第25話 氷の包囲戦

 山に日は傾きはじめていたが、空気はまだ冷たく乾いていた。

 誠司は、昼を終えてからさらに森の奥へと進んでいった。


 その後の3時間で、彼はさらに5つの集落を潰した。


 ただし、午前中と違ったのは、出てくる連中の質だ。


 最初に遭遇したのは、丘の斜面に張りつくように作られたゴブリンの拠点。

 粗末な木柵と、そこらの岩を積んだだけの壁。だが、中にいたのはただの雑魚ではない。


 ホブゴブリンが20匹前後。

 ゴブリンナイトが4匹。

 ソルジャーが20匹前後。

 アーチャーご15匹前後。

 メイジが4匹。

 ゴブリンガードも複数配置され、さらに背丈の低いゴブリンに骨馬のような獣を乗せたゴブリンライダーまでいた。


 つまり、「群れ」ではなく「部隊」だった。


(……この規模を“ただの野良”扱いか。国の調査は、ざるどころか底が抜けてるな)


 本来ならこれは、中堅以上の冒険者パーティーが合同で挑む内容だ。

 体勢が崩れれば即座に側面からナイトが突撃してくるし、前衛を押し切れない間にメイジの炎弾が飛んでくる。

 ふつうの4~5人パーティーが挑めば、半壊は避けられない。


 だが。


「《氷流一閃》」


 誠司の刀がひときわ低い音を立てて抜かれ、銀の軌跡が弧を描いた。

 空気そのものがきしみ、瞬時に白く凍りつく。


 真正面に並んでいたソルジャーも、盾を構えたガードも、その場で動きを止めた。

 氷像になる、というより“凍結した時間の塊”に変わる。

 それらは一瞬遅れて、音もなく砕けた。


 後衛のメイジが慌てて詠唱しようとした瞬間、

 誠司は一歩も動かず、左手を軽く振るった。


「《凍結圏アイスリング》」


 足元から氷の輪が走り、メイジたちの足を絡め取る。

 拘束。鈍化。沈黙。

 魔力の流れ自体が冷却され、詠唱が途切れた。


 次の一瞬、アーチャーたちの放った矢が、一斉に凍りついた空間で停止する。

 静止した矢はそのまま、動くことなく空中で粉になり消えた。


 ホブゴブリンが吠え、肩幅よりも大きな棍棒を振り下ろす。

 だが、刃が振られる前に、誠司はもう踏み込んでいた。


「《氷域結界アイスドメイン》」


 世界の温度が一段下がった。


 息が白いどころではない。

 地面が悲鳴を上げるような音を立てて凍りつき、木すらも氷晶化する。

 ホブゴブリンの筋肉が凍り、うねる動きが途中で固まる。

 棍棒を振り下ろそうとした体勢のまま、目だけがぎょろぎょろと動いた。


「遅い」


 誠司の一刀で、その首は静かに地に落ちた。


 結論からいえば、戦闘は少し時間がかかった、“少し”だ。

 彼にしてみれば、動きがひとつひとつ増えた程度。

 丁寧に順番に折り目正しく潰していくような仕事だった。


 ただひとつ言えるのは、これに普通のC級パーティーが当たっていたら、救助要請の暇もなく壊滅していた、ということだ。


(今すぐ畑を踏みに行けるレベルの脅威が、こっちの市境まで上がってきていた。……放置は本当に頭が悪いな)


 彼は溜息すら吐かず、片づけた魔物の素材を《収格納ストレージフィールド》にまとめて放り込み、次の拠点へ進んだ。


 その後も同じような拠点が4つ。

 合計5つ。

 そこにいたのは、もう「生活のための集落」ではなかった。

 明確な武装、明確な指揮系統。

 戦闘のために編成されている。


 誠司は淡々と殲滅を繰り返し、

 そしてようやく、目的の場所にたどり着いた。



 視界が開ける。

 山の地形がすり鉢状に落ち込んだ盆地。

 そこに、広大なゴブリンの主集落が築かれていた。


 柵というより、もはや柵を重ねて塀にしている。

 物見櫓は四塔。

 櫓の上にはアーチャーとメイジが配置され、地上ではソルジャーやナイトらしき個体が列を揃えていた。


 中央には、粗末だが広い広場。

 火床、獣の骨、武器の山。

 完全に“戦の準備”だ。


(……気づいてるな)


 周囲の小集落が次々に沈黙したことで、この主集落にも異変が伝わったのだろう。

 すでに装備は整っている。

 防衛ではない。“出撃準備”だ。


(時間をかけるのは悪手だな)


 誠司は即断した。

 逃げれば、奴らはバラけて山を下り、夜の間に民間地域へと散る。

 今ここで叩くしかない。


 彼はひとつ深呼吸して正面から歩いた。


 やましいことはひとつもない。

 彼は正面から堂々と歩いて行く。


 すぐに見張りに見つかった。

 甲高い警戒音が鳴り、櫓の上のアーチャーが矢を番える。

 粗末な木槍を持ったゴブリンソルジャーが、どっと押し寄せてくる。


 雨のような矢。

 赤い魔素が帯びた火球。

 土を弾けさせる衝撃波。


 すべてが、彼の体に届く直前。


 誠司は消えた。


 いや、正確にはそこに“いた彼”が霧のように凍り砕け、

 本物はすでに別の位置に移動していた。


 気配さえ、風に溶けている。


「《極冷斬・氷霞ひょうか》」


 誠司が刀を振った。


 斬撃とともに、極低温の結界が展開される。

 それは「斬った相手」だけでなく、「斬られるはずだった空間」そのものを凍らせる。

 結果、前衛ゴブリンたちは、一歩踏み込んだその姿勢のまま凍りつき、氷の彫像の列となって並んだ。


 誠司はそのまま動き続けた。

 囲まれることを恐れず、むしろわざと真ん中へ踏み込んでいく。

 ひと呼吸ごとに、数十体が止まり、砕け、消える。

 その動きはさながら除雪車のように。

 だが雪ではなく、戦力を削っていく。


「《氷域結界アイスドメイン》」


 次の瞬間、盆地全体の温度が一気に下がった。


 空気が張り詰めるのが、音でわかる。

 焚き火の炎が悲鳴のようにしぼみ、木柵がぱきぱきと凍って白く変わる。


 地面が凍てつく。

 そして、周囲の土が壁になる。


 彼は結界を地面に沿って滑らせ、

 広大な氷の縁を築いた。


 盆地の外へ向かう動線。逃げ道という逃げ道が、

 すべて分厚い氷の壁にふさがれる。

 ゴブリンが必死に登ろうとすれば、逆に滑って転び、

 重なったところに《氷盾障壁》を叩き込まれて、まとめて砕かれていく。


(逃げ道なし。ここからは出さない)


 誠司は機械のように冷静だった。


 ゴブリンナイトが両手剣を振りかざして突進してくる。

 ソルジャーが隊列を組み、盾を上げ、前進する。

 アーチャーが高所から集中射撃を浴びせる。

 メイジが魔法陣を展開する。


 すべて、対人を想定した訓練済みの動きだった。

 彼らは“野生”ではない。

 “軍隊”だった。


 だが、それすら、誠司には面倒というほどでもなかった。


 彼の一歩ごとに、ナイトの首が落ち、

 彼の一閃ごとに、盾列が凍りついて崩れ、

 彼の一呼吸ごとに、矢雨が空中で止まって粉になる。


 氷晶の破片が、朝日に似た光を反射する。

 冷たい粒が舞い、音もなく血を凍らせる。


 ゴブリン側の士気が完全に折れるまでに、ほとんど時間はかからなかった。


 だが、そこで終わりではない。


 盆地の中央から、二つの影が姿を現した。


 ひとつは巨大なゴブリン。通常の三倍はあろうかという体躯に黒い皮膚、濁った黄金色の眼。

 筋肉が鎧のように発達し、全身に骨の装甲をまとっている。

 王冠にも似た骨飾りを頭に載せ、手には人間の得物を改造した大剣。


 ゴブリンキング。

 ただの王種ではない。変異種だ。

 魔素の濃度が異常に高い。

 すでに「個」で災害指定されるレベルだ。


 そして、その隣。

 白い肌を持つ長身の個体。ゴブリンクイーン。

 痩せているように見えて、その実、内部に凝縮された魔力が渦を巻いている。

 周囲の魔物の行動をまとめ、制御し、増殖を指揮してきた中枢。

 この存在がいるからこそ、この群れは“集落”ではなく“軍隊”になっていた。


 キングが咆哮した。

 それだけで、周囲のゴブリンが息を吹き返したように動き出す。

 クイーンが手を掲げる。

 群れ全体が再びまとまる。


「……なるほど」


誠司は、ほんのわずかに目を細めた。

 評価を一段、引き上げた時の目だ。


「だが……」

 次の瞬間、彼の姿がかき消えた。


 ゴブリンキングの巨体が、半身ごと消し飛んでいた。


 目にも留まらぬ斬撃。

 《極冷斬・氷霞ひょうか》。


 斬った、というより、そこに“空間の切断と凍結”を置いていったような軌跡だった。

 キングは反応すら許されなかった。


 頭部だけが、かろうじて形を保っていた。

 だがそれもすぐに、薄氷に閉じ込められ、静止する。


 クイーンが金切り声を上げた瞬間、誠司はすでに、その首筋にいた。


 刃が振り下ろされる。

 血は出ない。

 彼の氷は、出血すら許さない。


 クイーンの身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 中心の二枚看板が沈んだ瞬間、群れ全体に走ったのは混乱ではない。

 恐慌そのものだった。


 組織され、統制の取れた“軍”は、指揮を失えば、ただの暴走集団に変わる。


 ソルジャーは我先に逃げ出し、アーチャーは弓を投げ捨て、ナイトですら背を向けて走った。


 だが、逃げ道はもうない。


 結界も、氷壁も、すでに張られている。

 誠司はその中を、ただひとり歩くだけでよかった。


 機械的に、順番に処理する。

 それはもう戦闘ではなく、後始末だった。


 剣と氷が閃くたび、声が止み、足音が消える。

 最後に残ったゴブリンナイトが、喉を引き裂かれたような声を漏らして膝をついた。


 誠司は、その首も迷いなく落とした。


 静寂が訪れる。


 盆地は氷の墓地と化していた。


 足元には、倒れ伏したゴブリンたち。

 数、およそ1,500。

 午前と午後の全討伐を合わせれば、駆除総数は2,000を軽く超えていた。


(……スタンピード直前の数字だな)


 通常、野良魔物はここまで数を揃えない。

 生態系の隙間を埋める程度の脅威で、ときどき農村に被害を与える“害獣”として扱われるのが常だ。

 だが、今回は違う。


 これは“軍隊”だ。


 野良魔物には、ダンジョン内のような魔素制限がない。

 あふれた分、どこまでも増える。

 増えるまでのスピードもおかしい。

 野良魔物のスタンピート級の群れが、街のすぐ側でそのまま膨れた場合。

 被害は、普通のスタンピートよりもはるかに悲惨になる。


(軍隊規模で統率がとれていた理由は、やはりクイーンか。……これを放置した国の判断はかなりまずいだろ)


 誠司は短く舌打ちした。


 これは、“知らなかった”では済まない。

 “知っていて後回しにした。”そういう匂いがする。

 現場の課長が、額に汗を浮かべながら頭を下げに来た理由も今ならよくわかる。


(……まったく)


彼は氷を払い、キングとクイーンの亡骸を《収格納ストレージフィールド》の中へ送った。

 あとで解析する価値がある。

 群れの特性も、繁殖速度も、弾けた魔素の質も。

 現場と行政の間に横たわる“ズレ”を、できるだけ早く埋めるためにも必要だ。


(……それにモコにもちゃんと“どういう相手と向き合っていたか”を見せてやれる。

 ただの敵じゃなく、生き物として、今後のモコのためにも。

 ……母さんには言わなくていいな)


 息を整え、空を見上げる。

 陽は傾きはじめていた。

 戻れば、ちょうど夕飯どきだ。


(約束は約束だからな)


 誠司は気配を完全に消し、氷の結界を霧散させてから山を降りはじめた。



 玄関を開けた瞬間、

 廊下を全力で走る音と、床を蹴る音。


「モモモモモモーーー!!!(かえってきたーーー!!)」


「ただいま」


 ドンッ、と体当たり。

 勢いあまりすぎて、転がる。

 それでも、ぎゅうっと誠司の足に抱きついてくる。


「モモ! モモモモモ!?(デザート! デザートは!? デザートは!?)」

「落ち着け」


 モコは興奮しすぎて、鈴がちりんちりんちりんちりんうるさい。

 芳子が台所から顔を出して、くすっと笑った。


「おかえりなさい。無事だったのね」

「ああ。片付いたよ」


 母は、ほっと肩の力を抜いた。

 誠司は靴を脱ぎながら、ほんの少し目を細める。


「……お湯を沸かしてあるわ。手、洗ってらっしゃい」

「ああ、わかった」


 そのやりとりはいつもの日常に戻る合図だった。


「モコ、デザートはちょっと待て。まずこれを食べてろ」

「モモ!?(なに!?)」


 誠司は《収格納ストレージフィールド》に手を入れ、ひょいとひとつ取り出した。

 艶やかな橙色の大きな果実。

 枝で完熟させたマンゴーだ。

 温室育ちで、ひと噛みすれば蜂蜜のように濃い甘さが舌に落ちる。


「母さん、モコに切ってやってくれ」

「はいはい。お皿出して……まったく、本当に贅沢ねぇ、うちは」


 芳子が包丁を入れる。

 熟しきった果肉は、刃を入れた瞬間にとろりと押し返してくるほど柔らかい。

 黄金色の立方体が並んだ皿をモコの前に置く。


「いただきなさい」

「モモモ……!(いただきますっ!)」


 ぱく。


 その瞬間、モコの動きが止まった。

 完全に固まった。

 耳も尻尾も止まった。

 ただ目だけが、ぐるぐる星みたいに輝いている。


「モコちゃん?」

 芳子がのぞき込む。

「大丈夫? おいしくなかった?」


「………………モモ…………(……しあわせ……)」


 かろうじて絞り出した声は震えていた。


「モモモモモモモ……(これ……いま……しあわせが……のどからはいってきて……あたままでいっぱいになって……わたし、たぶんいま……けっこんした……)」


 芳子は盛大に吹き出した。

「け、けっこん!?」

「モモ……(マンゴーとけっこんした……)」

「だ、だめよ、食べ物と結婚はまだ法律がね……っ、ふふふふふ!」


 芳子が笑いすぎて腰に手を当てる。

 涙が出るほど笑っている。


 誠司は、キッチンに向かっていた手を止めて、ふっと息をこぼした。


(……帰ってきてよかった、と思う瞬間だな)


「よし。そこまで言うなら急ぐか」

 彼は袖をまくった。

「デザートを作る。少し待て」


「モモ!!(まつ!!)」

 尻尾ばたばた。鈴ちりんちりん。耳ぴょこぴょこ。


「母さん、バナナもらうぞ。あの完熟してた房」

「ええ、いいわよ。ハチミツも、今朝の分が瓶にあるから使いなさい。今日は特別ね」

「了解」


 樹上完熟バナナ。

 パッションフルーツ由来の香りを移したハチミツ。

 そして、クリームの土台には誠司特製の冷やしミルクソース。


 “約束の味”。


 モコは、目の前のマンゴーを抱いたまま尻尾をばたばたさせていた。

 まだ頬に果汁をつけたまま、真剣な顔でこう呟き続けている。


「モモモモモモ……(マンゴーさん、わたしとけっこんおめでとう……)」


 芳子は腹を抱えて、また笑った。

 誠司は、肩を落としながらも笑っていた。


 氷の山と血の匂いの中から帰ってきて、今これだ。


(悪くない。まったく悪くない)


 彼はボウルを出しながら、心の中でそう思った。

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