優しい世界

ブラインドの隙間からすべってくる光が、書類の角だけを白くしていた。

雑居ビルの二階。窓際のガタつく観葉植物、もう名前は失われて長い。クーラーのフィルターが薄く鳴り、廊下のどこかで古びた自販機が硬貨の落ちる音を繰り返す。

事務所の奥、布張りのソファには高橋宮(こきょう・みや)がひっくり返っていて、片手にクリームの層が沈んだフラペチーノ、もう片方の手にはスマホ。猫の短い動画を無限に再生している。ストローの先で氷の塊をコツコツ割りながら、時々「あーねむ」とだけ言う。


私は菅野燕(すげの・つばめ)。この探偵事務所の助手で、掃除と来客対応と書類の山の地層づくり担当でもある。

インターホンが一度だけ鳴って、止む。押すのに力の要るボタンだ。私は立ち上がってドアを開け、浅く会釈した。


「どうぞ、お入りください」


入ってきた女性は、肩先の髪がわずかに湿っていた。外はにわか雨が通ったのだろう。薄手のカーディガンの袖口を整える癖が見て取れる。右手には紙袋。重さよりも、中身の形を気にしている持ち方だった。


「突然すみません……予約のとおり、娘の件で」


「お越しくださってありがとうございます。こちらへどうぞ。お茶、温かいものでよろしいですか?」


「はい。……すみません」


私は湯を注ぎ、角砂糖は? と尋ね、いらないという首振りの速さに、この人が普段から砂糖を避けているのがわかる。机の向こうでは、宮がソファから動かない。横向きのまま、スマホの画面をこちらに向けず、ふいに片目だけ開けた。


「……来たの?」


「来ました。“起きる”はどうですか?」


「むりぃ」


「ですよね」


私は依頼者の方に向き直る。

椅子の沈みが早いので一度深呼吸してから腰を下ろすよう説明し、紙袋の中身を確認しても良いか許可を求めた。出てきたのはスマホと薄い封筒。封筒には細かい折り目。何度も開け閉めした跡。


「三日前の夜から、娘と連絡が取れなくて。最初は家出だと思っていたんです。だけど、スマホが机の引き出しに入っていて、ロックもかかっていなくて……開いていたのが、その……」


女性はスマホをこちらに差し出し、画面に触れるのを怖がるみたいに指先を引っ込めた。

私はスリープを解除し、開きっぱなしのSNSを確認する。DMのタブには淡い文字で「既読」。差出人のアイコンは白いマスク、眠る少女の横顔。アカウント名にはカタカナで——“リドカイン”。


メッセージは短く、整っていた。教師の黒板の文字のような、リズムのいい丁寧さ。


> きょうも、よくがんばりましたね。

もう、むりしなくていい。

いたみは、せんせいが あずかります。




句読点の置き方が奇妙だ。意図して外しているのか、外し方に規則がある。


私は数件さかのぼって読み、紙とペンをとる。文末の癖、絵文字の頻度、送信の時間帯。

背中越しに、ソファからストローの音がする。猫動画の音量が下がって、宮の声が、寝起きの砂利みたいに転がった。


「その文体、気持ちわる」


「起きなくていいので、もう少し具体的にお願いします」


「“えらい”→“ゆるす”→“あずかる”。三手目で主語を奪う。以上」


「ありがとうございます、所長」


彼女は返事のかわりに、氷を吸いこんで「きーん」と小さく唸った。

女性は両手を膝に重ね、視線を落とす。


「娘は……“先生”って呼んでいました。学校の先生ではないと思うんです。夜中の二時とか三時とか、そういう時間に」


「呼び方を“先生”にするのは、距離を詰めるためです。敬称ではなく“役割”の宣言。――失礼、言葉がきついですね」


私は言い直す。

「“先生”は、優しい言葉で、娘さんの痛みを代わりに持つ、と言っている。『あなたが痛くなくていい世界』を、見せようとしている」


「……やさしい世界」


女性の口の中で、その言葉が小さく転がって、砕けないまま止まった。

私はうなずき、封筒を開くよう促す。中身はスクリーンショットのプリント。四枚。印刷の濃度がまばらで、ところどころに横縞が走る。急いで出力したのだろう。


私は一枚目の左上隅に①と書いた。二枚目に②。

読み上げる声は、極力平板に保つ。


> 『こんにちは。きょうも、きたね。ちゃんときたね。』

『きてくれて、ありがとう。いたみを きょうは ここに おいていきなさい』

『あなたは、もう がんばらなくていい』

『いたいのは せかい。いたみは せかいに かえすもの』




「“返す”……?」


女性がかすかに眉間を寄せる。私は説明を足す。


「『痛みを世界に返す』という言い回しは、本人の感情の主語を外に移す技法です。たぶん、“先生”の側にとっては善意のつもり。『あなたが痛まなくても、世界は回る』って言いたい。でも――」


ソファから、宮が割って入った。目は閉じたまま、どうして会話に入れるのか不思議なくらい、遅れずに。


「でも、黙らせるよね、その言い回し」


「そうですね」


「“痛む”って、喋らないと続かないから。言葉を止めるのが一番効く麻酔」


彼女はそれだけ言って、また猫動画に戻った。

女性はお茶に視線を落とし、湯気を追ってから、口を開く。


「娘は、弱かったんでしょうか。……私、ずっと、そうじゃないかって」


「弱いって言葉、簡単で便利ですけど、ちょっと置いておきましょう」


私は首を横に振る。

「“隙”があった、なら言えます。隙は誰にでもあるし、季節や、その日の体調や、たまたま見た言葉ひとつで形が変わる。そこに“先生”の言葉が、よく合ってしまった」


「合う、って、そんな……」


「服のサイズがぴったりでも、似合うとは限らないのと同じです」


女性の指が紙コップの縁をゆっくり回る。爪は短く、整っている。

私は二枚目を読む。


> 『きょうは、よく ねむれましたか』

『ねむれなかったら、よく いきている しょうこ』

『いきていることは つらい。つらいのは しぜん。だから せんせいが あずかるね』




「“預かる”の好きな人ですね、この“先生”」


私は苦く笑う。

宮がまた、目だけ開けて天井を見た。


「“預かる”の主語、誰」


「“先生”です」


「じゃあ返す相手も“先生”しかいない。返さないんだよ。ずっと持つ。言葉って、持ってる人が強い」


ソファの革がきしみ、宮が体勢を変える。膝の上にフラペチーノを置いて、ストローを深くさし込む。

私は依頼者の目線の高さに言葉を揃える。


「もしご負担でなければ、娘さんの最近の生活について教えてください。学校、食事、お友だちとの関係。急に変わったこと」


「食べる量が、減っていた気がします。朝はほとんど。お弁当は空で返ってきました。……学校は休まず行っていて、友だちともやり取りは普通に。家では、部屋にいる時間が増えたくらいで」


「家の中のメモや置き手紙は?」


「ありません。スマホが引き出しに、そのまま」


「ロックが……」


「解除されていました」


女性の声が一段落ちる。私は短く息を吸う。


「見せたかったのか、見られて構わないものだけ置いていったのか。どちらもありえます。どちらにしても、『伝える』は入っている」


宮が、スマホを持つ手を額に乗せたまま、曖昧な声で言う。


「“伝える”が残ってるうちは、戻る動きも残ってる」


「……戻って、きますか」


女性の視線がこちらに刺さらないよう、私は机の木目を見て答える。


「“はい”とも“いいえ”とも、ここでは言えません。私たちは刑事ではないので。できるのは、言葉の地図を描くことだけです」


女性は小さく頷いた。

私は三枚目を表にし、また読む。


> 『あなたは えらい』

『きょうも、よく きたね』

『もう がんばらなくていいよ』

『ねむっても いいよ』

『ねむって そのままでも いいよ』




私はそこで読み上げを止める。

「“ねむって そのままでも いいよ”は、危ない線です。語尾が丸いまま、意味だけが斜面を下る。……こんなの、優しい言葉で誘い込んでるだけじゃないですか」


言ってから我に返り、私は依頼者に頭を下げた。


「すみません、つい」


「いえ。……ほんとうに、そうだと思います」


女性の声は乾いているのに、湿度のある部屋が反射して少しだけ震えを残す。

ソファの上から、間延びした声が落ちてくる。


「“やさしい”って、だいたい加害者の第一言語だよ」


「宮さん、それ言い切るの強いな」


「本音は“めんどくさい”」


「はいはい」


私は最後の紙を手に取る。

そこには、送信時刻の不規則なラグが残っていた。深夜一時と三時の間だけ返信が遅い。一通につき十分以上空く。

複数人で交代している可能性。テンプレの使い回し。絵文字の揺れ。


「“先生”は一人じゃないかもしれません」


「でも、娘は“ひとりの先生”を見ている」


宮は目を閉じたまま言う。

「複数でも単数でも、役割が勝つ。声が揃う。揃ってる時点で、厄介」


私は頷き、封筒を閉じた。

女性の両手が、一度空を掴むみたいに離れて、膝の上で重なる。


「……すみません。もう、どうしたらいいのか、わからなくて」


「“どうすればよかったか”は、今の正解しか言えないので」


私は言葉を選ぶ速度を、いつもより落とす。

「もし、戻ってきたら、言ってあげてください。“帰ってきてくれてありがとう”じゃなくて、“置いていってごめん”って」


女性は目を閉じ、頷いて、目を開けた。涙は落ちない。

宮が、ソファの背に頭を預けて天井の角を見つめ、ぼそりと足す。


「あと、普通に、うまいごはん」


「……そうですね」


女性の口元が、少しだけほぐれた。

私は領収書と預かり票を作り、スマホの預かりにサインをもらう。丁寧な字だ。

女性が立ち上がり、深く礼をして、扉に手をかける。押して重い扉は、ゆっくりと開いて、最後の数センチで鉄の音を立てた。


扉が閉まる。

事務所に、涼気が戻ってくる。


私は大きく息を吐き、まっすぐ宮を見る。


「……宮さん。なんで、帰らせたんですか」


彼女はスマホを顔の上に掲げ、猫がジャンプに失敗するスローモーションをぼんやり眺めている。


「えらい質問だ」


「本気です。あの人、手が震えてたんですよ。引き留めて、もう少し話して、具体的な動きとか、警察との窓口とか……できること、あったはずです」


「できること、はあるよ。私たちにも。

でも、やれること、にしない」


「……わかるようで、わからないです」


宮は体を横向きにして、スマホを胸に置く。

フラペチーノのカップを机に移し、ストローで残りの氷を探る。透明な音が一度だけ鳴る。


「踏み込んだら壊れるの、知ってるから。あの人も、私たちも。

私たち、刑事じゃないし、救済者のふりも下手。

“わからないままの地図”を渡すのが、いちばんマシ」


「……やさしいですね」


「めんどくさいだけ」


「そういうとこが、やさしいんです」


「そう?」


宮は目を閉じて、肩を少しだけすくめた。

私はテーブルの上のスクリーンショットを揃えてクリップで留める。弱い弾力。買い替えなきゃな、と思う。


机の上で、預かったスマホが震えた。伏せてあったのに、わかるくらいはっきりと。

私は会釈するように息を吸って、画面を上に返す。DMの通知。送り主は“リドカイン”。

文面は短く、やはり整っていた。


> きょうも、よくがんばりましたね。

おやすみ。




私は電源を切らない。ただ通知を消す。

ブラインドの隙間を、雲の薄い影が通り過ぎる。外の風鈴が短く鳴って、止む。


「ねえ、宮さん」


「ん」


「“やさしい世界”って、本当にあるんですか」


「あるよ。

“痛い”って言った声が、ちゃんと届かない世界」


「……」


「静かで、整ってて、だれも騒がない。

そこで眠るのは、たぶん楽」


「わたし、嫌いです」


「うん」


宮はソファの背に肘をかけ、天井のひびを一本、目で辿った。

私はゴミ箱のビニールを新しいのに替えて、プリンターの紙を足し、観葉植物に霧吹きをする。名前を知らないままでも、水はいる。


「燕」


「はい」


「甘いの、もう一本」


「今日は一本までです」


「えー」


「えーじゃないです。お水どうぞ」


私はコップを渡し、宮は観念したように一口だけ飲む。

猫動画が終わり、無音の広告が流れる。飛ばすのも面倒なのか、そのまま。

私はふと、机の角に置いてある白板マーカーを手に取り、「褒める→ゆるす→あずかる」と小さく書いた。横に小さい丸をひとつ。意味のない印。意味のないほうが、長持ちする印もある。


「宮さん」


「んー?」


「ほんとに、返しちゃってよかったんですか」


「よかったかどうか、じゃないよ」


「じゃあ、なに」


宮は体を少しだけ起こして、髪を耳にかけた。眠気の膜を指で押し退けるみたいに、言葉を一つ選んでから、こぼす。


「私たち、“被害者の親としてできること”を渡した。

それ以上は、介入。……そういうの、向いてない」


「……うん」


私は頷く。頷く角度が、椅子の沈みと噛み合わずに、身体が少し前に流れた。

宮は枕の位置を変え、目だけこちらに寄越す。


「怒ってる?」


「プンプン、くらいです」


「かわいい」


「茶化さないでください」


彼女は笑わないまま、笑ったみたいな息を出した。

私は机の上を片づけ、預かり票の控えをファイルに挟む。


「――ねえ、燕」


「はい」


「この仕事、嫌い?」


「好きですよ。嫌いになったら、ここにいません」


「そっか」


広告が終わり、また猫が跳ぶ。

私はドアの鍵を少し回して確認し、時計の針が少しだけ進むのを眺めた。外の光は薄くなり、室内の輪郭が柔らかくなる。

宮はスマホを胸に置いて、ようやく目を閉じる。長いまばたき。寝息ではない、深い呼吸。


私はひとつ頷いて、言う場所を探してから、軽く咳払いした。


「……宮さん」


「ん」


「最後に、念のため。今日の締め、ください」


彼女は目を開けず、短く、置くように言った。


「刑事不介入だからね」

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