第17話 ウイニングショット
「僕も坂井くんの足りないところは思いつくかな」
後ろから低い声がした。
振り向くと、鴻池がひっそりと立っている。
ベテラン特有の落ち着いた雰囲気。練習場では見せない、柔らかな笑みを浮かべていた。
「君には圧倒的な武器がないんだ。決め球、ウイニングショット。ここぞという場面で頼れる球。だから大事な場面で打者を抑えられない」
智久は言葉を失った。
痛いほど的を射ている。自覚している欠点を、正確に突かれた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
「そうだね、もし僕のカットボールを教えると言ったら?」
「え……?」
一瞬、意味が理解できなかった。
鴻池のカットボール。それは数多のピンチを凌ぎ、三振が欲しい場面では三振を。ゴロもフライも自由自在に操るまさに大投手の秘訣とも言える球。
プロの世界で球種を教えるというのは、ほとんどありえない。それは選手の生命線。自分の武器を渡すようなものだ。
教えた相手が自分を超えるかもしれない、下手に教えると解析されるかもしれない。だから、誰も教えない。
「そんな深刻そうに考えなくても大丈夫」
鴻池は笑った。
「別に僕が優しいわけじゃないよ。今年で引退するんだ。だから、もう隠す理由もない」
「……引退、するんですか」
驚きのあまり、智久は声を上げた。
鴻池は静かにうなずく。
「肘がもう限界でね。春先の検査で医者に言われたんだ。明日明後日くらいに球団に言うつもりだった。だったら、この球は次の世代に渡したい。僕のカットを、次世代に坂井に受け継いでほしい」
胸の奥が熱くなった。
あの鴻池が、自分に――。
憧れていた投手の口から、そんな言葉を聞ける日が来るなんて。
「……お願いします!」
智久は即座に頭を下げた。
「おっけー! じゃあわたしはデータ係ね!」
鈴羽が明るく笑う。
「球速と回転軸、あとスピンレート、全部取るから。鴻池さん、ちょっとピッチングフォーム見せて!」
その瞬間から、智久の新しい挑戦が始まった。
室内練習場。
キャッチャーを前に鴻池が立つ。鈴羽はノートパソコンとカメラを構え、モニターに映るフォームを凝視している。
「まずは握りからだ」
鴻池がボールを手に取り、軽く回してみせる。
「人差し指と中指をストレートの位置から少しずらした縫い目に掛ける。リリースの瞬間は押し出すようにして投げる」
「押し出す、ですか」
「そう。真っすぐと同じ腕の振りで、最後に中指を一瞬だけ押し込む。カットボーラーで有名な川上選手とかはこれをインサイドアウトとか表現してるね。」
鴻池の右腕がしなやかに振り抜かれた。
ボールはシュッと音を立ててネットに突き刺さる。
スロー映像で見ると、打者の手元でほんの10センチだけ鋭く動いている。
「これがカット。芯を外す魔法の球」
智久は息をのんだ。
ストレートと見分けがつかないのに、軌道の最後だけ違う。
まるで重力が一瞬だけ変わったかのような動きだった。
「坂井くん、次!」
「はい!」
智久は鴻池の握りを真似て、構える。
だが投げた瞬間――ボールは外角に大きく外れた。
「おーっと、そっちはスライダー寄りだね!」
鈴羽が笑いながらデータを確認する。
「回転軸が斜めにずれてる。手首使いすぎ!」
「うっ……」
「肘を前に出す意識で、腕を真っ直ぐ。リリースは顔の前な」
鴻池の助言にうなずき、智久は再び構える。
汗が額を伝う。
(今度こそ……)
腕を振り抜いた。
パンッ。ミットが軽く揺れた。
映像を見ていた鈴羽が、ぱっと顔を上げる。
「今の、近い! 回転軸ほぼ真っ直ぐ、スピンレートも上がってる!」
「おお、いいね」
鴻池が笑う。
「その感覚、忘れないでね。カットは押し出す感じ」
智久は黙ってうなずいた。
腕の奥がじんじんと熱を帯びる。
(鴻池さんの球を、俺が……)
試行錯誤は夜まで続いた。
数十球投げるたびにフォームを確認し、鈴羽の指摘を受け、鴻池が手本を見せる。
何度も失敗しながらも、智久のカットボールは確実に形を成していった。
「今日はここまでだね」
鴻池が腕を回しながら言った。
「球の感覚、少しは掴めたかな?」
「はい。まだ完璧じゃないですけど……なんとなく、わかってきました」
「それでいいんだよ。ウイニングショットってのは、一日で覚えられるもんじゃない。少しずつ自分のものにして、そこでやっと決め球と言える」
「……はい」
鴻池はボールを一つ、智久に投げ渡した。
「その球、持って帰りな。坂井くんが初めてカットボールを投げた時のボール」
受け取った瞬間、指先にずしりと重みが伝わった。
ただのボールなのに、何か特別なものを託されたような感覚だった。
「ありがとう、ございます」
「礼は結果で返して。僕を越えて日本で、いや。世界でそのカットボールを轟かせて欲しいな」
鈴羽もにこりと笑った。
「うん、智久さんならできるよ。だって智久さんだもん」
「どういう意味ですか……」
「ふふっ、ナイショ。これからも頑張ろうね!」
三人の笑い声が、静かな室内に響いた。
外では、夕暮れのオレンジが窓を染めていた。
(鴻池さんの球を継いで、みっともないところは見せられないな)
智久は、手の中のボールを強く握った。
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