第40話 十倍




 スーツを着て、襟首を正し、智久は背筋を伸ばした。

 シーズンどころか日本シリーズさえ終わり、契約更改、選手にとって一番期待を、覚悟をする出来事だ。


 智久の契約更改は二回目、入団する際の契約を除けば、だが。

 緊張しい顔が智久の顔に滲む。

 去年よりも緊張する理由があった。


 ノーヒットノーラン達成後に智久は倒れ、病院に搬送された。

 もちろん大した怪我はなく、疲れと軽い栄養失調が原因だ。

 ただ、問題はそれではない。


 倒れた智久に付きっきりだったのは鈴羽、倒れる直前すら智久の脳裏には彼女の姿が写っていた。もともとこの試合で、という誓いを自分自身に立てていたのだが起き上がった智久はなにを錯乱したのか、目の前にいた鈴羽に思いを伝えた。


「け、結婚してください!」


 もう少しロマンチシズムに、最初は想いを伝えるだけだったのが一段、いや二段とばしをするかのように結婚を申し出たのだ。

 ロマンの欠片もない告白でも鈴羽は受け入れた。

 耳まで真っ赤に染めて、小声ではい、と。


 智久も鈴羽も顔を朱に染め、俯く。

 なんとも言えない空気が薬品の香りとともにふたりの間に漂う。


 そこで新宮コーチが入室したことでさらに修羅場となるのだが......あまり重要なことではない。

 すぐに結婚、ということにはならなかったが婚約という形に落ち着いたのだった。


 将来のことも考え、智久にとってこの契約更改は正念場だった。

 息を整え、扉をノックして部屋に一歩を踏み出す。


 そこには一年前に見た面々が並んでいた。

 欠けた顔があることに智久は気づく。

 思わず、口に出てしまう。


「あれ?椎葉監督は......」


「ああ、彼か。監督としての契約を今年で切ったからいないぞ」


 一人の面長の男がなんともないように言う。

 智久に衝撃が走ったが、この場で話すことではないと気づき、口をつぐんだ。


「今年は躍動の年でしたね、お疲れ様。残念ながら規定投球は到達できなかったけど、ノーヒットノーランおめでとう。今年は去年と違って新人王候補は皆小粒のようだから、坂井君でほぼ決まりだと思うよ」


 先程の単調とした声と違い、穏やかな声で語りかける。

 その差に智久は気を引き締めるのだった。


「大丈夫、査定も色を付けるよ。来季の年俸、4000万円でどうだい?」


 4000万、智久にとって今からは想像ができないほどの大金だ。

 ただ、足りない。智久には引けない理由があるのだ。


「少々、足りないと思います。勝ち星こそ伸びませんでしたけど各指標を見ればチーム内でも結構もらっていいと思いますけど」


 あえて強気に出る。

 今年のシーグルズは不調だった、だからこそアピールするのだ。

 指標を見ればリーグ内でも準エース級、ボロボロだったシーグルズをなんとか立て直すきっかけとなったのも智久。


「ふむ、君はいくら欲しいのかい?」


(来た......)


 野球界でも有名な定番の質問。

 フロントの想定より低く言えば丸儲け、それより高い値を言えば鼻で笑われるだけの悪魔の質問だ。


「いくら私に出しますか?」


 まだ二十歳のエース候補。

 貴重な左腕の先発であり、すでに完成されつつある大器にしていまだ底は知れない。

 その価値を自身が理解しているからこその言葉だった。


「やめた」


 突然に目の前の男は呟く。


「今まででこんなに強気にでる選手はいなかったよ。それも無謀ではなく、まさか勝算あってか......」


「ということは......」


「ああ、最大限の態度で応じよう。7000万に出来高1000万を課そう、これ以上の交渉には応じないからな」


 そう言ってまいったと言わんばかりに両手をあげた。

 足して8000万、出来高の内容は分から無いものの今の年俸から見ても約十倍。

 十分だった。


 智久は立ち上がり黙って手を差し出す。

 面長の男は始まりと違い、苦笑しながら手を握り返すのだった。




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