定時帰りのダンジョン公務員〜五十歳、ウォンバットと暮らしています〜
かさかさ
第1章
第1話 17時15分01秒の男
午前5時。
静かな田園の空に朝日が薄く差し始める。
相沢誠司は、ゆっくりと障子を開けた。外気の冷たさが肌を撫でる。庭には菜園と果樹園、奥には金色に実る稲穂。
まだ眠る町の中で、そこだけが清らかに整っていた。
スーツの上着を畳の上に置き、作業着姿のまま鍬を手に取る。
50歳。市役所勤め25年。定年まであと15年を切ったが、彼の生活は入庁して以来、ほとんど変わらない。
朝は畑、昼は仕事、夜はダンジョン。休日は母と旅行。
淡々として、どこか完成された規律のような生活。
「おはよう、誠司」
縁側から声がした。
母・芳子。73歳とは思えぬ張りのある声。
彼女は毎朝、誠司の畑を眺めては「整っていて美しいね」と微笑む。
「今日はトマトを摘んでおいてくれ。昼に持っていく」
「はいはい。……また夜はダンジョン?」
「うん。軽く中層くらいまで」
芳子は苦笑しながら頷いた。
息子がダンジョンに通う理由を、彼女はもう聞かない。
危険も承知だが、息子がそれを“日課”と呼ぶ以上、止めても意味がないのを知っていた。
⸻
午前8時前。
誠司はスーツに着替え、黒曜色のSUVを走らせて市役所へ向かう。
車は最新の国産最高級モデルだが、後部座席には畑道具が無造作に積まれている。
この車を農作業車と使っているのは、日本でもおそらく彼だけだろう。
タイヤの泥汚れも落とさない。
だが車体は光沢を保ち、エンジン音はまるで高級楽器のように静かな音色だ。
職場に着くと庁舎の時計は8時20分。
始業10分前、いつも通り。
「おはようございます、相沢主査!」
「おはよう」
部下が会釈する。
彼は淡々と応え、自席に座って書類を並べる。
ダンジョン資源課。各地のダンジョンの安全管理や、採取物の分配、登録業者の監督を行う部署。
紙の山と数字の羅列、申請と許可と予算調整。
公務員としては退屈極まりない部署だが、誠司は嫌いではなかった。
タイピング音だけが響く。
コーヒーを飲み、申請書を処理し、報告書をまとめ、メールを数十件返信する。
誰も声をかけない。声をかけられる隙がない。
昼休みのチャイムが鳴る頃には、机の上に一枚の紙も残っていなかった。
「……あの人、やっぱり人間じゃない」
若手職員のささやきが聞こえる。
「午前中で3日分の処理だよ? 残業ゼロであれだもん」
「しかも有給完全消化だろ? 25年間、記録保持者ってマジ?」
「マジ。伝説の定時マン」
誠司はそんな噂を聞こえないふりで弁当を広げる。
冷めた焼き魚と味噌汁。
食事の後、庁舎裏でわずかに体を伸ばし、午後の勤務に戻る。
淡々と、正確に、そして定時に。
⸻
午後5時15分。
庁舎の壁掛け時計が時を告げる瞬間、誠司は椅子を引いた。
その動作には一片のためらいもない。
時計の針が15分を指した瞬間、立ち上がり、ジャケットを羽織る。
「相沢主査、今日も定時ですか?」
「ああ。仕事は終わったからな」
「……早すぎません?」
「やることをやって帰るだけだ」
言葉通り、彼の机には書類一つ残っていない。
未処理案件ゼロ。報告済み。上司の確認印もすでに済んでいる。
誰も止められない。
廊下を歩く足音は静かだが、庁舎全体がざわつく。
新入り職員が囁く。
「始まったぞ、定時の相沢だ」
「1秒もズレないって本当か?」
「前にストップウォッチで計ったけど、誤差0.08秒だった」
そんな声を背に、誠司はエントランスを出る。
夕暮れの風。車のリモコンが小さく音を立てた。
⸻
向かう先は国営第七ダンジョン。
市役所から車で15分。地元の丘陵地に設けられた一般開放型ダンジョンだ。
入口には管理局の看板と、冒険者登録用の電子ゲート。
誠司は到着すると手続きを終え、立ち入り許可を受ける。入口には管理局の看板と冒険者登録の電子ゲート。
到着後、誠司は受付を済ませ、登録者専用の更衣棟へと向かう。
職員たちが行き交う昼のフロアを抜け、奥の更衣室へ。
他の探索者がロッカーを開けて準備を始める中、誠司は静かに壁際の空いたスペースに立った。
右手を軽く掲げる。
指先に淡い光が集まり、空気がきらめく。
次の瞬間、虚空が“ひとつの扉”のように開いた。
そこは誠司のスキル《
奥行きのない闇の中に整然と装備が並んでいた。
黒の軽戦闘コート、耐刃ズボン、簡易アーマー、革手袋。
全て、長年の探索で馴染んだ“日常装備”。見た目は地味だが、素材は上級ダンジョン産の上物だ。
誠司はスーツの上着を脱ぎ、静かに手を差し出す。
上着がふっと消え、空間の奥に吸い込まれる。代わりに、軽戦闘コートが手元へ滑り出た。
布地を肩にかけると重さと温度が身体になじむ。
氷の刀が腰で小さく鳴った。
冷たい金属音が仕事人から探索者へと戻る合図だ。
「よし。今日も軽く中層まで片づけるか」
誠司は軽く頷き、指先で空間を閉じる。
収格納の光が静かに消え、再び現実の空気が満ちた。
ICカードをかざし、地下へのゲートを抜ける。
湿った空気と魔力の匂いが肌を撫で、いつもの“夜の職場”が迎えた。
制服姿の学生冒険者たちがざわめく。
「あれが“定時の相沢”だって」
「ほぼ毎日潜ってる人でしょ?」
「25年間、ほぼ休んでないって噂」
「すげえ……」
そんな視線をよそに誠司は無表情で降りていく。
階段の先には冷たい石造りの通路。
淡い青光を放つ魔石灯が並び、湿った空気が漂う。
⸻
1時間後、第五層。
ここは下層ではないが、魔物の数は多い。
誠司は左腰の鞘から刀を抜く。
刃は青く輝き、薄氷のような気配を放っていた。
氷魔法の流れが刀身に沿って走る。
気配を察知したゴブリン数体が近づいてきた。
誠司は息を吐き、静かに踏み込んだ。
「《氷流一閃》」
光が走る。
ゴブリンは瞬時に凍結し、砕け散る。
氷の欠片が宙を舞い、通路に散らばる。
動作は簡潔。まるで呼吸のようだ。
彼にとって戦闘は作業であり、仕事の延長に過ぎない。
戦利品を《
「素材の質は並。今日も特に変わりなしか」
そう呟いた時、地が揺れた。
ズシン、と腹の底を突き上げる衝撃。
次の瞬間、通路全体が軋みを上げた。
岩壁が鳴り、天井から粉塵が舞い落ちる。
「……地震か?」
だが、ダンジョン内部の揺れは現実の地震ではない。
地脈のずれ、あるいは魔力圧の崩壊による内部震動。
長年の経験でそれが“異常現象”であると直感する。
崩れ落ちる岩塊を《氷盾障壁》で受け止めながら、目の前の壁を凝視した。
崩壊の向こう。そこに扉があった。
古びた金属の扉。表面には氷と土の文様が刻まれている。
明らかにこの階層の構造とは異質なもの。
長年、封じられていたような冷気が漏れ出している。
「……隠し部屋か」
誠司は懐から小型魔導計を取り出す。
罠の反応は微弱。
だが、完全に無いわけではない。
「強度A級。反応源は……扉内部」
数秒の思考の後、彼は決断した。
右手の刀を構え、扉の継ぎ目を一閃。
氷の刃が音もなく走り、錠が凍結と同時に砕け散る。
扉は低い音を立てて開いた。
中は広く、静まり返った空間。
中央には二つの祭壇が並んでいた。
左の祭壇には一本の刀。
右の祭壇には淡く輝く大きな卵。
空気が張り詰める。
氷と土、相反する二つの力が均衡している。
相沢は慎重に一歩を踏み出す。
「……珍しいな。二重祭壇。封印か?」
刀のほうに近づくと、冷気が強まる。
柄には古代語の刻印。見覚えのある文様。氷魔法の高位陣。
指先を近づけた瞬間、刃が青く脈打った。
まるで彼の魔力に応えるように。
「呼ばれてる……?」
長年の勘が囁く。これは拾うべきものだ。
そう直感した誠司は、刀を両手で掴み、そっと持ち上げた。
瞬間、既に腰に下げていた自分の刀が震えた。
氷の気配が共鳴し、重なり合う。
そして新たな刀に吸い込まれていく。
「……吸収か。まさか融合型とはな」
光が収まり、手に残ったのは一本の美しい刀。
刃の中に微細な氷結の流れが見える。
まるで液体が流動するような透明な光。
そのとき、床の紋章が淡く光った。
封印陣が反応を起こす。
氷の刃が天井から降り注ぐ、……罠だ。
「ッ、やはり!」
誠司は即座に《氷流一閃》を展開。
放たれた氷刃を、氷で迎え撃つ。
ぶつかり合った冷気が爆ぜ、空間全体が白く霞む。
視界が奪われる中、足元の振動。
遅れて崩落が始まる。
咄嗟に右の祭壇。卵を抱え上げ、《
土煙と冷気の爆発が重なり、背後で扉が閉じる。
わずかな隙間を滑り込み、転がるように通路に飛び出す。
背中に冷気の刃がかすめ、コートの袖を裂いた。
呼吸を整え、氷の結界を張りながら振り返る。
扉は音もなく、再び封印を閉じた。
「……ふぅ。久々に危なかったな」
彼は刀を見下ろした。
手にした新たな刃は、微かに光を帯びている。
吸収した自分の刀と完全に同化し、軽く、冷たく、静か。
まるで、自らの一部になったような感覚。
氷の粒が刀身の中を流れ、彼の魔力と同調している。
「悪くない。……いい出会いかもしれないな」
通路の奥に残る魔力の震えが、まだ収まらない。
相沢誠司は短く息を吐き、刀を鞘に納めた。
帰宅予定は変えない。
今日も、定時通り。
ただし、ストレージには、まだ静かに脈打つ“卵”があった。
◆相沢誠司のステータス
相沢 誠司(あいざわ せいじ)
ジョブ: 《
属性: 氷・無
性別: 男
年齢: 50歳
レベル: 42
HP: 742 / 742
MP: 811 / 811
筋力: 158
敏捷: 145
耐久: 138
知力: 162
精神: 170
運 : 77
■ スキル/魔法
•《収格納(ストレージフィールド)Lv6》
空間を生成・圧縮・保存する高度収納術。時間停止領域を併設でき、物質・生体・魔力波を保管可能。戦闘中の「素材即時回収」や「罠無効化」にも応用される。
•《解析収納Lv5》
収納対象を即座に解析・分類・ラベル化。未知の素材も魔素構造から自動判別。
•《氷流一閃Lv5》
一閃の軌跡に氷魔力を凝縮し、敵を一瞬で凍結・粉砕する抜刀術。
氷刃の残滓は数秒間持続し、範囲内にいる敵の動きを鈍化させる。
•《氷域結界(アイスドメイン)Lv4》
広範囲を瞬時に氷結させ、敵の行動を制限。魔力消費は大きいが、持続中は氷属性魔法の威力上昇。
•《静水の構えLv3》
水流の如く揺るがぬ構え。物理・魔法ダメージを軽減し、反射効果を付与する。
•《氷盾障壁Lv4》
氷魔力を結晶化して盾を形成。耐久性能が高く、衝撃吸収率は通常盾の数倍。
•《凍結圏(アイスリング)Lv3》
周囲に氷の輪を展開し、踏み込む敵を自動的に拘束・鈍化させるトラップ系魔法。
•《極冷斬・氷霞(ひょうか)》
新たな刀に吸収された氷核の力を解放する必殺技。斬撃と同時に極低温の結界を展開し、空間ごと封絶。
“時間を止めたような静止”を生むが、使用後は一定時間、魔力循環が鈍る副作用がある。
■ 装備
•《氷霞刀(ひょうかとう)》A+級
冷気を纏う青銀の刀。元の刀を吸収し、氷精の核と融合した特異武装。
攻撃+65/氷属性攻撃+30%/水属性適性上昇。
特殊:魔力同調時、使用者の魔力総量に応じて刀身構造が変化(「流刃」「凍刃」「鏡刃」など)。
•《探索者戦闘衣〈ナイトシェル・コート〉》A級
見た目は地味な黒コートだが、内部に魔力繊維を織り込み、氷魔法耐性+50%・土耐性+30%。
戦闘時、自動で温度調整・防護結界を発動する。
•《収納腕輪〈アーク・ストレージ〉》A+級
収格納(《ストレージフィールド》と連動した魔導装具。最大収納容量1.2km³、時間停止効果付き。
収格系スキルとの親和性を上げる。
•《防魔脚具〈グレイザー・ブーツ〉》B級
滑り止め+魔力増幅機能。氷上での移動時、加速度が1.5倍になる。 10/知力+5)
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