 妹はおそるおそる腰を下ろした。

 兄はほっと息をついた。


 それだけで空気がやわらかく溶けた。



 教壇(という名の木箱)に立つのはモコ。


 その小さな顔には芳子が作ったちょっと大きい“伊達メガネ”。

 そして前足には、落ちていた枝を削って作った“先生の指し棒”。

 子どもたちはそれを見ただけでもう笑顔がとける。


「モモモ……(きょうのきゅうは……)」


 モコはふりかえり芳子を見る。


 縁側で麦茶をすすっていた芳子がほほ笑む。

「“給食”ね、モコちゃん」


 モコは胸を張り、指し棒を天に掲げて……

「モモモ……(きょうのきゅうは……)」


 前足を大きく広げる。

「モモ!!(やきいも!!)」


「「「やったあああああ!!!」」」


 即座に跳ね上がる子どもたち。


 芳子は笑いながら言う。

「それだけじゃありませんよ~。

 かぼちゃのポタージュと干し柿もあるわ」


「おばあちゃん天才すぎる!!」

「相沢さんちの料理は世界一!!」


 褒められても芳子はただ「んふふ」と笑うだけだ。



 ここでひとつ、不思議なことがある。


 子ども達はモコの声を“言葉”として理解できている。

 理由は誰も説明できない。

 でも、誰も疑わない。


 だって、モコはちゃんと「伝えようとしてくれる」から。

 そして子どもたちは「聞こうとしている」から。

 それだけで言語は成立する。

 それだけで心は通じる。



「モモモモモモモモ!(きょうのべんきょう《お絵描き》は、どんぐりの“おうち”をかこうとおもいます!)」


「「「はーい!!!」」」


 モコは、すっと伊達メガネを押し上げ、指し棒で紙を指す。

 その姿は完全に先生である。


 紙には、まんまるのどんぐりにとんでもなく立派な城が生えていた。


「モコちゃんのそれお城!?」


「モモッ(あと、とびら)」


 指し棒で「入口」を指す。

「モッ(おかしのドア)」


「「「かわいい~~~!!」」」

 子どもたちは大歓声。



 あの兄妹もお絵描きをしていた。

 妹はまだ筆圧が弱くて、線が細い。

 けれど兄がそっと横に座り、色鉛筆を持って言う。

「ここ、こうやって丸くするとね、かわいくなるよ」


「……ほんと?」


「ほんと」


 声は静かであたたかい。

 モコは、その後ろから指し棒で兄の肩をちょんとつつく。

「モモ(にい、すごい)」


 兄は一瞬固まり、そのあと照れを隠せず笑った。

 妹は胸を張って描き始める。


 その子の絵には、モコと自分が同じ城の中に並んでいた。

「……モコちゃん、いっしょにいてくれてありがとう」


 モコはそっとしっぽでその絵にを描いた。

「モモ(うん。ずっと)」


この光景の中に説明は要らない。


子どもたちは、ちゃんとモコの言葉を理解し、モコはちゃんと子どもたちを導く。


先生みたいに。 友達みたいに。 家族みたいに。


「ここで過ごす時間が心をあたためている」ということを誰も疑わなかった。



 給食おやつの時間が始まる直前。

 兄妹は机の端で小さく座っていた。


 父は冒険者だ。

 十二階層での落石事故で脚を深く傷つけ、現在は相沢家の近くにある療養棟で静養している。


 戦えるほどには回復していない。

 だが、生きて戻れた。

 それは幸運であり、同時に不安の始まりでもあった。


 妹は心配が胸いっぱいに詰まっているようだった。

「……おとうさん、なおるかな」


 ぽつりと落ちた声は風の音に紛れて小さかった。

 兄はすぐに妹の手を握る。

「治るよ。だって、お父さんだもん。

 お父さん、めちゃくちゃ強いんだから」


 笑っているのにその指先はかすかに震えていた。

 モコはその震えに気づいた。

 そっと、兄の手の上に前足を置く。

「モモ(つよい。だいじょうぶ)」


 兄の目が驚きで揺れ、次にゆっくりほどける。

「……うん」


 妹もモコに抱きつく。

「あったかい」


「モモ!(でしょ!)」


 言葉はすごく短いのにそれで十分だった。



 そして、給食おやつの時間が始まる。

「はーい、手を合わせて~」


 芳子の声は柔らかくてあたたかい。

「いただきます。」


「「「いただきます!!!」」」


 焼き芋はほろほろ甘い。

 土の香りごと幸福がしみ込んでいる味。


「……あぁ~~~……しあわせ~~~」


「うんまっ!!!」


「これ売ったらお金持ちになれるよ絶対!!」


 モコは頬袋いっぱいに幸せを詰めていた。

「モモモモモ……(しあわせのかたまり……)」


「かわいいーーーーーー!!!!」

 再び子どもたちは大歓声。


 焼き芋を見つめる妹。

 欲しさに頬がふくらむ。


 兄は迷わず、自分の半分を妹に渡した。


「……にい……!」


「お前が喜ぶと俺もうれしいから」


 その声には、背伸びした強がりはなかった。

 ただ、“守りたい”という気持ちだけがあった。


 それを見ていた芳子はふわりと微笑む。


「あなた、とてもえらいわね。

 でもね、がんばりすぎちゃだめよ」


 そう言って兄の皿にも焼き芋をそっと追加した。


「遠慮しなくていいのよ。

 ここではがんばりすぎなくていい」


 兄は、息を吸ってゆっくりと吐いた。

 目の奥にあった張りつめた何かがほどけていく。

「……ありがとうございます」


 その声はとても小さかったけれど、まっすぐだった。


 モコはその横でふわふわの胸を兄妹に押し付ける。

「モモ(ここ、あんしん)」


 妹は笑って、兄も笑って、その笑顔だけで庭がすこし明るくなった気がした。



 食後。

 子どもたちは庭で鬼ごっこ。

 落ち葉が舞い、笑い声が空へ溶ける。


 モコは、みんなを追いかける役。


「モモーーーッ!!!(まてーーー!!)」


「ぎゃーー!!来たーーー!!!」


「モモモモモモ!!(捕まったらモフモフさせてあげるの刑だ!!)」


 その「刑」を受けるのはどう考えてもご褒美である。

「わーーーーーしあわせーーーー!!!」


 庭は笑いで満ちていた。



 夕方。

 子どもたちが帰るとき、妹がモコにしがみついた。

「……また来てもいい?」


「モモ(いつでも)」


 兄も深く頭を下げた。

「父さん、治ったら……ちゃんとあいさつしに来ます」


 芳子はにっこりとやさしい声で言った。

「待ってるわよ」


 兄妹は手をつなぎ、山道を帰っていった。

 背中は来たときよりずっと軽かった。


 モコはその姿をずっと見送っていた。


「モモ……(またあしたもあたたかく)」


「明日も来る!」


「ぼくもー!」「私もー!!」


 元気な声が山道へ消えていく。

 モコは、その姿をずっと見送っていた。

「モモ……(うれしい)」


 芳子はそっとモコの頭をなでる。

「あなたはほんとうにすごい子ね」


「モモ?(なんで?)」


「人の心をほどいてあげられるんだもの」


 モコは照れて、前足で顔を隠した。



 兄妹は療養棟の父の部屋へ向かった。

 扉の前で妹はぎゅっと兄の服を掴む。


 中では父がゆっくりと息をしていた。

 包帯と固定具に覆われてはいるが、顔は落ち着いている。


「……ただいま」


 兄がそう言うと父は薄く目を開け、微笑んだ。


「おかえり。 今日は……楽しかったか?」


 妹はこくんとうなずく。


「たのしかった……モコちゃん、ふわふわだった」


 父はまばたきを一度して、安心したように静かに頷いた。


「そうか。よかったな……」


 しばらく三人だけのやわらかな沈黙が流れた。


 やがて、父はゆっくりと手を伸ばして、子どもたちの頭に触れた。


「……父さんもちゃんと治すよ。

 また一緒に家に帰ろうな」


 兄は唇を噛んで頷いた。

 妹は父の手をぎゅっと握った。



 その日、誠司が帰ってきた時。

 庭には落ち葉と笑いの余韻が残っていた。


「……良い一日だったのか」


「モモッ!!(さいこう!!)」


 モコは飛びつき、誠司の胸に頬を埋める。


 誠司は、ゆっくりと頭を撫でた。


「そうか。ならそれでいい」


 モコはしあわせの音を喉で鳴らした。


「モモモ……(あしたもいっしょ)」


 その小さな日常が、どれほど大きな未来を救うかをまだ誰も知らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る