ゲイセクシュアルな僕とアセクシュアルな彼女
成海。
第1話
重たい鉄の扉を押し開けると、共有廊下の冷気が、生温かい室内の空気と混じり合った。革靴の踵が、玄関の硬い床の上で乾いた音を立てる。オートロックの閉鎖音を聞きながら、僕はため息とほぼ同じ長さで、かろうじて「ただいま」と声に出した。返事はない。
八畳のリビングダイニングは薄暗く、テーブルの上には今朝"彼女"が飲んだであろうマグカップが置き去りにされている。僕は鍵をキッチンのカウンターに放り、ほとんど無意識の流れ作業で、首を絞めていたネクタイを指で緩めた。解放感と共に、今日一日の疲労が濁流のように押し寄せてくる。ジャケットを脱ぎ、ソファの背もたれに投げかけた。自室に戻って着替えるのが正しいルーティンなのだろうが、僕の足はそこに向かわない。
リビングの奥。磨りガラスがはめ込まれた、もう一つの部屋の扉。そこから、かすかな光が漏れている。規則正しい電子音と、何かが破裂するような効果音。そして、「あ、そっちじゃない」という、間の抜けた独り言。
僕はリビングを横切り、そのドアノブに手をかけた。控えめに扉を叩く、などという他人行儀な真似は、もう三ヶ月以上していない。わずかに体重をかけると、扉は最小限の軋み音を立てて開いた。
六畳の洋室。シングルベッドの上で、彼女──アスカは背中を丸めていた。大学指定のロゴが入った、着古された灰色のスウェット。肩まで伸びた髪は、無造作なゴムで一つに束ねられている。彼女の視線は壁際の液晶画面に固定され、その手の中ではゲームコントローラーが忙しなく操作されていた。僕の帰宅には、まだ気づいていない。
「アスカ」
声をかけると、彼女の肩が小さく揺れた。画面の中のキャラクターが派手な攻撃を受け、赤いエフェクトを散らしている。
「うわっ、びっくりした!……あー、もう!」
コントローラーをベッドに放り出し、彼女はこちらを振り返った。その顔には「負けた」と書いてある。そして、僕の顔を見るなり、第一声はそれだった。
「今日の夕飯なに?」
「まだ何も考えてないけど。というか、先に言うことない?」
「あ、おかえり。で、夕飯は?」
まるで定型文だ。僕は呆れて、部屋の入り口に立ったまま、緩めたネクタイを今度こそ完全に引き抜いた。
「知らないよ。冷蔵庫、何かあった?」
「昨日買った卵と、ベーコンの残り。あと納豆」
「じゃあ、チャーハンかオムライスかな」
「オムライスがいい」
決定。僕は頷き、アスカも満足そうに頷いた。この間、わずか三十秒。彼女は再びコントローラーを手に取り、中断していたゲームの続きを始めようとしている。僕はその背中に向かって、「先に着替えてくる」と言い残し、今度こそ自室へ向かった。
この距離感が、僕にとっての日常であり、心地がいい。そして一種の救いですらあった。
僕はゲイだ。性的にも、恋愛感情としても、惹かれるのは男性だけ。その事実に気づいてから、十年以上が経つ。そしてアスカは、アセクシュアルだ。他者に対して性的な欲望を抱かず、恋愛感情というもの自体がよく分からない、と彼女は言った。僕たちは、お互いがお互いの「恋愛市場」から完全に対象外の存在だった。
大学時代一度だけ、サークルの男の先輩とルームシェアを試みたことがある。相手はノンケだったが、それでも僕は、その無防備な生活空間に妙な緊張を覚えていた。風呂上がりに裸でうろつかれること。狭い部屋で二人きりになること。僕がゲイであることは伝えていなかったが、もしバレたらどうなるか、という不安よりも、相手の「男」としての存在感が、僕の精神を無駄に消耗させた。結局、半年も持たずにその関係は解消した。
アスカとの生活にはそれがない。
彼女は僕を「男」として見ていない。僕も彼女を「女」として意識しない。いや、もっと正確に言えば、お互いの性別が、生活のノイズとして機能することが一切ないのだ。
スウェットに着替えながら、僕は考える。もし僕がアセクシュアルだったら、あるいは、もしアスカがゲイだったら、世界はもっと単純だっただろうか。
だが、現実は違う。僕は「性愛」を求め、しかし、同じゲイの男性たちとの間では、アスカと共有しているような、この気楽な「精神」の繋がりをうまく築けないでいた。出会う男たちは皆、まず肉体を値踏みし、その次に条件を吟味する。僕が求めている、映画の感想を夜通し語り合えるような関係性は、いつだって二の次にされた。
アスカは「性愛」を求めない。けれど、誰かと深く繋がることを拒否しているわけではない。僕たちは、互いにとって都合の良い「欠片」を埋め合わせるように、この部屋で暮らしている。
リビングに戻ると、アスカが冷蔵庫から卵を取り出しているところだった。
「僕がやるよ」
「いい。どうせ暇だし。あんたは米二合研いで」
「はいはい」
僕は言われた通りに計量カップを手に取る。
この家には、僕が長年求めていた「家族」の形があった。性愛も、恋愛も、面倒な嫉妬も介在しない。ただ、信頼できる他者が隣にいるという、完璧な安らぎ。僕はこの関係を、心の底から気に入っていた。
僕が作った、いささか火の通り過ぎたオムライスと、アスカが適当にちぎったレタスのサラダ。それが僕たちの平凡な夕食だった。二人並んで、キッチンカウンターでそれを無言で食べ終え、食器洗いはじゃんけんで僕が負けた。スポンジに洗剤をつけながら、背後のリビングでアスカがストリーミングサービスのメニューを操作しているのが気配で分かる。
皿洗いを終えてリビングに戻ると、ソファの定位置(向かって右側)は既に彼女に占領されていた。僕はその隣、左側のスペースに腰を下ろす。画面には、いかにも低予算な、陰惨な雰囲気のサムネイルが表示されている。
「で、これにするの?」
「当たり。今週公開の新作。レビューは最悪だった」
「最高だね」
アスカは満足げに頷き、再生ボタンを押した。部屋の明かりが落とされ、テレビの光だけが僕たちの顔をぼんやりと照らし出す。
始まったのは、ありがちなゾンビ映画だった。登場人物たちの行動は驚くほど類型的で、会話は浅薄。血糊は不自然なほど鮮やかな赤色をしている。だがそれがいい。僕たちは、完璧な芸術作品を求めているわけではなかった。
物語が中盤に差し掛かり、生き残ったグループの一人が「物音がしたから、一人で地下室を調べてくる」と言い出した。主人公が「危険だ」と止めるのも聞かずに。
「あ」と僕が声を漏らしたのと、アスカが「あーあ」と呟いたのは、ほぼ同時だった。
僕は隣を見る。アスカも、暗闇の中でこちらを見て、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「こいつ、死んだ」
「うん、確定。絶対監督の趣味だよね、こういう無駄にマッチョな人から先に殺すの」
「分かる。さっきのシャワーシーンも長かったし」
画面の中では、案の定、地下室に潜んでいたゾンビに男が襲われている。お決まりの悲鳴が響き渡る。僕たちは、顔を見合わせたまま、声を殺して笑った。
これが、僕らの「答え合わせ」の時間だ。
単に映画の趣味が合う、というのとは違う。面白い、あるいはつまらないと感じる。その「なぜ」の部分。批評のタイミングと、その言葉の角度が、まるで定規で測ったかのように一致する感覚。アスカとなら、その答え合わせが百発百中で成功する。
僕は「性愛」のパートナーを求めて、これまで何度か、ゲイが集まるバーに行ったり、アプリを使ったりしたことがある。そこでの会話を思い出す。
彼らは、まず僕の体格や服装、職業を値踏みする。そして、当たり障りのない趣味の話になる。映画が好きだ、と僕が言えば、相手も「奇遇だね、俺も」と調子を合わせる。だが、その会話はいつだってセックスへの前戯でしかなく、本質的な部分での共鳴には至らない。彼らが求めているのは、同じ映画を見て同じ感想を抱く「ソウルメイト」ではなく、一夜を共にする「肉体」か、あるいは世間体の良い「恋人」という肩書きだ。
僕が本当に欲しいのは、そういう表面的な同調ではない。僕はもう、その品定めと、お互いに「フリ」をし合うような不毛なやり取りに疲れていた。僕が求めているのは、ただの肉体じゃない。
僕が欲しいのは、こういう時間だ。隣にいる人間の呼吸を感じながら、同じものを見て、同じタイミングで眉をひそめ、同じタイミングで笑う。性欲や、恋愛の駆け引きといった不純物の一切ない、純粋な精神の同調。アスカだけが、それを僕に与えてくれた。
映画は、予想通りの陳腐な結末を迎えた。エンドロールが流れ始める。アスカはリモコンを手に取り、再生を停止した。リビングに、再び静寂が戻る。テレビ画面は配信サービスのトップページに戻り、次の作品を推薦してきていた。
ふと、胸の奥で何かが小さく痛んだ。
僕の「性愛」を司る部分は、ぽっかりと空席のままだ。パートナーが欲しくないわけじゃない。男性に触れたいという欲望は、確かに僕の中に存在する。この完璧な精神の充足感とは別に、肉体的な飢餓感が、時折こうして顔を出す。
「……ひどい映画だったね」
僕が感傷に浸りかける寸前、アスカがぽつりと言った。
「文句なしの、星五つ!」
僕は噴き出した。その一言で、さっきまでの孤独感は、どこかへ霧散していた。
「間違いない。特にラストの、あの雑な爆発は満点だね」
「ね。あとでレビュー書き込んどこ」
アスカはそう言って、小さくあくびをした。彼女の存在が、僕の心の空席を埋めてくれる。いや、違う。彼女は、僕にその空席があること自体を、忘れさせてくれるのだ。
映画の余韻、というにはあまりにも中身のない残滓を味わいながら、僕はキッチンに向かい、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。リビングに戻ると、アスカはソファの上であぐらをかき、スマートフォンをいじっている。僕がその隣に座り、一本を手渡すと、彼女は「ん」と短く応えてそれを受け取った。
プルタブを引き上げる、軽い金属音。冷たい液体が喉を滑り落ちていく。
「しかし、ひどかったね、あれ」
「ひどかった。清々しいまでに。でもさ、ああいう無駄死にするマッチョ、絶対一人はいないと締まらないよね」
「分かる。分かりやすい『死』が用意されてないと、観客が安心できないから」
「そうそう。で、結局生き残るの、か弱いつもりだったヒロインと、ひ弱なオタクっていうね。お約束すぎる」
僕たちは、また声を合わせて笑った。この時間が好きだ。映画そのものよりも、こうして感想を言い合う時間の方が、僕にとってはよほど価値がある。
しばらく、スマホを操作する電子音とテレビのリモコンを操作する音だけが響いていたが、やがてアスカが顔を上げた。
「あーあ。また言われちゃったよ」
「なにを?」
「ユキ。大学の友達。今度ダブルデートしようって。私が一人なの、本気で心配してるみたい」
アスカはそう言って、送られてきたらしいメッセージアプリの画面を、何の気なしに僕に向けた。そこには「アスカもそろそろ本気で恋愛しないと!」という、大きなお世話としか言いようのない文言が躍っていた。
「……大変だね」
「ほんとそれ。別に、一人が寂しいとか、そういうんじゃないんだけどな。なんでみんな、恋人がいない=不幸、みたいな図式で話してくるんだろ」
彼女は心底うんざりした、という顔でビールをあおった。
「世間一般の『幸せ』のテンプレから外れると、すぐ心配されるからね。僕もだよ」
「あんたも?」
「うん。ほら、これ」
僕は自分のスマートフォンを起動し、マッチングアプリのトーク履歴を開いた。最近マッチングした、顔写真の雰囲気は悪くなかった男性とのやり取りだ。
『今度の休み、どうですか? 映画とか』
『いいですね。どんなの観ます?』
『〇〇(今流行っている、大ヒット中の恋愛映画)とかどうです?』
『あー……すみません、あんまり興味なくて。ホラーとか、好きなんですけど』
『え、ホラー? 意外(笑) 俺、怖いのはちょっと……』
そこで会話は途切れている。
「うわ」
アスカは画面を覗き込み、あからさまに嫌な顔をした。
「この『(笑)』が最悪。価値観の押し付け」
「だよね? 別に彼が恋愛映画を好きなのはいいんだけど、僕がホラー好きって言った瞬間に『ないわー』って空気になるのが、もう」
「分かる。こっちが『普通』じゃないみたいに扱われるやつ。恋愛しないって言うと、『強がってる』とか『まだ運命の人に出会ってないだけ』とか言われるし」
「僕の場合は『ゲイってだけで、もっと情熱的なのかと思ってた』とかね。面倒くさいよ、ほんと」
僕たちは、まるで世間の「普通」という名の不治の病について語り合う、二人の専門家みたいだった。僕たち二人は、その「普通」の土俵から、見事に、あるいは不本意に外れている。僕は性愛の対象が「普通」ではなく、アスカは「性愛」そのものがピンとこない。
だからこそ、話が早かった。
彼女は、僕のゲイという側面を「ふーん、あんたはそっちなんだ」と、天気の話でもするかのように受け入れた。僕も、彼女のアセクシュアルという側面を「へえ、そういう人もいるんだ」と、知識としてすんなり受け入れた。そこには偏見も、過剰な同情も、面倒な探り合いもなかった。
アスカは、タンクトップ一枚にスウェットの短パンという、およそ女性性を感じさせない姿で、ソファにだらしなく寝転がっている。何の警戒心もない。僕がゲイだと知っているから、というのもあるだろうが、それ以上に、彼女自身が「性愛」のフィルターを通して他人を見ていないからだ。
僕も、彼女のその無防備さに、何の性的興奮も覚えない。ただ、そこに「アスカ」という、僕が最も信頼する人間が一人いる、という事実だけがある。
この家は、僕たち二人にとっての聖域だ。
外の世界では、僕は「ゲイ」というラベルを貼られ、値踏みされ、恋愛市場のルールに従うことを求められる。アスカは「アセクシュアル」という、まだ理解されにくい性質のせいで、周囲から「かわいそう」だとか「変わってる」とかいう視線を向けられる。
でも、このリビングでは。このソファの上では。僕はただの「僕」で、彼女はただの「アスカ」だ。
「もうさ」
僕がぽつりと呟くと、アスカが天井を見上げたまま「なに?」と応じた。
「僕たち二人で、もう完成してるんじゃないかな」
アスカは数秒、僕の言葉の意味を考えていたようだったが、やがて「それだ」と手を叩いた。
「ほんとだよ。わざわざ面倒くさい思いしてまで、外にパートナー探す意味、ある?」
「ないかもね」
「でしょ。私、あんたがいれば、精神的には超満たされてるし」
「僕もだよ。アスカといる時の自分が、一番好きだ」
それは本心だった。
性愛だとか、肉体的な欲望だとか、そういう面倒なものを抜きにして、ただ精神だけで繋がっていられる。このゼロ距離の関係。
僕はこの完璧な均衡が、ずっと続けばいいと本気で思っていた。
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