Stufe 3: Schlüssel





 

「──アンタに、”勝つ”?」


 ソフィはスカートを握りしめ、半歩後退った。鋭くレーゲンを睨み、慄く喉を叱咤して低く問う。レーゲンはそんな彼女を横目に、わざと見せ付けるように音を立て、シースナイフの刃を折り畳んだ。その間、ライトの暖色に照らされたその瞳は、彼女に固定されたままだ。


「……ああ。俺を仲間に入れたいなら、まずお前らがそれに見合う奴らかどうか──見極めないとな」


 レーゲンの瞳が、ゆっくりとミゲルやジョナスにも向けられる。ミゲルは暴れる心臓を必死に荒い呼吸で抑えた。背後に隠れ、強く彼の肩を掴むジョナスを庇う余裕もない。掴まれた肩の痛みも、神経が鈍ったようにどこか遠い。


「そんな物持ったアンタに勝てって? 背後から三人がかりで襲い掛かったとしても勝てる気がしないわ。……バカにしてんの⁈」


 恐怖を覆い隠すようにソフィが怒声を浴びせる。レーゲンはゆったりとした動作でソフィに向き直ると、微かに鼻で笑う。


「そう怖がんなよ。──大丈夫だ、ちゃんとお前らに合わせた勝負にしてやるからさ」


 レーゲンはナイフを、ジーンズに取り付けたベルトクリップ式のホルダーに仕舞う。彼がおざなりにシャツの裾を正すと、ホルダーと、そこから覗く木製の柄が姿を消す。彼は次に前のポケットを探ると、何か小さなものを摘み出し、三人に分かるように小さく振る。彼が手にしているのは、古びた真鍮の南京錠のようだ。四つのダイヤルも見える。


「これからこの錠前で玄関のドアを塞ぐ。この家のどこかに、鍵のナンバーが隠されてる。それを、お前らは探す。……見事解錠出来たら、ひとまずお前らの一勝だ」

「……そ、それだけ?」


 あまりにも想定外な提案に、ソフィが怪訝な声を漏らした。レーゲンは適当にダイヤルを回しながら、片手間に発言を続ける。


「ただし、条件はある。お前らはそれを、俺から逃げ隠れしながらやるんだよ。俺はお前らを探して、見つけ次第追い回す。捕まえたらその後は──分かるよな?」


 レーゲンは手いじりをしながら三人を一瞥した。ミゲルたちは揃って閉口し、彼の挙動からひと時も視線を剥がせずにいる。何も応えない来訪者たちを気にすることなく、レーゲンは淡々とした動作で壁から肩を外した。


「けど、ここは俺のテリトリーだからな。それなりに手加減はしてやるつもりだ。”まだいいか”と思ったら放っておくし、”そろそろだ”と思ったらやりに行く。──どうだ?」


 その譲歩も、彼の手中に閉じ込められた証拠だ。問いかけられてもミゲルたちには、頷くことしか許されない。断れば再びナイフが飛び出して、全員一息に殺されるだけだ。


「聞いてんだけど」


 何も応えられない三人に、レーゲンは催促するように重ねて問う。ソフィが額に汗を浮かべながら歯噛みして、ミゲルに振り向く。ミゲルは為す術なく数回頷くことしかできない。ジョナスは全ての判断を放棄し、ひたすらミゲルの背に額を押し詰めるのみだ。


「──わ、分かった。ただし、アタシたちも武器になるものは使わせてもらう。そうじゃないとフェアじゃないわ。……いいわよね?」


 ソフィが微かに声を震わせて答える。レーゲンはにやりと口角を持ち上げて両手をポケットに入れた。姿勢の悪い彼の顔は、頬にかかる彼の髪に半ば隠れている。ただでさえ不気味な彼の表情はさらに判別しづらいものとなった。


「好きにしろよ。これはお前らの度胸試しなんだからな」


 レーゲンはそう言うと、ゆっくりと踵を返した。そして肩越しにミゲルたちを振り返る。


「ヒントは分かりやすくしてあるはずだ。いつか試そうと思ってた遊びだからな。せいぜい上手く探せよ」


 わずかに声を弾ませ、レーゲンは廊下の向こうに一歩踏み出す。ミゲルたちは束の間の安堵感に包まれた。……その刹那、足音が止まる。レーゲンが再び振り返り、空気が凍る。


「そうだ、言い忘れてた。鍵の番号を試すチャンスは二回までだ。失敗出来るのは一回だけ。二回目間違えたら”罰”を与えるから、そのつもりでな」


 そう言い残すと、レーゲンは今度こそ玄関へと向かった。程なくして、鎖の擦れるような音が聞こえてくる。彼が漂わせる空気に硬直したミゲルたちの中で、いち早く我に返ったのはソフィだった。


「──行くわよ!」


 ソフィはきつく囁くとミゲルの手を掴み、当てもなく走り出す。されるがままに足を動かすミゲルの背後に、彼のシャツの裾を掴んだジョナスが続く。三人はダイニングキッチンの脇に伸びる廊下を進み、適当に奥の扉を開けてそこに飛び込んだ。





 木製の扉をそっと閉じ、部屋を見渡す。相変わらず窓は塞がれ、外界の光が届かない室内には暗闇が広がる。手探りで障害物を避け、目が闇に慣れるのを待つ。空気は篭り、彼らの靴で荒らされた床から埃が舞っているようで、それが咳を誘う。しかし、音を出すことは許されない。


 三人はそんな中で一様に胸を押さえ、激しく動く心臓の音と息を整えた。互いの表情も満足に見えず、息遣いだけがその存在を主張する。ソフィは思わず扉付近の壁を手で伝い、スイッチを探り当てる。しかしそれを押しても何も反応は無い。リビングでもそうだったが、メインライトは点かないらしい。ソフィは小さく舌打ちすると、すぐに部屋の家具を探り始めた。


「点いた!」


 ソフィが小さく囁くと同時に、ベッドサイドライトが淡く点灯する。プリーツ状のシェードと、色の濃いウッドベースのシルエットを中心に、周囲が小さく照らされる。


 そこは、ダブルベッドの置かれた一室だった。その他、花開くように曲線を描いたポールハンガーや、フェイクグリーンが飾られたシェルフ、木製のベッドサイドチェストと基本的な家具が置かれているが、どれも使われている形跡が無い。白い壁には風景画が飾られ、木製彫刻の掛け時計は止まっている。生活感は無いので、恐らくゲストルームなのだろう。だが、使わないシーツなどのリネンや椅子、クッションなどが雑多に放られ、物置扱いされているのが窺えた。


 ソフィは一通り辺りを見渡すと、クローゼットの折れ戸に手をかけた。白く塗装されたルーバーが軋み、勢いを緩めながらそれを開く。中を覗くと、ポールにいくつかハンガーが掛けられているのみで何も無い。ソフィは恐怖で動作の鈍っているミゲルたちを手招きし、クローゼットの中へ誘うと折れ戸を閉じた。


「……ねぇ、本当にどこからも出られないの? 僕ら、あの人の言う通りにしなきゃダメなの? ──ノアは本当に死んじゃったの?」


 自らの両手をきつく握りしめ、涙ぐんだジョナスが震える声を漏らす。彼は誰に尋ねるでもなく、まるで自分に問いかけるように瞳をきつく閉じている。そんなジョナスを一瞥して小さく溜息を吐くと、ソフィはミゲルに鋭く光る瞳をぶつけた。


「ひとまずアイツの言う通り、鍵のヒントを探すわよ。探しながら、どこか出られそうな場所が無いかも探す。……いいわね?」


 ミゲルはわずかに眉を寄せ、緊張の面持ちで小さく頷く。──やるしかない。そんな感情が二人の間で交差する。


「ジョナス、アンタは動けそうにないならここに隠れてなさい。アタシたちは作戦会議したら、ここを出てヒントを探しに行く。全部分かったら迎えに来るから、それまで見つからないように。動いちゃダメよ」

「嫌だよ、一人なんて無理! ……僕も、行く」


 気遣いに効率を滲ませたソフィの指示を、ジョナスは即座に拒否した。彼は、自分一人でレーゲンと対峙することを恐れているようだった。


「──わかったわよ。その代わり、大声禁止よ。足が竦むのも禁止。とにかくアイツの姿が見えたら即逃げる。……アンタはそれでいいわ」


 ソフィは過度にジョナスをここに留まらせようとはしなかった。すぐに意見を変え、制約を与える。それだけ済ませると、クローゼットの外に耳をそばだてつつ、作戦会議が始まった。


「まず、何をヒントにしてるかは分からないけど、ダイヤル錠だから、確実なのは答えが”数字”ってことよ。アイツは”分かりやすくしておいた”って言ってたから、数に関する物に何か印があるんじゃないかしら?」

「数に関する物……時計とか?」

「そうね。その他にも数字が書かれてる物は注意して見ること。あと、個数とか……そういうのにも目をつけた方がいいかも」


 ソフィの冷静な着眼点が光る。ジョナスが弱々しくも彼女に応える。ミゲルは返事の代わりに首肯して、彼女に先を促した。


「それから、四つの番号が分かっても、並びが分からなきゃ失敗する。失敗は一回までだから当てずっぽうは無理。だから、それに関しても何かヒントがあるはずだけど、──どんなものは想像もつかないわ」

「じ、じゃあ、どうする?」

「とにかく、目立つ物とかがあればそれがヒントの可能性が高いから、気になったものの情報は共有しましょう。……それで、ちょっと確認したいんだけど」


 身を寄せ合って囁き声で話し合う三人の顔を、ルーバーから漏れるライトの光が照らす。夕暮れにも似た色の光が、三人の心をいくらか落ち着かせた。


「アタシは、手分けするべきだと思うんだけど、──どう?」

「無理って言ったじゃん!」

「アンタはミゲルといればいいわ。でもせめて、二手に分かれるべきじゃない? 見つかるリスクも、見つかった時のリスクも高い。二階へつながってるのも多分玄関の所にあった階段だけでしょ? いくら大きいからって結局は家の中よ。三人で動いたら目立つと思うの」


 ソフィは真剣な眼差しをミゲルに向けた。つまり彼女は、単独行動をしようとしているのだ。ミゲルは反射的に首を横に振る。


「──どうしても?」


 小さく溜息を吐き、ソフィはミゲルに再度確認する。ミゲルがひとつ頷くと、ソフィは諦めて肩を竦めた。


「……わかった。じゃあとりあえず──」


 途中で言葉を切り、ソフィは口を噤むと向かいのジョナスの口を素早く塞いだ。面食らうジョナスを、自らの唇に人差し指を添えたジェスチャーで黙らせる。耳を澄ませば、外から小さく足音が聞こえる。──レーゲンだ。


 三人は吐息を漏らすことすら慎重に、音が過ぎるのを待つ。だが非情にも部屋の扉はゆっくりと開かれ、ルーバーの隙間からわずかに泥汚れの目立つスニーカーが覗く。足音と気配はしだいに部屋の奥にあるクローゼットに向かうが、その途中で止まった。すると、部屋の明かりが突然点滅する。レーゲンが、ベッドサイドライトのスイッチを弄ぶように何度も押しているのだ。


 息を潜める三人の扉一枚隔てた向こうで、再び気配が移動する。ライトを点灯させたままにしたレーゲンは、その足を今度こそクローゼットに向けた。──気配が近づく。ジョナスが、両手で自らの口を握り潰すように押さえつける。全貌までは見えないが、足首から下だけがルーバーを隔てて目の前に現れる。そして、とうとうその足が停止した。


 刺すような沈黙。耳鳴りが鳴り響き、レーゲンが生み出す布擦れの音が認識できないほど、恐怖と焦燥に意識が支配される。彼の爪先はクローゼットを向いていないようだが、何故だか見下ろされているような感覚を覚える。三人は必死に気配を消しながら、扉の外の動向を探った。


 やがて、レーゲンが踵を返す。頭上から低い鼻歌が聞こえ、それが徐々に遠ざかる。それが扉の開閉音とともに遮られ──やがて、張り詰めた糸が切られるように、空気の音が戻った。


 ジョナスが口から手を外して胸を押さえ、目を閉じ、しゃくりあがる喉を押さえつけるように息を整える。ミゲルは両手を床につけて脱力した。


「──絶対今の、アタシたちバカにされてたわ」


 息を吐き捨てるようにそう言って、ソフィは歯噛みした。握られた拳に、彼女の戰慄と怒りが滲む。ミゲルはそれを読み取ったのか、その拳に手を添えた。


「……大丈夫よミゲル。──さあ、ひとまずここを出て、何か明かりを探さないと。様子を見ながらキッチンに行ってみる? 何か数字のヒントもあるかも」


 ソフィは深呼吸を挟み、冷静に二人に告げた。クローゼットをわずかに開き、恐る恐る隙間から部屋の様子を覗く。誰もいないのを確認すると折れ戸を開き切り、その足で部屋の扉へと慎重な足取りで向かう。遅れて動き出したミゲルとジョナスはようやく立ち上がり、思わず足を摩った。いつの間にか恐怖で膝が笑っていたようだ。


「ま、待ってソフィ! ……キッチンかぁ、大丈夫かな……」


 ジョナスはそう呟いきながら、足取り重く部屋のドアへと向かって行った。





 ソフィがゲストルームの扉をそっと開く。わずかな隙間から暗い廊下を覗くと、視線の先──直線上にあるリビング奥のスタンドライトが、ぼんやりと周辺を照らしているのが見える。人の気配は無い。


 レーゲンが三人の居場所を把握しているならば、リビングのソファに座っていればいい。二階へ移動するには必ず一度そこを通らなければならないからだ。しかしその姿はどこにも無い。静かな空間では振り子の小さな音だけが鳴っているだけだ。


 ソフィはキッチンに目を凝らした後、向かいの部屋と左手の突き当たりにある扉に目を向けた。爪先をそっと移動させて廊下を横切り、ひっそりと浮かび上がる木目の扉に耳を付ける。ミゲルとジョナスはゲストルームからその様子を窺った。周囲に視線を配りながらも聴覚を集中させる彼女を固唾を飲んで見守る。


 程なくしてソフィが向かいの部屋の扉を慎重に開く。そして中を確認すると、背後の二人を手招きした。


「見て。ここ、倉庫みたい。何か役に立つものがあるかも」


 ミゲルとジョナスを中へ促してから扉を閉じ、ソフィがそっと告げる。しかし、扉を閉じたせいで中は暗闇だ。埃とカビが混ざったような空気が鼻や喉を刺激する。棚に整頓された物、地面に落ちて散乱した物──内部はゲストルーム同様、雑然としている。淡い光に照らされていた瞬間の記憶を頼りに、三人は注意深く手探りで箱や棚を漁った。


 金属の冷えた感触や木目のざらつきを撫でながらそろそろと足を運ぶ。すると、シンとした空間に突然ガタン、と音が響いた。


「あ!」


 ジョナスが反射的に声を上げ、慌てて口を抑える。どうやら地面に無造作に置かれていた箱を蹴ったらしい。三人は息を潜め、ひとつの音も立てないようにその場に固まる。そうして聴覚を研ぎ澄まし、しばらく外の様子を窺ったが反応は無い。どうやらレーゲンは近くには居ないようだ。


「ちょっとジョナス、何やってんのよ!」

「ご、ごめん! ──……あれ」


 声を潜めながらもソフィがジョナスを嗜め、ジョナスは条件反射で謝る。──が、自分が蹴り上げた道具箱が開いているのに気づき、中から何かを取り上げた。


 倉庫に小さな光が灯される。光を反射させた粉塵が舞う、部屋の全貌が浮かび上がる。ジョナスが手にしているのは古い小型のフラッシュライトだった。


「ラ、ライトだ……よかった、使える」

「ジョナス、やるじゃない」


 眉を釣り上げていたソフィも含み笑いを漏らして素直に褒める。数少ない間接照明の灯火しかないこの家で、探索するのにライトは必須だ。彼女はジョナスからライトを取り上げると、手早く倉庫内を照らして物色した。


「あんまり大きなものは持って歩けないけど……長い棒みたいなの無いかしら。もし見つかって襲われた時、距離を取って抵抗するのが一番いいと思うのよね」


 床に落ちた大小の箱を跨ぎ、ソフィは角の壁に立て掛けられた細い金属の棒を手に取った。


「これがいいわ」


 彼女の身長の半分ほどある長さの棒は、先端がフックになっている。どうやらシャッターか何かを開閉させる道具のようだ。


「あんたたちも護身用に何か持った方がいいわよ。相手はナイフ持ってるんだから」


 ソフィが提案するが、ミゲルは首を横に振る。ジョナスも「武器なんか持てない」と眉尻を下げるので、ひとまずソフィはライトをミゲルに託し、自分は金属棒を握りしめた。


「仕方ないわね。──じゃ、キッチンへ行くわよ」


 あらかた倉庫の探索を終えた三人は、再び注意深くドアを開き、廊下に出た。





 廊下や部屋の床はつるりと隙間なく板が敷き詰められたヘリンボーンだ。軋む音を立てる可能性は低いとはいえ、三人は靴の音を立てないよう、布擦れの音すら気遣いながら廊下を進む。ゲストルームや倉庫の隣にはそれぞれ扉が一枚ずつ存在したがそれを一旦通り過ぎ、リビングにあるスタンドライトの明かりだけが頼りの薄暗いキッチンへ辿り着く。


 ミゲルは移動中、金属棒を構えて進むソフィの背に隠れるようにして、なるべく足元を照らした。前方に光を拡散させれば居場所を特定されかねないので、ライトの向きは慎重に考えなければならない。探索時ももちろんそうだ。ミゲルはキッチンでもなるべく手元などの探索箇所だけを照らすように心がけた。


「ジョナス、階段側見てて。アイツが来るとしたらそこからよ」

「え、ぼ、僕が?」

「そう。近づいてくる気配したらすぐ知らせるのよ」


 ジョナスに見張りを任せ、ソフィとミゲルでキッチンを探る。ダイニング側にコンロやシンク、その背後に食器棚や家電製品が並ぶ、広いがオーソドックスなカウンターキッチンだ。奥に勝手口があるようだが、施錠されていて取っては動かない。


 フライパンや鍋などの調理器具、食器棚に入ったほとんどの食器は整頓されていて、直近で使われた形跡が無い。それなのに調理カウンターやシンクには汚れが目立っている。勝手口の側に置かれたゴミ箱には大小のゴミが詰め込まれ、はみ出した部分が顔を覗かせていた。


 そんなちぐはぐな状態を探るなか、ミゲルは冷蔵庫の扉にマグネットで貼られた数枚のメモを寺下。シンク脇の柱部分にもメモがピン留めされ、小さなボードも掛けられている。そこにはどこかの番号やアドレス、何かのリストが走り書きされていて、生活感が窺えた。


「なんか……変な散らかり方してるわね」


 ミゲルのライトを頼りにざっとキッチンを見回したソフィが小さく呟く。そして、ミゲルが目をつけたメモに注目した。


「これ、不自然に数字をまるで囲ってるのがいくつかあるわ。──ジョナス、アンタメモ帳持ってたわよね? アタシが言う数字、メモしといてくれる?」

「ち、ちょっと待って」


 必死の形相で階段方向を見つめていたジョナスが、慌ててジーンズのポケットからメモとペンを取り出す。それでも尚階段側を意識するように視線を彷徨わせながら、メモを開いた。


「いいよ」

「いくわよ。……”2”、”5”。何の関連性も無いメモ帳にそれぞれ一つずつ番号がピックアップされてるから、たぶんこれが、分かりやすくアイツがつけた印ってことでしょうね……」


 ソフィの指示通りにジョナスはペンを走らせる。彼は特徴的な字で、”キッチン”、”0、5”と書き記した。


「他に何か気になる所ある?」


 ソフィがミゲルに囁く。するとミゲルは、カウンターの笠木の上に置かれた小さな網籠を覗き込んだ。その中に、使い古された真鍮のジッポライターを発見する。徐にそれを手に取って蓋を開くと、キン、と小さく音を発し、それがやけに耳に残った。ミゲルは手早く蓋を閉じると、ジーンズのポケットに仕舞い込む。


「いいじゃない。明かりの予備は大事よ。──あ、ジョナス。アンタ、一応アレでも持っておいたら?」


 メモを仕舞ったジョナスを小さく呼び、ソフィはワークトップを指差す。そこには使いかけのキッチンペーパーやアルミホイル、ラップが乗せられた金属トレーがあった。


「……アレってどれ?」

「あの下敷きになってるトレーよ。あれだったら持ちやすいでしょ。一応、護身用に抱えときなさい」

「うん、わかった」


 言われるがままジョナスはそっと乗せられたものを移動させ、円形のシルバートレイを手に取った。持ち上げる際にわずかな金属音が発生して肩を跳ねさせるが、無事、両手に抱え込んで深呼吸をする。しかし、金属製ゆえにどこかに少しでも接触すれば発する音は大きい。ジョナスはそれを警戒してか、シャツの中に隠してから抱え直した。


 すると、天井から唐突に足音が響いた。レーゲンが上階に居ることを実感した三人が同時に音の方向を見上げる。探索が進んで緩みかけていた緊張の糸が再び張り詰める。意図的な摺り足の音は大きく、篭った音を響かせている。彼が履いていたのはスニーカーだ。わざととしか考えられない恐怖を煽るような所業に、ソフィは舌打ちしそうになってそれを噛み締める。


「ね、ねえ……とりあえず一塊から全部調べない? 二階行きたくないよ」

「──絶対後で行くことにはなるんだからね。……でも、たしかに今のうちに下を調べ切るのは賛成よ」


 ジョナスの震え声に半ば呆れた様子のソフィだったが、彼の提案には大きく頷く。ミゲルもそれに倣うと、三人は足音でレーゲンの位置を意識しつつ、忍び足でダイニングテーブル、リビングと移動した。



 


 ダイニングテーブルの上には空のプラスチック容器などの食事のゴミがそのままになっていた。傍に置いてあるマグカップには、少量の液体がまだ残されている。甘い香りがするので、どうやらジュースの類だろう。しかし目立った数字は見当たらず、三人はリビングへと足を進めた。


 物が片付けられたような棚は埃の膜をまとっていて、触れられた形跡が無い。中身が抜かれたまま倒れたフォトフレームの上にすら、薄く埃が積もっている。テレビやテレビ台も同様で、埃くささが目立った。壁にかけられた異国の風景画、空の暖炉──まるでそのままただ残されているといった状態のリビングで、唯一人の気配が感じられるのはソファとローテーブル、スタンドライトくらいのものだった。レザーの座面も、その上の乱れた布も、木製のローテーブルも、しっかりとその質感が保たれている。


「これだけ広くて何の印も見当たらない──そんなことってあるかしら」

「わかんないよ。でも、よく見ると結構何も無い部屋だね」


 ミゲルのライトを頼りに順繰りに見回りながら、ソフィが呟く。最後尾のジョナスは玄関側をちらちらと見やりながら、静かにそれに応える。二人の密やかな会話を耳に入れつつ、ミゲルは天井を見上げた。擦るような足音は止まったが、代わりに小さな物音が聞こえ、まだレーゲンが二階にいることが分かる。


 ソファの周囲を一周し、最後に振り子時計の前で三人は足を止めた。ミゲルが文字盤に光を当てる。振り子は小さく音を立てて動いているのに時計の針は進んでいない。ミゲルは腕を伸ばし、その針に向かって小さく光を揺らした。


「十時、一分でいいのかしら、これ? でも、ダイヤルってゼロから九までよね? 十なんて無いから……単純に、”1” と ”0”ってこと?」

「でもさ、そしたらもう数字は四つ集まったことになるよ。そんなに簡単かな?」

「──他の部屋を見てみないと分からないわね。とりあえず、最初の部屋と倉庫には、数字みたいなものは無かったと思うけど……。意味深な数の物とかも無かったわよね?」


 ソフィとミゲルが首を捻る。その横でミゲルはジョナスの肩を軽く叩くと、ライトで照らした文字盤を指差した。


「あ、メモだね。任せて」


 気づいたジョナスが、”リビングの時計”、”0、1”とメモに書き足した。


 そこで、天井の物音がまた足音に変わった。今度は迷いないリズムを刻み、階段方面へと移動するのが分かる。三人は慌てて廊下を戻り、左手のドア──ゲストルームの隣のドアを開いて中に身を滑り込ませた。


 そこはどうやらランドリースペース兼リネン室のようで、洗濯機や洗面台、小さなカウンターとリネンの入った籠の棚が並んでいた。三人は上階の音に耳を集中させながら、辺りを物色する。隠れ場所を探すも身を顰めるようなスペースが無い。ミゲルは焦って闇雲にライトを移動させる。すると部屋のドアの傍に、壁の白と同化したような、ひとまわり小ぶりの扉を発見した。


「ミゲル、そこ開けて!」


 ソフィの指示が飛び、半ば震える手でそっと開くと、そこは小さな物入れだった。天井が斜めになっており、どうやら階段下のスペースに当たるようだ。日用品が墨に追いやられるようにして置かれている。その先には同じような扉があり、その先は恐らく玄関とリビングの間にある通路だろう。


 物入れに飛び込んだ三人は身を寄せ合って屈み込み、上を見上げる。ほとんど頭上で足音が聞こえ、それがだんだん下がるのが分かる。レーゲンは、一階へ戻って来るようだ。


「いい場所見つけたわねミゲル! ここを通り抜けられるなら、アイツに見つからずに上に行ける」


 ミゲルがライトを落とす。廊下側のドアの隙間から、リビングの明かりがかすかに漏れる。ミゲルからはシルエットしか見えないが、ソフィが高揚しているのが分かる。ほとんど吐息の囁き声は、明らかに弾んでいた。


 足音が階段を下りきり、廊下へと移動する。ドアの前をレーゲンの気配が通り過ぎる。その足取りがドアの隙間から漏れる光を遮り、影が彼の軌道をミゲルたちに知らせる。そのまま倉庫の方へと移動したのか、程なくして足音はほとんど聞こえなくなった。


「──行くわよ」


 ソフィが廊下側のドアに手をかけてそっと開く。幸い軋む音は鳴らない。最低限の隙間をすり抜けるように三人が廊下に移動する。ソフィがミゲルとジョナスに上階へ移動するよう、目配せをして促す。ドアをそっと閉じ、背中に冷たいものを感じながらもソフィがその後に続く。


 そして三人は一列に並び、一段一段、足をそっと乗せるようにして階段を上っていく。一階の廊下の奥から聞こえる物音が彼らの心臓を締め付ける。そして、先頭のミゲルが最後の一段に足をかける──その時だった。


 部屋を乱暴に漁る大きな音が一階全体に響いた。同時に、ゲストルームで聞いた鼻歌が再び聞こえてくる。穏やかでゆったりとした音程とリズムに、けたたましい物音が重なる。ドアを開けたまま倉庫を荒らしているのか、それまで静寂に包まれていた空間に金属音や鈍い音が断続的に響き渡った。


 思わず足を止めてしまったミゲル。続くジョナスやソフィも冷や汗を浮かべて階下を窺う。


 ──ガシャン!


 一際大きな、陶器が壁に当たって割れるような音が響いた。肩を大きく跳ねさせたジョナスから、小さな悲鳴が漏れる。ソフィに睨まれ口を塞ぐが、彼の声を合図にしたかのように騒音がピタリと止まる。そしてまた、足音が再開する。足取りはゆったりとしたもののようだが、確実にこちらに向かって来ている。


「行って!」


 鋭い囁き声で指示を出し、ソフィがジョナスの背を叩いた。ミゲルが慌てて階段を上りきり、ジョナスとソフィが続く。足音を気にする余裕はなく、床が音を立てる。


 二階は、直進する廊下の途中が左右に分かれていた。廊下は一階のものより狭く、部屋が多いからか壁も多く圧迫感がある。どこをライトで照らしても、その先は闇が口を開けて待っているかのようだ。ミゲルがどちらへ行こうかと視線を彷徨わせているうちに、レーゲンの気配が彼らに近づく。今度は足音だけでは無い。壁を傷つけるような音が、獣の唸り声のようにミゲルたちの耳を通して恐怖を伝えてくる。


「ミゲル、奥!」


 ソフィの声でミゲルは反射的にライトを奥に向ける。すると、ミゲルとジョナスを追い越したソフィは小走りに廊下を直進した。


「早くしなさい!」


 レーゲンの発する音が階段下の方まで近づいて、竦み上がったジョナスの手を取ってミゲルはソフィの背中を追う。縺れそうな足をなんとか運び、三人は奥の突き当たりを左に曲がる。そしてその廊下の一番奥、右手の扉にソフィが手を掛ける。


 レーゲンが階段を上ってくる。一段一段踏み締めるような速度が、逆に三人をじわじわと追い詰める。ソフィは焦りながらも慎重に取っ手を動かすと、問題なく扉が開く。


「入って! 中で隠れられる場所があったら隠れるのよ!」


 ソフィはミゲルとジョナスを部屋へ促し、自分も部屋に身を滑り込ませると、扉を閉めた。


 




 そこは、どうやら書斎のようだった。奥の壁には天井まで埋め尽くす本棚があり、その手前に重厚な木製のデスクと、大きな椅子が置かれている。絨毯には階下のものとは違い、優雅な曲線を描く模様が描かれており、部屋を高貴に演出していた。


 ジョナスは忙しなく首を振って内部を見回し、デスクの裏に回ってその下に身を潜めた。ミゲルはそれを横目に、奥の壁沿いに設置されたクローゼットを開いてその中に蹲み込んだ。最後のソフィはさっと視線を走らせると、本棚付近の角に置かれていた、一人掛けの大きなソファを発見する。座面に乗り上げて背もたれと角の隙間に入り込み、彼女は金属棒を抱き寄せるように抱えて息を潜めた。書斎が静まると、再びレーゲンの気配が音となって三人を襲う。


 廊下を歩く音が扉越しに聞こえる。次いで付近の部屋のドアを開け、中を探るような物音が響く。レーゲンはわざと自らの場所を教えるように、殊更大きな音を立てて行動しているようだった。


 そしてまた、あの鼻歌が聞こえ始める。彼は基本黙って行動しているようだが、たまに思い出したように鼻歌を口ずさんだ。それはこれまで全て同じ音程、同じリズムで、どうやら一部しか覚えていない歌を繰り返しているらしい。


 鼻歌が途切れると同時に、書斎の扉に手がかけられた。ゆっくりと開かれ、足音が中へ侵入する。三人はそれぞれ隠れた場所で、懸命に息を押さえて気配を消した。


 しかし、レーゲンは部屋を漁るでもなく本棚へと直進すると、ちょうど中央のあたりで足を止めた。猫背のまま首を持ち上げ、じっと本棚を目だけで物色する。少し間を置くと、彼は目線の高さから一冊の本を抜き取った。何の変哲もない、ハードカバーの本だった。それをナイフを持つ手とは逆の小脇に抱えると、踵を返す。扉が開かれ、蝶番が小さく呻く。そしてそのまま、彼は亡霊のように書斎から消えていった。


 無酸素状態のようだった空気が戻ると、ミゲルたちは一様に細く長く息を吐き出した。最初に動いたのはソフィで、彼女はそっと徐々にソファの背もたれから顔を覗かせて扉付近の気配を探り、小さく息を吐くと背もたれを跨ぐ形で隠れ場所から脱出した。


「──行ったみたいよ」


 ソフィの静かな合図でミゲルたちが顔を出す。直接追われるわけでも襲われるわけでもない間接的な恐怖に精神を苛まれ、三人の顔には三様の疲労が滲んでいる。


「今のうちにひとつ決めておきましょう」


 扉から隠れるようにデスクの陰に身を屈め、三人はミゲルのライトを頼りに顔を見合わせた。


「……何を?」

「集合場所よ。やっぱり三人で逃げるのはリスクがあるわ。襲われた時はそれぞれ逃げ道を分けたほうがいい。──そうじゃなくてもその時の状況によって、アタシたちは分断される可能性が高いわ。だから、そうなった時の集合場所を決めるのよ」


 ソフィの提案は妥当だった。追いつかれる前だった今の状況ならばこうして三人で居られるが、見つかってからも三人で逃げ切るのは困難だ。ミゲルが神妙な重落ちで頷くと、そんな彼を不安げに見つめ、ジョナスもひとつ頷いた。


「まず一階。……一階はランドリールームにしましょう。単純に脱出経路も多いしね」

「二階は?」

「まだ分からないけど、今の段階ではここってことにしておくしか無さそうね。一応隠れ場所もあるし……だから、一階で逸れたらランドリールーム、二階で逸れたらこの本の部屋。いいわね?」


 指を立てて告げるソフィに、ミゲルとジョナスが頷く。一階と二階を移動する手段が階段しか無い以上、単独行動の時にそこを使うのは危険だ。階層ごとに集合場所を決めておけば合流しやすい。


「ただ、あまり同じ場所を使ってるとアイツに気づかれるかもしれないから、時々変えた方がいいかもしれない。ひとまず二階を探索して、どこに何があるか把握しましょう」

「い、一階にまだ開けてない扉があるよソフィ」

「分かってる。また戻らなきゃいけないけど……まず、二階に来られたってことが重要よ。アタシたちの行動範囲に二階が追加されたことで、アイツの目を掻い潜って上と下を行き来できるチャンスが増えるから」


 極限状態であるにも関わらず、ソフィは冷静だ。まるでそうすることで、胸の内に燻る恐怖を打ち消しているかのようだ。話がまとまると、三人は互いに視線を交わし合った。


「まずはこの部屋ね。──下と違って結構片付いてるけど……相変わらず埃臭いわ。くしゃみなんか出来ないのに、鬱陶しいわね」


 デスクから顔を覗かせて部屋の外の様子に気を配りながら、三人は書斎の探索を開始した。デスクの上に置かれたテーブルランプを点灯すると、ぼんやりと部屋が照らされた。ホバネイルのミルクガラスシェードが、オレンジ色のライトを淡く拡散させている。真鍮の支柱や土台には美しい曲線の蔦や花模様が立体的に浮かび上がり、柔らかい陰影がその存在感を控えめに主張している。子供の目からも、それが高価な物だということが分かる。


 革製の椅子、ベロア生地に包まれた弾力のあるソファ、その傍の小さなテーブル、クローゼットに至るまで骨董品のようで、まるでその部屋は異世界のようだった。本棚や壁、床を含む木製のものは全てダークブラウンで統一され、絨毯の主色に使われているダークグリーンが落ち着いた雰囲気を際立たせている。唯一、身体を覆うような作りのソファだけがペールブルーを基調とした薄い花柄で、暗い色のフレームには彫刻が施されており、一際目を惹くものとなっている。天井には花の蕾のようなシーリングシャンデリアが取り付けられているが、相変わらずそちらは使用出来ないようだった。


 ミゲルは持っていたライトを消すと、まずデスクを調べ始めた。重い引き出しを一つずつ開け、中を確認していく。ジョナスは本棚、ソフィはソファ付近の大きなキャビネットを物色した。


 しばらく無言の探索が続く。いつの間にか外の足音や鼻歌はパタリと止んでいて、レーゲンの気配は無くなっていた。あらかたの探索を終えると、三人はデスクに集合する。そして、それぞれ一人ずつ報告を行った。


「本棚は……特になにも数字っぽいものとか、怪しいものとかは無かったと思うよ。あと一応、あの人が持っていった本があった棚なんだけど……他の本が占星術とかタロットの本だったから、もしかしてさっき、そういう本を持って行ったんじゃないかな? 何か関係あると思う?」

「占いの本? 一番結びつかないジャンルまであるわ。まさか趣味ってわけでもないでしょ。関係あるとしたら、持っていかれたのは厄介ね」


 ジョナスの報告に、ソフィが眉を顰める。しかし考えても埒が明かず、溜息を吐いたソフィが自身の報告を開始した。


「キャビネットも目ぼしいものは無かったかな。棚の中は古い地球儀とか天球儀が飾ってあったり、小さい望遠鏡が飾ってあるだけ。引き出しの中も万年筆とかメモ帳があったけど、全部ただの骨董品って感じよ。それっぽい日記帳みたいなのもあったけど、中身は白紙。──あ、ペーパーナイフがあったけど、これ誰か持っておく?」


 ソフィは金属棒と一緒に握っていた小さなナイフを二人に翳して見せた。柄の部分に獅子の彫刻が施されたレリーフをはめ込んだ、シンプルな銀のナイフだ。しかし、レーゲンが持っていたものと比べるとかなり心許ない。


「だから、僕らそんなの持っても戦えないよ。ねえ、ミゲル?」


 ジョナスがシャツの下のトレーを抱きしめながら、ミゲルに同意を求める。ミゲルは間を置かずに二、三度頷く。ソフィは呆れ顔で溜息を吐くと、ワンピースのポケットにそれを忍ばせた。


「ま、そうよね。期待はしてないわ。──で、ミゲル。アンタは何か見つけた?」


 ミゲルは頷くと、椅子の座面に置いていた古びた手帳をデスクに乗せた。部屋に似つかわない、市販のものだ。ソフィとジョナスが興味深げに顔を寄せる。ミゲルは手帳を開くとランプに寄せ、描かれていた文字列を指でなぞった。


「ん? 何これ、──名簿か何かかしら? 名前と性別、年齢が書かれてる……」

「名簿? ここの家の人、先生か何かだったのかな」

「いや、それにしては変よ。だって、十代もいれば三十代もいるし、何なら年齢不詳って人もいる。そもそも、自分の手帳に生徒の情報書き込む先生って居る? 何か別のリストに違いないわ」


 リストに目を走らせると、年齢の数字にアンダーラインが引かれているものがあった。他の字と違い、真新しいインクで付け足されたように見える。ミゲルが伝えたかったのはどうやらこの事のようだった。


「なるほどね、確かにこれはアイツが付け足した印かも! ジョナス、言うわよ」


 ジョナスは慌てて腹を机に押し付けてトレーを抑えながら、メモ帳とペンを取り出す。そして、呪文のように唱えられる数字を書き足した。


「”本の部屋、3、6”……? ──ねえ、これ、どんどん数字が増えてってるよ。ゼロから九まで数字が出てきたらどうするの? どれが正しいかなんて分かんないよ!」


 ジョナスが鎮痛な面持ちでか細い声を上げる。ソフィも難しい表情で黙り込んだが、それは一瞬だった。


「だとしたら、数字を選別出来るヒントがあるはず。そうじゃなきゃ破綻してる」


 そう呟くと、ソフィはミゲルに目を注ぐ。ミゲルが頷くと、彼女は満足げに口角を持ち上げた。


「そうと決まればさっさと部屋を回って数字とヒントを探すわよ。アイツの言った通り、必要な情報は分かりやすくなってる。大丈夫、すぐに見つかるはずよ」


 二人を励ますようにソフィは胸を反らす。その仕草には、恐怖を忘れさせるほどの緊張と、わずかな昂りが滲んでいた。そして、ここは終わりとばかりに再び扉に耳をそば立て、退出の機会を窺う。ミゲルとジョナスは顔を見合わせると、互いに互いを安堵させるように小さく口角を持ち上げ、ソフィの背に続いた。





 再び廊下に出ると、目の前にはこれまでと同じような木製扉があった。右手は行き止まりで、小ぶりなコンソールテーブルと、壁掛け鏡が置かれているだけだ。夢中で書斎に駆け込んだため、周囲を観察していなかった三人は、慎重に視線を巡らせた。


 廊下の先は白い壁だ。そこで左右に進路が分かれ、右手はミゲルたちが上ってきた階段に繋がっている。左手は行き止まりで、そこにはロッキングチェアとラウンドテーブルが静かに存在していた。窓辺のようだが、一階同様の塞がれ方をしていて外を見ることは不可能となっている。ラウンドテーブルに置かれた燭台の大きなアロマキャンドルには火が灯されており、暖かい光が空気に揺らされるたびに、影が蠢く。階段を上がった直後は暗闇だったはずだ。レーゲンが灯したに違いない。


 階段につながる廊下を覗き込んでいた三人は、思わず固唾を飲んだ。音のない空間が、三人の呼吸の音だけを増長する。暗がりからいつレーゲンが現れるか分からない。部屋にいればいくらか安らぐ心も、廊下に出るたびに削られていく。三人はひとまず引き返し、書斎の向かいにある扉を開くことにした。


 蝶番が小さな悲鳴を上げるたびに動きを止めつつ、ゆっくりと扉を開く。そこは、小さな娯楽室のようだった。ミゲルがライトを灯すとまず、壁側の天井から吊るされた白いスクリーンが目に入る。それを眺めるように四人がけのカウチソファが置かれ、それが部屋のスペースのほとんどを占めている。ソファの背後には丸いチェステーブルと、二脚の椅子。テーブルの上には駒が並べられているが、そのいくつかは倒れ、いくつかは床に落下していた。


 小さなキャビネットには食器が並べられているが、埃をかぶっていて使われた形跡が無い。それどころか部屋全体を通して見ても、使われているのはソファだけだという事が分かる。その先、向かいの壁には扉があり、この部屋はどうやら通り抜けが可能のようだった。


「まあこの中で見るからに意味深なのは──チェスボードかしら」


 ソフィが真っ先にチェステーブルへ向かう。しかし、駒の種類も配置も把握していない彼女は首を捻るだけだった。


「ねえ、誰か分かる?」


 問いかけられたミゲルとジョナスは同時に首を振る。ソフィは肩を竦めると、落ちていたポーンの駒を摘み上げようと膝を折る。しかしそこで、怪訝そうに片眉を持ち上げた。


「……何これ、カード? すごい古いけど……綺麗な絵が描かれてる。”THE FOOL”?」


 ソフィはポーンの駒の頭の先、テーブルの土台部分に立てかけてあったカードを取り上げる。駒も拾って立ち上がると、テーブルの空いているスペースに並べ、カードに描かれていた文字を小さく読み上げた。


「これ、タロットカードだよ。──ええと、ちょっと待って」


 ジョナスがトレーを抑えながらメモ帳を取り出し、ページを何枚か捲る。そしてあるページで手を止めると、開いたメモ帳をカードの隣に並べた。


「”愚者”ってカードだ。崖っぷちにいるのに楽しそうにしてる人の絵が描いてあるでしょ?」

「何それ、アンタそんな絵も描いてたの」

「前に、カードの絵が綺麗で真似して描いた事があったんだ。ちょっと雰囲気は違うけど、間違いないと思うよ」


 ミゲルのライトに照らされた黒一色のスケッチとカードの絵は、細部こそ異なるが、描かれているものは同じだ。ジョナスは鼻を擦りながら小さく笑いをこぼした。


「確か、タロットカードにも番号があるんだ。──ほらここ、よく見たら”0”って描かれてる。だから、この部屋のヒントは”0”ってことなんじゃない?」


 いつになく饒舌に語るジョナスに、ソフィとミゲルは目を丸くして顔を見合わせた。どこか得意気にも見えるジョナスを横目にカードを手に取ると、ソフィは目を凝らして表面を観察する。


「ああこれ、アルファベットじゃなくて数字なのね。……じゃあ、このチェスの駒は関係なかったってことかしら」

「落ちてたやつが目印だったんじゃない?」

「なるほどね。仕掛けは単純だったってわけ」


 手に取ったカードをジョナスに渡し、ソフィは小さく息を吐く。しかし、カードをメモ帳に挟んでポケットに戻すジョナスの腕を軽く叩くと、にやりと笑った。


「お絵かきも役に立つものね」


 その言葉に、ジョナスの表情が微かに綻ぶ。ジョナスの耳が、ライトの光を受けて赤く染まっていた。


 ──その時だった。キャビネットの先にある扉がひとりでにゆっくりと開かれる。……否、ひとりでに開いたのではない。開けたのは──レーゲンだ。


「……仕掛けは単純だって? そりゃそうだろう。どんな馬鹿にでも分かるようにしてやらないと、お前らは──」


 レーゲンは、まるで来客のような自然さで娯楽室に入ると、扉を閉めた。ミゲルの向けたライトの光が、彼の持つナイフの刃に当たる。しかしレーゲンは構えるでもなく、逆の手をキャビネットに掛けた。


「──ただ、俺に殺されて、……それで終わりだからな」


 レーゲンの口角がわずかに持ち上がる。しかしその目は不気味に凪いでいて感情が読めない。じっと三人を見つめる空虚な眼差しは、まるで相手を金縛りにする魔法のようだ。ただそこに居るというだけで、急激に恐怖が蘇る。


「逃げて!」


 じりじりと後ずさっていたソフィが、背中に当たったミゲルの肩を叩いた。振り返り様に体を押して、自分たちが入って来た扉へと二人を促す。ミゲルは半ば立ちすくんだジョナスの手を取り、扉へと駆ける。ソフィは熊と対峙でもしているかのように金属棒を構えながらゆっくりと後ずさる。レーゲンはただ、一歩一歩、彼らに近づくだけだった。


「何だよ、逃げろ。──早く逃げろ。お前らは俺とは戦えない」


 ミゲルとジョナスが廊下に飛び出し、ジョナスの泣き声が微かに響く。ソフィはまだ出てこないようだが、待っている余裕は無い。トレーが落下しかけたのか、抑えようとしたジョナスの手がミゲルから離れる。階段へ続く廊下へ出たところで、二人の足が止まる。するとその時、ソフィが娯楽室から飛び出してきた。


「何やってんのよ! 早く!」


 彼女の後ろからレーゲンが現れる。その足取りはいくらか速さを増していて、ミゲルたちの背中が粟立つ。ソフィの叫び声が廊下に響き、ミゲルとジョナスは慌てて足を動かすと、廊下を走った。


 ミゲルは思わず階段を駆け下りる。後ろを振り返る余裕は無い。ただひたすらに玄関を回り、キッチンの方へと向かう。通り過ぎる途中、二階に上がる時は意識していなかった玄関の様子が垣間見える。両扉の取っ手が太い鎖で何重にも固められ、それを錠前が固定していた。


 そのままキッチンを通り過ぎ、廊下へ回る。壁に、ナイフでつけたような歪な直線の傷が足されている。ランドリールームに加え、奥の部屋と倉庫は扉が開かれたままだ。床に落下した額縁の角や、蓋の開いた道具箱やその中身がそれぞれの部屋から廊下にはみ出している。ミゲルは思わず足を止め、唯一閉じていた扉を開いて体を中に滑り込ませると、焦燥に駆られながらも慎重に閉じる。胸を抑えて息を整えながら内部を照らすと、そこはバスルームのようだった。


 その時、階段の方から足音が聞こえた気がして、ミゲルは反射的に奥のバスタブへ潜り込んだ。出来るだけ頭を下げ、ライトを消す。覗き込まれれば終わりだというのに、ミゲルは祈るように目を閉じて頭を抱えた。


 しかし気のせいだったのか、ミゲルを追う足音は無かった。それどころか、上階からも足音が聞こえない。ソフィやジョナスは無事に逃げ切れたのかと天井を見上げるが、足音一つ聞こえない。


 ミゲルはそろそろと上体を起こし、バスルームの扉を見やった。扉の隙間からわずかに漏れる光に変動はなく、物音がいつの間にか消えている。誘われるようにバスタブを跨ぎ、扉に近づく。ソフィがやっていたように耳を付けてその先の様子を窺うが、それでも外は静かだった。


 ミゲルは大きく深呼吸をすると、ライトを付けて辺りに視線を巡らせた。白いタイル張りの壁や床は余裕ある空間が保たれており、扉からトイレ、シャワーブース、洗面台、バスタブと、全て視界が開けている。部屋のスイッチは案の定機能しなかった。


 恐怖に痺れた頭を誤魔化すように数字などを探してみるが、目ぼしいものは見当たらない。強いて言うなら洗面台に並べられた三つのプラスチックカップと、そこにそれぞれ入れられた計三本の歯ブラシがあるのみだ。どれも使われている形跡が無い。


 だがミゲルは妙にそれが気になった。誰かが毎日そこに戻していたような、カップの中で不揃いに傾く歯ブラシ。ライトを当ててじっと見つめるが、その理由は分からない。洗面台の鏡に、そんなミゲルの姿が映る。ライトに照らされて浮かび上がった彼の顔は、もう落ち着きを取り戻しているようだった。


 ”二階で逸れたら本の部屋”。そんなソフィの声が頭の中で反芻される。ミゲルは階下に降りてしまったが、彼が仲間と落ち合うには再び二階へ上がらなければならない。レーゲンがその後どこへ向かったのか分からない今、その勇気が剥がれていくような気がして、ミゲルは振り払うように頭を振った。そして再びライトを消すと、バスルームの扉にそっと手をかけた。





 そっと取っ手を下ろし、扉を押す。相変わらずリビングの奥で、スタンドライトのシェードがオレンジ色の光を淡く発している。瞳を動かしてソファやダイニングテーブル、階段側の廊下をさっと確認するが、静かな光景があるのみだ。


 ミゲルはもう少しだけ扉を開き、頭だけ覗かせてランドリールームや倉庫側の廊下も確認した。三つの部屋の開きっぱなしのドアの向こうにも異常はない。何の物音もミゲルの耳には聞こえてこない。


 意を決して廊下に踏み出す。素直にさっさと階段へ向かい、二階に上がってしまいたい気持ちもあったがそれを抑え、ミゲルは廊下を倉庫側に向かって忍び足で進んだ。


 恐る恐る開かれたドアの隙間から部屋の中を覗いて歩く。ランドリールームは奥のリネンの入った籠が散乱し、元々ものが多かったゲストルームは、クッションが破られて腸が飛び出し、ハンガーポールや絵画、時計などが壊され、床に虚しく転がっているのが分かる。倉庫は棚に乗せられていたものを片っ端から床に散らかしたように足の踏み場が亡くなっている。陶器の破片がライトの光を反射し、暗闇の中でキラキラと輝く。全て、入るのが躊躇われる状態に様変わりしていた。


 レーゲンは、安心できる場所を壊していたのだ。──ミゲルはそう思い至る。壁に刻まれたナイフの傷も、恐怖を煽り、こちらの動きを鈍らせるために敢えてやっている。ミゲルの背に冷たいものが走る。そして、そのまま突き当たりにある、まだ開けていない扉に手をかけた。


 リビングを振り返りながら扉を開く。その先はどうやらガレージのようだった。シャッターは硬く閉じられ、広いコンクリート床にはペンキの染みのような跡が点々と残っている。全く色が違うにも関わらず血痕と早とちりしたミゲルは一瞬肩を跳ねさせたが、すぐに安堵の溜息を吐いた。


 広いガレージの奥には、くたびれた古いステーションワゴンが一台停まっていた。クリーム色の塗装はところどころが剥げ、リアガラスには”Sunny Coast Peinting”の文字と、虹色の観覧車を模した太陽のロゴのステッカーが貼られている。ミゲルはライトでそれらをなぞりながら中を確認する。荷台には汚れた脚立とペンキ缶、ハケやローラーなどの塗装道具が積まれている。塩気を含んだ空気にさらされ続けたであろうそれらのボディは、それでも不思議と頑丈そうに見えた。


 車付近には作業台があり、ベージュ色の有効ボードには細々とした道具が吊り下げられていた。ミゲルには分からないが、電動式の工具なども床や作業台に放置されている。


 壁には、角が少し曲がった古いタペストリーがあった。中央に大きくボードライン・パークの全景が映された写真が印刷されている。その虹色の観覧車の構図は、車のロゴにあったものとよく似ていた。


 そんなひっそりとしたガレージを見て回るが、数字や数にまつわる意味深な物などは見当たらない。戻ろうとして、廊下の扉とは別にもう一枚の扉を見つける。しかしそれは倉庫に繋がる扉のようで、ミゲルは開けるのを断念した。


 再び廊下を覗き込む。ガレージの探索で落ち着き始めていた心臓が、また重い音を立て始める。ゆっくりと鼻で深呼吸をすると、ミゲルはライトを消し、リビングの明かりを頼りに廊下を引き返した。





 キッチンカウンターの影や、ダイニングテーブルの下、リビングのソファの裏。注意深く気配を探りながら、ミゲルは玄関側の廊下へ進路を曲げる。不意に、ミゲルが足を踏み締めたタイミングで小さく床が軋み、思わずピタリと動きを止める。後ろを振り返るが、景色には何の変化も生じない。ほっと一息溢し、ミゲルは目的の階段を見上げ──硬直した。


 手すりの隙間から、レーゲンがミゲルを見下ろしていた。階段の途中に座り込んでいたのか、座った状態のまま体だけ捻り、肩越しにミゲルを捉えている。絶句して身動ぎ一つ出来ずにいるミゲルをじっと見下ろすだけで、レーゲンはすぐには動かなかった。ミゲルの脳は混乱を極めていたが、その片隅ではこれまで物音がしなかった理由を察した。レーゲンはずっと、そこにいたのだ。


「──進捗はどうだ?」


 薄明かりを反射させる白い顔は、感情が読めない。まるで自分も仲間の一人であるかのように、レーゲンはミゲルに声をかけた。


「──……」


 しかし、ミゲルは人と話せない。故に、悲鳴ひとつ上げられない。同級生や家族、同盟の仲間とすら会話が不可能なのに、レーゲンに応えることなど出来るはずもない。


 徐にレーゲンが立ち上がる。彼は一段一段確かめるように階段を下りる。ミゲルはその度にリビングの方へと後退る。視界にレーゲンを捉えたまま、その一挙手一投足を注意深く観察し、何が起こってもいいように備える。


「……お前も災難だよな。どうせあの女のガキに連れてこられたんだろ? それでこんな目に遭わされたんじゃ堪らないよな」


 レーゲンにゆっくりと追い詰められ、ミゲルの背がとうとう奥の暖炉に当たる。それでも振り返らず、ミゲルは慄きながらもレーゲンを注視し続ける。歩みを進めながら語るレーゲンの声は抑揚なく柔らかい。まるで空気を撫でるような声でミゲルに寄り添うような物言いをしているが、その表情は削ぎ落とされている。凪いだアース・アイはミゲル同様、真っ直ぐ相手を捉えて離さない。


「なんか言えよ。それとも怖くて声も出せないのか? それじゃあ助けも呼べないな。──かわいそうに」


 暖炉やテレビ台を通り過ぎ、ソファの周囲を回るようにしてミゲルは後ずさる。レーゲンは暖炉の前に立ち止まると、空いている手をジーンズのポケットに入れた。手にしたナイフは持ったままだらりと下げている。すぐ傍のスタンドライトが、その動作を明確なものにしていた。


「特別に、お前と──あのチビには手加減してやろうか? 反抗的な女のガキには容赦しない。立ち向かって来るやつにはそれなりの……敬意を払わないといけないからな」


 足を止めたレーゲンに従うように、ミゲルの足も止まる。彼はもはや振り返って走れば階段を上がれるはずだ。なのに、足が満足に動かない。レーゲンから目が離せない。


「どうだ? 手加減してほしいか?」


 レーゲンの問いかけに、ミゲルは答えられない。首を縦にも横にも動かせない。力の入った口元と寄せられた眉、徐々に荒くなる息遣いだけが、ミゲルの恐怖を表している。それを読み取ったのか、レーゲンは小さく溜息を吐いた。


「仕方ない。──雑魚には手加減してやるか」


 そう言って小さく肩を落としたレーゲンは、ミゲルから視線を外す。その隙にミゲルがまた後退を再開し、一歩踏み出した時、──状況は一変した。


「──嘘だよ」


 レーゲンが、それまでの緩慢な動きとは裏腹の大きな一歩を踏み出した。突然詰められた距離に驚愕し、ミゲルは振り返って走り出す。もつれる自らの足につまづきそうになりながら、壁を伝い、反動さえ利用して速度を上げる。階段を上がる途中、手すり越しにレーゲンの姿を確認する。彼は最初の数歩を走っただけで止まり、口角を上げていた。そのまま、ゆったりとした動作でミゲルを追ってくる。


 背後から笑い声が聞こえる。本当に少年なのかと疑うほど、低く、喉を鳴らすような笑い声だ。高笑いしているわけでもないのに彼の声がやけにミゲルの耳に届く。


 ミゲルは階段を上がると、左の廊下へと走った。そのまま右手にある娯楽室の扉を開けて中に入り、ソファを飛び越えて反対側の扉へ飛びつく。取っ手を両手で掴み、息を整える。冷たい金属が汗で滑るのを感じながらそっとそれを開き、隙間から聞こえるレーゲンの気配に集中する。彼は階段を上がると、廊下を直進したようだった。足音がこちらに向かって来る。


 再び荒くなる息を何とか押さえ込み、ミゲルは扉をそっと閉じた。そして、再び入ってきた方の扉に移動する。レーゲンの足音が近づき、書斎の扉が開かれるのを聞き取ったと同時に、娯楽室を出て廊下を戻る。ミゲルはそのまま階段に繋がる廊下を通り過ぎて直進し、左右にあるうち左手の扉に手をかけてそっと開く。中に入って慎重に扉を閉じ、ライトを点けて部屋を見渡す。隠れ場所を探るため、焦りを浮かべた瞳を周囲に走らせる。


 奥にあるレースの天蓋付きベッド、壁一面を占めるほどのルーバー付きの扉、その向かいの机やシェルフ、鏡台、本棚……ミゲルは真っ先にルーバー付きの扉に手をかけると思った通り、それはクローゼットだった。中のハンガーには女性物の服が掛けられているが、その間に身体を突っ込んで扉を閉める。効果の切れた防虫剤の甘い香りが、古い衣の埃と混じってむっと鼻を塞ぐ。息苦しいが、そのまま蹲るように身を潜め、ライトを消し、ミゲルは必死に息を整えた。


 しばらくすると、微かな足音が再び階段を下っていくのが分かった。それから空気が静まり返ったのを確認すると、ミゲルはゆっくりとクローゼットから這い出した。


 一息ついても、語り合う仲間はいない。もう書斎で待っているのかどうかも分からない。レーゲンが書斎に長く留まらなかった事を考えると、発見されてはいないようだ。


 ミゲルは再びライトを点けると、改めて部屋を見渡した。白を基調とした家具やベッドシーツ、レースの天蓋、主色がロータスピンクのカーペット、鏡台──クローゼットの中身も含め、ここが女性の部屋だというのがミゲルにも分かる。鏡台には芯の焦げたアロマキャンドルが並び、引き出しの中に残された化粧品や化粧道具は色褪せて乾燥している。埃っぽい空気から、この部屋も長い間使われていない様子が窺えた。窓はもちろん塞がれている。


「ミゲル、ミゲル」


 唐突にミゲルを呼ぶ囁き声に、彼の肩が大きく跳ねた。ちょうどデスクに向かっていた足を止め、忙しなくライトを動かしながら声の出どころを探る。すると、ベッドから垂れる柔らかいシーツをめくり、その下からジョナスが顔を覗かせた。


「びっくりした、急に部屋に入って来るから……あの人、もうどっか行った?」


 ベッド下から這い出しながら、ジョナスは小さく笑う。ミゲルはほっと肩の力を抜くと、小さく頷いた。


「良かった。ずっと階段に居たっぽいから、ここから動けなくて……ライト点けるのも怖いし、急に部屋に入って来られたら嫌だし、ここに隠れてたんだ」


 ジョナスはそう言ってデスクを指差した。


「そこのライトは点くみたいだよ」


 デスクには、丸みを帯びたシェードのテーブルランプが置かれていた。ミゲルがスイッチを入れると、色とりどりの明かりが壁や天井に反射する。シェードは花柄のステンドグラス製で、それによる光の演出だった。


「ミゲルが無事で良かった。……ソフィは大丈夫かな、大きな音とかは聞こえなかったけど」


 ジョナスが呟く。ミゲルの出現で安堵したのか、ジョナスは殊更ミゲルに話しかけた。


「部屋はまだ確認してないんだ。暗いし、何があるかもよく分からなくて。……だからミゲル、一旦この部屋見てみない? それから書斎に行って、何かあったらその時ソフィに伝えよう」


 ミゲルは小さく頷くと、テーブルランプの光が弱いベッドへと足を向け、ライトを照らした。ベッドメイキングされた白いシーツがレースの天蓋越しに見える。中央に控えめな彫刻が施された木製のベッドヘッドには、レースのカバーがかかった枕が二つ並んでおり、ミゲルはふとそこを注視した。


 背後でデスク周りを探索するジョナスをそのままに、ミゲルはベッドへ近づく。天蓋を捲ってベッドに乗り上げると、枕の間に置かれた本に目を止める。これ見よがしにそこにある本を手に取ってベッドを降り、ミゲルは部屋の中央に座り込んでそれを置いた。


 それほど厚みは無いが、しっかりとしたハードカバーで装丁されている。静かに振る雨の中、少年の後ろ姿がぼんやりと浮かび上がるような絵が描かれ、ほとんど濃紺で描かれた雨の空には滲んだ白い筆記体で、見慣れぬ単語が書かれていた。


「何それ、絵本?」


 そんなミゲルに気づき、ジョナスが側に座り込む。そしてミゲル同様、表紙を覗き込んだ。


「えっと……これ、何て読むんだろう? リージェンカインド? いや、レジェンキンドかな?」


 ジョナスが白抜きの文字を読もうと試みるが、意味が分からない。ミゲルも首を傾げた。


 ”Regenkind”──表紙の文字にはそう描かれていた。見慣れぬ単語だ。訝しみながらページを開くと、その問題はすぐに解決した。


「あ、これ手書きで翻訳してある。外国語なんだ。──意味は、”Born of Rain”だって。表紙の絵から考えると、”雨の子ども”って感じなのかな?」


 ジョナスがそう言ってミゲルを見上げる。ミゲルは手書きの翻訳を指でなぞりながら小さく頷いた。


 さらにページを捲る。中身は挿絵と文字のページが分かれたシンプルなデザインだった。そして文字のページには全て、手書きで翻訳が足されていた。細く控えめな、流れるような文字だった。


「”小さな町の片隅に、一人の少年が住んでいました。その町は雨が降らず、もうずっと長い間乾ききっていました。──”」


 ジョナスが囁き声で、翻訳を読み上げ始めた。



 ──


 小さな町の片隅に、一人の少年が住んでいました。その街は雨が降らず、もうずっと長い間乾ききっていました。

 作物も育たず、空は雲ひとつない青。町の人々は食べるものもなく、ひとり、ひとりと倒れていきました。


 少年は毎日教会へ行き、雨を願って天に祈りました。けれども、町には雨が降りません。少年はそれでも希望を失わず、ひたすら天に祈り続けました。


 ある日、少年が家を出ると、道端で一人のピエロに出会いました。

 ピエロは誰もいない通りでジャグリングをしながら笑っていました。

 少年はポケットに残った数枚の銅貨を取り出すと、ピエロの前の、空っぽの籠に入れました。

 ピエロは笑いながら、感謝の涙を流します。

 少年はその場を去ると、教会で雨を願って天に祈りました。


 またある日、少年は通りがかったパン屋の前で、座り込んで泣いている少女と出会いました。

「どうしたの?」と尋ねると、少女は寒さと空腹で動けないと答えました。

 少年はポケットの中から最後のクッキーを取り出すと、そっと少女に差し出しました。

 少女は一枚返そうとしますが、少年は首を横に振ります。

 少女の目から涙がこぼれ、小さく笑顔がこぼれます。

 少年はその場を去ると、教会で雨を願って天に祈りました。


 また別の日、少年が風吹く道を歩いていると、薄着の老人が道端で凍えているのを見つけました。

 少年は声を掛けますが、老人には話す力もありません。

 ただ震えている老人に、少年は自分の上着を掛けてあげました。

 老人は静かに目を閉じ、涙を流します。

 少年はその場を去ると、教会で雨を願って天に祈りました。


 さらに別の日、少年が本を片手に教会へ向かう途中、ベンチに座る子どもと出会いました。

 気になって声を掛けると、子どもはどうやら大切な本を無くして悲しんでいるようでした。

 少年が持っていた本を差し出すと、子どもは目を輝かせて彼を見上げました。

 少年が微笑みかと、子どもは涙を流して喜びます。

 少年はその場を去ると、教会で雨を願って天に祈りました。


 そしてある日、少年がいつものように教会で祈りを捧げていると、徐々に眠気に襲われました。

 そのまま少年は横たわり、安らかに目を閉じます。

 少年はとうとう、力尽きて動けなくなりました。


 その時です。

 空が暗い雲に覆われ、風が唸り、ついにぽつぽつと雨が降り始めました。

 渇いた土地に染みていく雨に、町の人は歓喜しました。

 少年が呼び起こした喜びの涙が集まって天に届き、それが恵みの雨となったのです。


 それから町は、緑あふれる場所になりました。

 少年を思った町の人は、感謝の気持ちを込めて、町の中心に少年の象の噴水を建てました。


 そうして今でも少年は、町を見守っているのでしょう。



 ──



「なんか、ちょっと悲しい話だね。この少年は、報われないまま死んじゃったってことでしょ」


 読み終えたジョナスがぽつりと呟く。ミゲルも同意するように首肯した。


「これ、どこにあったの?」


 本を閉じたジョナスがミゲルに尋ねると、ミゲルは彼の手から本を受け取り、ベッドに向かって置いてあった時の状態を再現した。


「わざわざ置かれてたって感じだね。──ということは、これもヒントだったりするのかな? わざわざ翻訳してあったし」


 ミゲルは頷き、再び絵本を手に取る。それをデスクまで持って行ってひとまずその上に置き、机の引き出しを開けようとする。ジョナスが気付いて再び彼に声を掛けた。


「机の引き出しは空だよ。中身が抜かれたカードの箱があるくらいだったかな。──きっと、そういう趣味の人がいたんだね」


 ジョナスはポケットからメモを取り出すと、挟んでいた愚者のカードを手に取った。箱と照らし合わせると、デザイン的にその中身の一枚だと予想できる。


 その後クローゼットやシェルフも調べたが、絵本のように目立つ置かれ方をしているものは見つからなかった。二人はいよいよ本を抱え、書斎へ向かう準備をする。


「あ、待って」


 本を小脇に抱え、ミゲルが扉に耳を寄せた時、その背後に控えていたジョナスは小さく声を上げてベッドの下まで戻ると、シーツをめくって中を探る。戻ってきたその手には、ずっと大事に抱えていた銀のトレーがあった。隠れた時に置いたまま、失念していたようだ。ジョナスは再び両手で抱えると、ミゲルに向かって小さく頷いてみせた。




 シンとした廊下を慎重に進む。ミゲルは、先刻のようにレーゲンが階段に座り込んでいるのではないかと殊更注意深く階段付近を探ったが、彼の姿は無かった。下りたきり上がって来るような音も無かったので、二階にはいないはずだ。しかし二人は息を潜め、床が鳴らないよう、靴裏を床に添わせるように歩く。


 ロッキングチェアの手前の角を無事左に折れ、奥の書斎へと向かう。正面にある壁の鏡に、ミゲルの頭が映る。ジョナスは背が低いうえに屈んでいるため、ミゲル以外に映っているのは背後の廊下だけだ。


 書斎の扉を慎重に開く。音は無い。荒らされた形跡も無く、三人が退出した時と変わらずテーブルランプが点けられたままになっていた。扉を閉じると、二人は部屋の中を見渡した。人の気配は無い。


「ソ、ソフィ、……いる?」


 ジョナスが囁き声で呼びかける。すると程なくして、デスクの下からソフィが顔を覗かせた。


「アンタたち、遅いじゃない。待ちくたびれたわよ」


 いつからそこに居たのか、ソフィは立ち上がると両手を持ち上げ、大きく身体を伸ばした。そして、デスクの傍で腕を組み、歩み寄るミゲルたちを待ち構える。


「ずっと動けなかったんだ。ミゲルは多分……追われてたんだよね?」


 控えめに尋ねるジョナスに、ミゲルは緊張の面持ちで頷いた。追われていた時の恐怖が蘇り、小さく身震いする。ソフィは目を瞠った。


「逃げられたのね。やるじゃない」


 ソフィの言葉に、ミゲルは胸がすく思いだった。体の緊張がわずかに解れ、また脳内が落ち着き始める。ソフィはそんなミゲルの様子を知ってか知らずか、ポケットから一枚の紙片を取り出してデスクに乗せた。


「まず報告。アタシはあの後、チェステーブルの部屋を利用してバスルームに隠れたの。──ロッキングチェアがあったでしょ? あそこのすぐそばにあるドアの先よ。そこで、……これを見つけた」


 紙片には鋭い走り書きでこう記されていた。



 ”存在しないものを追求する奴は愚か者だ。

 愚か者は何も持たない。

 自分を賢いと思うなら知恵を絞れ。頭数揃えて考えろ。

 ただし、足を使って逃げることも忘れるな。

 ここには順を追ってお前らを導いてくれる奴なんかいない。”



 破ったメモに、黒いペンで記された文章。まるで台詞のようなそれは、レーゲンの口から発されたとしても違和感がない。つまり、彼が用意したものだろう。


「鏡にテープで貼ってあった。だからこれも──何かのヒントかも。単なる恐怖演出に見えなくもないけどね」


 ソフィはそう言って肩を竦めた。ミゲルとジョナスは顔を見合わせると、そのメモを端に寄せて例の絵本を乗せる。ソフィは首を傾げてその表紙を眺めた。


「何これ、……リージェンカインド?」


 ジョナスと同じ反応を見せると、ソフィは表紙を捲る。そして翻訳された中身に素早く目を走らせた。しばらく黙読の時間が続き、やがて本が閉じられる。ソフィは一息つくと、再び腕を組んだ。


「これが、アンタたちが見つけたヒント?」

「……だと思う。二階の向こう側の部屋で見つけたんだ。ベッドの枕元に意味深に置かれてたって──ね、ミゲル?」


 問いかけられてミゲルは頷く。するとソフィは再び肩を竦めた。


「正直、サッパリね。数字のヒントじゃないなら順番を表すヒントなのかもしれないけど……他の部屋も回ってどういうヒントがあるか突き止めないと、なんとも言えないわ」

「うん……確かに。……二階ってあと三つくらい部屋あったよね? 僕らが隠れた部屋の向かい側と、その反対側。とりあえず近いところから回ってみる?」

「──アイツ今どこにいるの?」

「下の階のはずだよ。物音全然しないから、……何してるのか全然分かんないけど」


 ソフィとジョナスが次々に話を進めていく。ミゲルは彼らの話し合いに耳を傾けながらも、絵本を手に取って表紙を眺めた。その視線を追ったソフィが会話を止めて表紙を見やる。そして、ふと思いついたように呟いた。


「ねえ、これ結局なんて読むのが正しいのかわからないけど……タイトルの最初の方、”レーゲン”とも読めたりしない?」


 ソフィの発言に、ミゲルとジョナスは目を瞠った。彼女の言う通り、”Regen”を”レーゲン”と無理やり当て嵌めることも出来る。そこで、ソフィは弾かれたように動き、引き出しを開けて中から例の名簿のようなリストが書かれた手帳を取り出した。該当のページを開くと、その字を指で縦になぞっていく。


「──待って。本のタイトルから借りたみたいな”レーゲン”って名前、このよく分からない名前のリスト、アタシたちにやってること……アイツってやっぱりこの家の子供なんかじゃなくて不審者なんじゃないの? 明らかに偽名だし、このリスト──もしかして、アタシたちがここで殺されたら、アタシたちの名前もここに載る、なんて事ないわよね?」


 逸るように述べられる恐ろしい想像に、ミゲルとジョナスは身震いした。ミゲルの脳内に、ザッピングのように複数の光景が過ぎる。一階の洗面台に置かれたプラスチックカップと歯ブラシ、ガレージの車や工具、一部だけ使われたキッチン──その他、使い古されたものとそうでないものの映像が入り混じって流れていく。


「アイツはこの家の家族を殺して、この場所を乗っ取った奴なのかも。だから、この家にはアイツしかいないのよ」


 ソフィの推測が、彼ら自身の精神を追い詰める。レーゲンは始め、こちらに特別興味が無さそうだった。こちらの言い分を聞き出し、「つまらない」とさえ言った。なのに気が変わったように今こうしてまんまと彼のテリトリーに閉じ込められ、弄ぶように彼の”遊び”に付き合わされている。


「こうなってくると鍵を開けたとしても、無事帰してくれる補償は無いわね……ノアもあっさり殺されてるし、油断出来ないわ」


 どんどん最悪の道を辿っていくソフィの思考に、ジョナスが竦み上がる。それに気付いて口を閉じると、ソフィは苦笑した。


「──悪かったわ、ただの妄想よ。とにかくアタシたちは謎を解かなきゃ殺されるんだから、悔しいけど今はアイツに従って抵抗するしかない。……今のは忘れて。ひとまず移動しましょう」


 ソフィは微かな咳払いを漏らすと、デスクに立てかけていた金属棒を手に取り、紙片をポケットに突っ込んだ。そしてミゲルとジョナスの肩を軽く叩き、扉へと向かって行く。二人は悲痛に各々顔を歪めながらも、ソフィに従った。




 娯楽室を通り抜け、三人は奥の部屋から探索を再開した。娯楽室を挟んだ書斎の対面には、二枚の扉がある。右の部屋に入ると、そこはどうやら子供部屋のようだった。サイズの小さなベッドと勉強机、コミックも混ざった本棚に、クローゼット。何より目を惹いたのは壁だ。これまでの場所はほとんど白か木目調だったが、この部屋の壁はセレストブルーに染められている。次いで目立つのは奥にある小さなテントだ。中で本やフィギュアが散らばっているが、全体的に生活感は無い。取り残されたような寂しい雰囲気が、その部屋には漂っていた。


 デスクやベッドにライトが見当たらないのでミゲルのライトを頼りに部屋を探る。テントを調べると、中に小さなランプを発見し、点灯する。テントが巨大なシェードとなり、やんわりとした明かりが部屋を照らした。


「どう考えても子供部屋ね。それにしては物が少なくて片付いてる感じするけど……ま、探索が楽でいいわね」


 ソフィがそんなことを言う。彼女は遠慮なくベッドのシーツを捲り、クローゼットを物色し、淡々と探索を進めていく。ミゲルとジョナスは呆気に取られながらもそれに倣い、彼女とは逆方向から攻め出した。


「あ!」


 テントに潜り込んでいたジョナスが小さく反応する。ミゲルとソフィがそちらを見ると、彼はテントから這い出して一枚のカードを掲げていた。


「これ、皇帝のカードだよ。数字は”4”」


 そう言って微笑むジョナスを脇目に、ミゲルは机の上に開いたまま伏せられていたノートをひっくり返す。するとそこに、見開き一杯のスペースを使って至極簡単な計算式が書かれているのを発見した。


 ミゲルは二人に向かってそれを掲げる。その計算式を見たソフィは、眉間に深く皺を寄せた。


「”9-3=”って……馬鹿にしてんの?」

「──つまりこの部屋の数字は、”4”と”6”ってわけだね」


 ミゲルが苦笑して答えを代弁する。そして、自分のメモにその旨を書き足した。


「数字以外のヒントは見当たらないわね……気になるところが無いなら、さっさと次に行きましょう。アイツが大人しいうちに、移動できるだけ移動しないと」


 ソフィはさっさと見切りをつけてドアに近づき、廊下を探った。ミゲルはノートを机に戻し、ジョナスは皇帝のカードを愚者のカードと重ねてメモに挟む。そしてソフィの合図に合わせて、三人は隣へと移動した。


 部屋に入ると、中央に鎮座するダブルベッドがまず入る。十中八九寝室だ。ベッドサイドテーブルのライトを点灯すると、シンプルな内装が浮かび上がる。塞がれた窓辺のコンソールテーブルには乾いた土だけが残された鉢植えが放置されており、その他には小さなキャビネットとクローゼット、ラウンドテーブルに椅子二脚が設置されている。こちらも、皺なくシーツが整えられたベッドからして生活の温度が感じられない。加えて、テーブルランプの脇に佇む小ぶりな置き時計も時を刻むのを止めていた。


 真っ先にそれに目をつけたのはソフィだった。文字盤を覗き込み、彼女は含み笑いを漏らす。


「この時計も止まってる。時間は八時十分ね。他に何もなければこの部屋の数字は”8”と”10”……で、”10”は考えにくいから、”0”ってことね」

「──それにしてもここ、一番物が少なくて、なんか冷たい部屋だね」


 メモに数字を書きこみながら、ジョナスがそんなことを呟いた。レーゲンの気配が一向に上がってこないからか、部屋を眺める余裕が出てきたらしい。ミゲルも家具のひとつひとつを確認しつつ、心の中で彼に同意した。


「察するに、ここの家族は三人ってとこかしら。夫婦と、割と小さな子どもがひとりとか──そんな感じ。ますますアイツの存在が異様に思えて来るわ。家族構成に組み込まれてる感じがしない」


 顎を摘んで思考を巡らせ、ソフィは怪訝そうに眉を顰めた。ジョナスは不安げにそんな彼女をやってから、部屋を見渡す。既に確認したクローゼットやコンソールテーブルの引き出しは空だった。光を受けて舞う埃が、乾いた空間に相乗効果を生んでいる。


 何やら考え込み始めたソフィのワンピースを、ミゲルが摘む。彼はドアを指差すと、珍しくソフィを促すような真似をした。


「分かってるわよ。次が二階の最後の部屋ね? その後はまた、一階に戻らなくちゃ。……アイツがいるってのに」


 ソフィは愚痴をこぼしながら、もはや慣れた動作で外の廊下を探る。そんな彼女の側で、ミゲルとジョナスは息を潜める。ソフィの背後で彼女が扉を開けるのを待つ──そんな動作が二人の定番となっていた。





 寝室を出てから目的の部屋に行くには、階段を通り抜けなければならない。三人の足取りも慎重を極めるが、階下からは物音ひとつ届いてこない。それがなんとも不気味に感じられ、三人は思わず足を止めて視線を交わした。


 しかし、レーゲンが動かないのは僥倖だった。数字やヒントを順調に回収している彼らにこの後待っているのは、数字の特定作業だ。追われながらでは考えもまとまらない。三人は、満足に息も出来ない静寂の中を進むと、右手のドアに手をかけた。


 その部屋は、これまでとは異なる様子の部屋だった。奥にあるクローゼットは開かれたまま放置され、中に掛けられた男性物の服や汚れた作業着が姿を覗かせている。クローゼットの床に乱雑に敷き詰められた大小のダンボールは、全てテープで梱包されていた。


 ベッドにはシーツの波が出来ており、それでいて生活感は無い。小さなデスクに雑然と置かれたままとなっているペンや手帳、ペーパーバック、コートハンガーに掛けられたジャケットとキャップ、ウェストポーチ……まるで突然生活が絶たれたまま放置されたような部屋だった。デスクにはテーブルランプも置かれていたが、点灯しない。全ての探索は、ミゲルのライトのみで行われた。


「なんか、不気味ね……いや、他の部屋も充分不気味だけど、ここは格別」


 ソフィがクローゼットを調べながらそんなことを呟く。デスクを物色するジョナスもそこはかとない恐怖を感じているのか、だんまりだ。そんな二人のためにライトを動かしながら、ミゲルは恐る恐るシーツに触れる。グレーの生地は表面が冷たく、指先を押し返すかのように硬く感じる。すると背筋がぶるりと震え、ミゲルはソフィの発言を理解した。


 あらかた探索をした三人だったが、この部屋には目ぼしい物は見当たらなかった。何も無いことを逆に怪しんで、ソフィが眉根を寄せる。しかし、何も無かったゲストルームや倉庫、ランドリールームなどを考えると、それらの部屋と状況は同じだ。他の部屋と異なるのは、安堵感が無いことだ。長居するうちに不気味さから、嫌な汗が滲み始める。心の奥底から湧き水のように恐怖がじわじわ溢れ出す。


 三人は誰ともなく視線を交わすと、早々にその部屋を後にした。息詰まる空間から廊下に出て、向かいの部屋へ避難する。──絵本を見つけた部屋だ。点けたままにしていたテーブルランプの明かりが、三人を暖かく迎えた。


「で、……これからまた一階に戻らなきゃいけないんだけど……」


 部屋の中央に輪を描いて座り込む。ソフィが腕を組んで口を開いたところで、ミゲルは彼女の腕に触れて首を横に振った。


「ん? 行きたくないって言うの? ──ミゲル、仕方ないのよ」


 それでもミゲルは首を横に振る。ソフィが訝しんで目を細めたところで、ジョナスがメモ帳とペンを取り出した。


「ミゲル、ここに書いてみて」


 ミゲルの目の前に白紙のページが開かれたメモ帳が置かれる。差し出されたペンを取ると、ミゲルはペンを走らせた。


「……一階はもう見た、バスルームとガレージで、ヒントは無かった……って、アンタ、もしかして一人で探したの?」


 ミゲルが頷く。ソフィは不敵な笑みを浮かべると、ミゲルの肩を叩いた。


「なによ、結構度胸あるじゃない。それじゃああとは、──コレを使って数字の特定をするだけね」


 ソフィはポケットから紙片を摘み出して目の前に翳し、軽く振ってカーペットの上に置く。ミゲルはその隣に絵本を置き、最後にジョナスがミゲルのそばに置かれたままのメモ帳を並べ直し、番号のリストが書かれたページを開く。材料は揃った。あとはヒントを読み解くだけだ。


「まず、選ぶ数字は四つ。今リストにある数字は四つ以上あるから正しいものを選ばなきゃいけない。その次は数字の順番。並びが分からないと鍵は開かない。──持ってるヒントは、本とこの紙切れだけど……どう思う?」


 ソフィが問いかけると、ジョナスが控えめに挙手をした。


「僕、ちょっと気になってたんだけど……絵本の少年が誰かに自分の物を渡した回数、四回なんだよね。ピエロと、女の子と、おじいちゃんと、子ども。だから、ここにヒントがあるんじゃないかって思ったんだよね」


 ジョナスが絵本を開いてページを捲る。ピエロ、少女、老人、子供──それぞれの絵が描かれたページを指差しながらソフィとミゲルに向けて視線を上げる。すると、ソフィは自分が置いた紙片の文字をなぞった。


「それならこの文章も、四行に分けられてるから……つまり一行にひとつのヒントが隠されてるかもね」


 ミゲルが頷く。ソフィは絵本を引き寄せて最初のページを開き直すと、メモ帳をジョナスのもとへ押しやった。


「いったんまとめましょう。ジョナス、隣のページに書き起こして」


 ジョナスがペンを手に取って頷くと、ソフィは絵本の文字に目を走らせた。


「まず、道端のピエロ。少年が渡したのは銅貨ね。──次は、パン屋の少女。少年が渡したのは……クッキー。その次が凍える老人で、少年が渡したのは上着。最後はベンチの子供。少年が渡したのは──本」


 ジョナスがペンを滑らせるのに合わせ、ソフィが淡々と告げていく。見つけた番号のリストが書かれた隣のページに、本から抽出した情報が書き足される。出来上がったものに顔を寄せ合い、彼らは三者三様に思考を巡らせた。


「──よく考えたら、それぞれ対応する部屋があるって感じしない? 例えばピエロは、チェステーブルがあった部屋。その愚者ってカードもなんとなく似てる気がするし、あそこってなんか、プレイルームって感じだったじゃない?」


 思考の沈黙を経て、メモ帳のそばに置かれた愚者のカードを手に取ると、ソフィは絵を眺めながらそう言った。絵本のページを捲っていたジョナスが目を瞠って顔を上げる。


「じゃあ、パン屋は──キッチンとか?」

「かもね。クッキーあげてるし、食べ物が関連してる」


 徐々にピースが当てはまっていくのを感じ、二人の声に喜びが気色ばむ。ミゲルも胸が躍り出すのを感じ、何度も首肯した。


「凍える老人は、上着をもらって、あったまって、目を閉じる──つまり、寝室。……どう?」

「すごい! じゃあ、最後の子どもは、子供部屋?」

「いえ、……どちらかというと本の部屋じゃない? 少年は本をあげてるし」


 二人は興奮したように早口で、──しかし声を抑えることは忘れずに、本やメモを見せ合いながら答えを見出していく。ミゲルも身を乗り出して二人の様子を眺めた。


「ということは、チェステーブルの部屋、キッチン、寝室、本の部屋──この場所で見つけた数字が正解って可能性が高いわね」

「そしたら、ええと……キッチンが”2”と”5”、寝室が”8”と”10”、チェスの部屋は愚者のカードだから”0”、本の部屋が”3”と”6”──この中のどれかだ!」

「ダイヤルに”10”は無いから、多分”0”って話だったでしょ、ジョナス」

「あ、そうだった。ごめん──あ」


 不要な”1”を塗りつぶそうとして、ジョナスは手を止めた。そして、まるで奪い取るように床に置かれた紙片を手に取ると、その文字を凝視する。


「”存在しないもの”──”10”だよ、ソフィ! ”10”はダイヤル錠に”存在しない”!」


 ジョナスがソフィの眼前に紙片を翳す。ソフィは目を見開いて瞳孔を細め、のろのろと紙片を受け取った。


「”存在しないものを追求する奴は愚か者”──つまり、追求しなくていい……”10”じゃない」


 呟くような声を漏らすと、ソフィは紙片をカーペットの上に戻し、走り書きを指でなぞった。


「”愚か者”は愚者。そもそもあの部屋にはこのカードしか無かったから、”0”は確定。”愚か者は何も持たない”とも書いてあるし、”0”っぽい。──絶対そうだわ」

「ということは──」


 ソフィとジョナスは顔を突き合わせて謎を解いていく。恐怖に怯えていたことなど忘れ、興奮を言葉に滲ませながらそれでも声を潜め、二人は互いの考えを出し合った。


「”頭数揃えて”って部分はわかんないな……次の”足を使って…”の文は、わざわざそういう言い方するのちょっと変だし、単純に足は二本だから”2”とか?」

「そうね。そもそも、この文章に数字を当てはめようとしたときに、選べそうな数字がそれしかないわ」

「じゃあ、”頭数揃えて”の文のところは?」

「残りの数字が”3”、”5”、”6”、──関連あるとしたら、アタシたちは三人……」


 三人は顔を上げ、互いに視線を交わし合った。ソフィは興奮を必死で抑えようとしているのか、口角がわずかに持ち上がっている。ジョナスは明らかに喜色を浮かべ、息を軽く弾ませる。ミゲルはそんな二人に小さく微笑むと、小さく頷いた。


「じ、じゃあ……ダイヤルの答えは──”8・0・3・2”ってこと?」

「待ちなさいジョナス、最後の文を見て」


 上擦ったか細い声で言いながら、ジョナスはメモ帳に数字を書いていく。しかし、ソフィは低い声でぴしゃりとジョナスを遮った。ペンを奪って、途中まで書かれた数字の羅列を塗りつぶす。


「あ!」

「よく見なさいよ。”ここには順を追ってお前らを導いてくれる奴なんかいない”──この文、妙な言い回しだと思わない? 数字とも関係ないし……それでもこう書いてあるってことは、”順番については言ってない”ってことなんじゃないの?」

「──本当だ、確かに」


 ソフィに睨まれたジョナスが呆けた声で呟く。そして、ソフィの手からペンを取ると、二人に向けて問いかけた。


「じゃあ、順番のヒントは?」


 するとミゲルが徐に、ページが開かれたままの絵本を手に取って閉じ、表紙が二人に見えるように回すと、カーペットの上に置き直した。そして、タイトルの白い文字を指先でトン、トンと一定のリズムで何度か叩く。察したソフィがジョナスのメモ帳を指差した。


「絵本の中で、少年が誰かに会った順番──!」


 弾かれたようにメモを見たジョナスが、自らが書いた文字を小さく口走りながら、新しい数字の羅列を書き始める。


「まずピエロに会って……”0”、次が女の子……”2”、その次におじいちゃんで”8”、最後が本の子ども……”0・2・8・3”!」


 ジョナスは数字を何度も丸で囲った。三人の心臓が期待に激しく音を立て始める。恐怖ではなく興奮で息が上がる。それを抑えるため、三人は同時に胸を押さえた。


「ね、ねえ……どうする? ──やってみる?」

「やるしかない。これ以外──考えられないわ」





 三人は不要な持ち物をその場に残し、部屋の扉を開いて廊下を窺った。相変わらずレーゲンの気配は無い。不気味な暗い室内がまたも三人の恐怖を呼び醒ます。ソフィを先頭に廊下を慎重に進み、壁越しに階段下を覗き込むも、誰もいない。まるで遊びに飽きて出て行ったかのように、レーゲンは存在を消している。家の中はすっかり静まり返っていた。


 階段を少し降りて手すり越しにリビングの方に目を凝らしても、それは同じだった。三人はそっと階段を下りると、玄関扉を囲む。そこにあるのは、取っ手を繋いだ太い鎖と、それを戒める真鍮の錠前だ。


「さっさとやるわよ」


 ソフィは錠前を手に取ると、鎖を鳴らさないよう注意しながらも、焦った手つきでダイヤルを回す。金属の小さな回転音とともに、上から順に数字が決められていく。ソフィは一番下にある最後の数字を定めると、錠前を強く引いた。


 ──ガシャン!


 けたたましい鎖の音が辺りに響く。──ただし、それだけだ。錠前は開かない。ソフィが何度引こうとしても、それは無情にも鎖の音を響かせるだけだった。


「なんでよ!」


 とうとうソフィは声を上げた。ミゲルとジョナスの顔も、驚愕に青ざめる。──”失敗は一回まで”。だが、この失敗が”どう許されるのか”分からない。三人は感情が反転したことで、冷静さを欠いていた。逃げるべきだ──なのに、その場から足が動かない。虚しく響く鎖の音だけの、息詰まる時間が続き、──その瞬間、背後から声がした。


「残念、──失敗だ」


 突然耳を震わせたレーゲンの声に、ミゲルとジョナスは肩を跳ねさせ、振り返って玄関扉に背を預けた。錠前から乱暴に手を離し、弾けるように振り返ったソフィは、レーゲンを目の前に冷や汗を垂らしながらも懸命に睨みつける。悔しげに歯噛みし、握った両手の拳は強く握られていた。


 レーゲンはそんな三人に目もくれず、ポケットに両手を入れたままゆっくりと玄関扉に近づいた。ナイフはどうやら腰の後ろのホルダーの中のようだ。ミゲルとジョナスは後退りながら扉から離れ、今度は壁に背を貼り付ける。ソフィも身構えながら体をひねり、レーゲンからわずかに距離を取った。


「……ふうん、──なるほどな」


 錠前を手に取って番号に目を通し、レーゲンはゆったりと呟いた。そして軽く笑うような息を漏らす。三人はそんな彼を囲むようにして、その仕草を凝視しした。


 ──その時だった。レーゲンが突然振り返り、ソフィの腕を乱暴に掴む。短く悲鳴を上げて何度も腕を引き、ソフィは抵抗を試みる。しかしソフィを嘲笑うかのように、レーゲンはその手を掴んだまま、廊下の奥へと足を進めた。


「ちょっと、何すんのよ! 離しなさい! 離して!」


 ソフィの絶叫と、彼女がバタつかせる足音がだんだんと遠ざかっていく。彼女の靴が床を引っ掻く。腕が壁に当たり、壁を掴もうとして失敗する。同時に、それとは対照的な、レーゲンの悠然とした足音が重なる。硬直していたミゲルとジョナスは目を合わせると、思い出したように足を動かした。


「ソ、ソフィ…ソフィ!」


 弱々しく口走りながら、震える足でジョナスが廊下を進む。ミゲルも同様で、走って彼女を助けに行くことが出来ない。力の入らない足では、かろうじてそれを動かし、のろのろと二人を追うことしか叶わない。


「離して! 離せ!!」


 ソフィの叫び声だけが辺りに響く。そしてそれはとうとう、物を蹴散らす音とともに扉に遮られ、篭った音と成り果てる。半ば引きずられるようにして、ソフィはゲストルームの向こうに姿を消した。


「やめて! どうしてアタシなのよ⁈」

「この異常者! ここから出して──!」

「やめて……パパ、 パパやめて……!!」


 扉越しの必死の叫びが、廊下に虚しく響き渡る。ミゲルとジョナスは廊下の手前で硬直し、奥を凝視する他為す術が無い。彼女を助けなければと心では思うのに、体がその命令を無視しているのだ。


 ガタガタと激しい物音と、意味を為さないソフィの叫びが二人の耳を襲う。レーゲンの声はひとつも届かない。


「いや、助けて!! ──ミ」


 そこで突然、ソフィの声が途切れた。否、”切り取られた”。一転して、辺りに静寂が戻る。暗闇が覆う廊下の奥で、何かが蠢く。やがて、闇の奥から、何事もなかったようにレーゲンが現れた。




 闇を纏い、確かな足取りでレーゲンがミゲルたちに歩み寄る。亡霊のような白い顔が浮かび、その目はじっと、二人を見つめている。やがてリビングのライトを反射して、その姿が浮かび上がった。


 手には血のついたナイフが握られ、赤い滴がひとつ、銀の刃を伝って床に落ちる。シャツの裾にはわずかだが血痕が散っていた。


 レーゲンはランドリールームの前で足を止めると、血を払うようにナイフを振った。


「──何してんだよ」


 まるで日常のひと時のような声だった。硬直する二人をじっと見据え、彼はミゲルたちの出方を待つようにその場に止まる。ジョナスの口から、恐怖に喘ぐ声が漏れる。それを片方の耳で聞きながら、ミゲルは固唾を飲んだ。


「お前らは……逃げるしか、脳がないはずだ──そうだろ?」


 煽るでもなく、嘲笑するでもない。ただ単なる事実を述べただけのような声音だが、それがまるで呪文のようにミゲルの脳内に木霊した。


「分かってるんだろ? なあ、……だったら、突っ立ってないでさっさと逃げろ」


 レーゲンの足が再び動く。今度は明確にミゲルたちを目指して歩を進めているのが分かる。二人は笑う足を叱咤して後ずさる。振り子だけが音を鳴らす置き時計を通り過ぎ、ソファの脇を抜け、部屋の奥へと為す術なく後退する。レーゲンはそんな彼らの足取りに合わせるように、ゆっくりと近づいた。


「足を止めるな。そうじゃないと──」


 ジョナスが暖炉の淵に躓き、小さく悲鳴を上げて転倒した。ミゲルもそんな彼に躓きそうになるが、なんとか踏みとどまる。離せなかった視線をジョナスに移し、ミゲルは彼のジーンズを掴んで立ち上がらせる。


「──俺が楽しめないからな」


 ジョナスが立ち上がった時、レーゲンが突然速度を早めた。ジョナスがとうとう叫んで走り出す。ダイニングを通り抜けて階段の方へ走るジョナスを、ミゲルが慌てて追いかける。レーゲンはそんな二人をやんわりと追い詰めていく。


 足音など気にしていられない。階段を早足で上がる疲労も感じない。足取りは軽いが、それは恐怖から来るものだ。先に階段を上がったジョナスが、女性の部屋へと駆けていく。ミゲルも無意識にそれを追う。後ろからは階段を上る足音と、床の軋みが聞こえる。全て聞かなかったことにして、二人は部屋の中へと飛び込んだ。


 息を荒げ、ジョナスが真っ先にベッドの下へと潜り込む。ミゲルは逡巡した後、再びクローゼットの中へと身を潜ませた。


 足音が近づく。無理もない。逃走先は彼にとっては明白だ。ミゲルは服に紛れて屈み込み、両手で強く自らの口を塞いだ。鼻から漏れる不自然な息すらも、ハンガーに掛けられた服に顔をうずめることで緩和する。あの腐ったような甘い匂いも、今は感じない。


 部屋の扉がゆっくりと開けられた。ミゲルはルーバーの隙間から外を窺う余裕すら無く、ひたすら布に顔を押し付けた。カーペットに半分吸われた足音が、部屋を移動する。


 ふと、近くでそれが止まった気がした。恐怖がそこにあるというのに、ミゲルは目を閉じてそれを無視する。そうして震える体を落ち着けようと試みたが、無情にもゆっくりと、クローゼットの折戸は開かれた。


 ミゲルは自分の体が浮いたような錯覚を覚えた。気づけばクローゼットから放り出され、レーゲンの傍で尻餅をついていた。腕がじんと痺れている。その感覚を知った時、自分が腕を掴まれ、引きずり出されたのだと脳の片隅で思い至る。


 立ち上がれないでいるミゲルに、レーゲンは手を伸ばした。胸ぐらを掴んで無理矢理立たせ、そのまま強い力で体を押す。ミゲルの足が縺れても関係ない。レーゲンは圧倒的な力で胸ぐらを掴んだまま歩き出し、ミゲルを壁に押し付けた。反動で、金属が床を叩いたような音が響く。ちょうどそこに立てかけられていたものが倒れたらしい。それは、ソフィが置いて行った金属棒だ。


「この部屋に入ったのは見えてたよ」


 無感情の声に反して、レーゲンの力は強かった。ミゲルは両手でその手を外そうとするも、びくともしない。ナイフを持つ手はだらりと下がっているが、それがいつ振り上げられるか全く予想できない。ナイフの刃先が光を拾うたび、心臓の奥が焼ける。ミゲルは必死に手に力を込めた。


「でさ、部屋で隠れる場所なんて限られてる。クローゼットなんてありきたりな場所、俺が探さないとでも思ったか?」


 瞳孔の開いた瞳がミゲルを射抜く。さらに壁に押しつけられたミゲルは、息苦しさに顔を歪める。レーゲンはそのままじっとミゲルを見据え、何かを待っているようだった。


 それを察したのか否か、ミゲルがわずかに首を横に振る。すると、首元を支配していた圧迫感が唐突に霧散した。壁に背を擦り付けながらその場に座り込んだミゲルは、生理現象で激しく咳き込みながらも困惑した。


「そうだよな? ──けどさ、お前がクローゼットに入ったところは見てないから、……今回はセーフにしてやるよ」


 予想外の言葉にミゲルは思わず顔を上げた。自分を見下ろすレーゲンと視線がぶつかり、肩を跳ねさせる。肺が勝手に空気を押し出し、胸がひくつく。レーゲンは怯え切った様子のミゲルに口角を持ち上げると、ゆっくりと扉へ向かい、静かに部屋から出て行った。




 ミゲルは、レーゲンのいなくなった部屋で、顔を覆って蹲った。何度も跳ねる心臓を、引きつる呼吸で押さえつける。そうしていると、ベッドの方からすすり泣く声が響き始めた。ジョナスだ。


「ごめん……ソフィ、ごめん……僕、僕……」


 何度もしゃくり上げながら、壊れた蛇口のような音を立てている。ミゲルは最後に深呼吸をすると、四つん這いでベッドへと近づいた。


「ごめん……ごめんなさい……」


 シーツを捲ると、うつ伏せに寝そべったまま腕で顔を覆い、か細く何度も謝るジョナスがそこにいた。ミゲルは腕を伸ばしてその背中に触れる。するとジョナスは、涙濡れの顔をゆっくりと持ち上げた。


 ミゲルを一瞥するだけで、再び腕に顔を埋めるジョナス。ミゲルは尚も彼の背を揺さぶり、シャツを掴んで引こうとする。それを何度か繰り返したところで、ようやくジョナスはベッドの下から這い出した。


「ミ、ミゲル……ソフィ、死んじゃったの? これからどうすればいい? 何が間違ってた?」


 ソフィに起こった事を信じたくないのか、ジョナスは全ての疑問をミゲルに投げかけた。そんなジョナスの背を摩りながら、ミゲルはゆっくりと首を横に振る。それと同時に、再びすすり泣く音が部屋の空気を揺らす。


 泣きながらも息を落ち着けようとするジョナスの肩を叩くと、ミゲルは立ち上がってデスクへ向かった。そこにはあの絵本が丁寧に置かれている。ゆっくりそれを手に取ると、ミゲルは再びジョナスの元へ戻り、彼に本を差し出した。


「──もう一回考えるの? でも、何が間違ってたのか分からないよ。それに、何も考えられない……」


 涙を何度も拭い、ジョナスは喉を詰まらせながらそう訴える。ミゲルもそれには同感だった。彼にとっても、謎解きは完璧だったからだ。──鍵が開かなかったのは、レーゲンの陰謀だと思いたくなるほどに。


 錠前が解けず、鳴り響く鎖の音を思い出してミゲルは途方に暮れる。目を閉じて天を仰ぎ、長く細い息を吐く。そのままぼんやり天井を見上げると、書斎同様、花の蕾のような形の小さなシャンデリアが彼を見下ろしていた。テーブルランプの光を受け、天井に影が伸びている。まるで現実逃避するかのように天井の模様を眺めるうち、ミゲルはあるものを発見した。


 ソフィの持っていた金属棒が倒れた位置のちょうど上、天井の部分に四角い枠線があった。吸い込まれるようにミゲルはそれに近づくと、真下から改めて注視する。それは、明らかに収納扉だった。


 ミゲルはそれまでの緩慢になっていた動作を忘れ、デスクから椅子を持ち出して真下に設置すると、金属棒片手に踏み台にした。そして、両足でバランスを取りながら金属棒のフックを天井に伸ばし、ラッチレバーの穴へ狙いを定める。何度か空振りしたところでフックは無事レバーに引っかかり、ミゲルはそれを慎重に引く。その頃には、彼の行動を不思議に思ったジョナスがそばに来て、椅子を支えていた。


「どうしたのミゲル、その扉って──」


 ジョナスが声をかけたところで、天井蓋に収納されていた梯子が斜めに伸びてくる。それと同時に、何枚ものカードがバラバラと、雨のように二人に降り注いだ。


「わ、何だこれ──タロットカードだ」


 頭を庇ったジョナスが、床に落ちたカードを一枚拾い上げる。それは、既に手に入れた愚者や皇帝のカードと同じデザインのタロットカードだった。ミゲルは困惑しながらカードを拾い集めるジョナスを横目に梯子を上がる。天井に到達すると、少し奥まったところに古びた木製の扉があった。部屋からの明かりが木目の陰影を際立たせ、不気味さを醸し出す扉に唾を飲み込む。扉の前には、落下しそびれて取り残されたのか、一枚のカードが落ちている。意を決したミゲルは、扉の前のカードを拾ってポケットに仕舞い込むと、梯子を登り切って扉に手をかけた。


 しかし、予想に反してその扉は施錠されていた。何度取手を動かそうとしてもびくともしない。今まで施錠された部屋が無かったこともあり、ミゲルは取ってに手をかけたまま呆然と立ち尽くした。


「ミゲル、……ミゲル? ねえ、何かあった?」


 声を潜めたジョナスの呼び声が、ミゲルの意識を呼び戻す。ゆっくりと取っ手から手を剥がし、梯子を下りる。部屋では、カードを集め切ったジョナスがミゲルを待っていた。


「何かあった?」


 ジョナスが再度問いかけるも、ミゲルは顔を横に振る。新しいヒントかと期待した二人は、落胆して肩を落とした。


「──そうだよね。……だってこんなの、全然わかりやすくないもん」


 ジョナスの言う通りだった。これまでは印や、あからさまな置かれ方をして目立つようにヒントが示されていた。しかしこの天井扉には、それを示す印は何も無い。悪戯に部屋を散らかしただけで、成果は何も得られなかった。


 ミゲルは、ポケットに入れたカードをミゲルに渡そうと取り出した。差し出そうとして──その手を止め、じっとその絵を見つめる。その目が徐々に見開くので、ジョナスもカードを覗き込む。そしてメモ帳を取り出してページを捲ると、自らの絵とカードを照合させた。


「それは、”隠者”のカードだね。一応、数字は”9”だけど……それがどうかしたの?」


 ミゲルはジョナスの声を遠くに聴きながら、カードの絵に目を凝らした。黒いローブを頭からかぶった白髭の老人が、長い杖を片手に、もう片方に掲げたランプで前方を照らしている──そんな絵だ。ジョナスは数字を告げたが、ミゲルが気にしているのはそこではなかった。


 ジョナスの手を掴むとそれを引き、ミゲルは絵本が置かれたところまで足早で移動した。本のそばに座り込んで忙しなく紙を捲り、とあるページを開くと、持っていたカードをその上に乗せる。すると、それを見たジョナスの目も大きく見開いた。


「おじいちゃんだ──」


 さらにミゲルは隠者の持つランプを指差し、次に、絵本の文字に指を走らせる。ジョナスの真剣な眼差しがそれを追う。そして最後に、ジョナスのメモ帳を取り上げてとあるページを開き、レーゲンの残した紙片を並べ、一つずつメモの単語を指差していく。ジョナスは口ずさむように逐一それを読み上げた。


「凍えたおじいちゃん、隠者のランプ、”存在しないもの”、リビングの、”1”──?」


 ミゲルは首を横に振り、再度隠者のランプを指差す。ランプというよりは、中の──炎の灯火を。


「──もしかして、そういうこと?」


 何かを確信したような反応を見せるジョナスに、ミゲルは強く頷いた。すると、ジョナスは彼の考えを代弁するように──または、彼の考えを確認するように、考察を整理した。


「絵本のおじいちゃんは寒くて凍えてて、少年から上着をもらって暖を取れた。僕らはそれをベッドのことだと思って寝室ってことにしたけど、そうじゃなくて──暖炉だったってこと?」


 ミゲルが何度も頷く。ジョナスは次に紙片を取り上げた。


「リビングの数字は”10”と”1”で、”存在しない数字”が選択肢にある。──ってことはつまり、鍵の数字は”0・2・8・3”じゃなくて、”0・2・1・3”だったってこと……?」


 ミゲルは大きく頷いた。ジョナスの見開かれた目が、徐々に潤み始める。彼は眉尻を下げ、声を再び震わせた。


「──もっと……早く気付いてれば、……ソフィは……!」


 悲痛な面持ちのジョナスに引っ張られつつも、ミゲルは静かに梯子の足元を指差した。視線を促されたジョナスがその先を見れば、そこには天井扉を開けた金属棒が横たわっていた。


 ミゲルは真摯な眼差しでジョナスをじっと見つめる。ジョナスは察したように、ひとつ頷いた。


「……そうだね。だって、こんなの全然気づかなかった。──ソフィが、助けてくれたのかもね……」





 そうして微笑みあった時、突然ドアが激しい音を立てた。二人の方が大きく跳ねる。息を呑んだ拍子に喉が使えたのか、ジョナスが耐えきれず咳き込んだ。慌てて口を塞ぐが、もう遅い。扉はゆっくりと開かれた。


「──なあ……逃げろって、言ったよな?」


 出入り口を塞ぐように立ち、レーゲンがじっと二人を見下ろした。表情も声も変わらず抑揚がないのに、怒気を含んだような凄みが彼を包んでいる。ミゲルが弾む息をそのままに、レーゲンの手元を確認する。ナイフの握られた手はだらりと下がっていたが、刃先は確かに二人に向けられていた。


「諦めたってことなら、──もういいよな?」


 レーゲンはぽつりとそう溢すと、二人に向かって大きく足を踏み出した。ミゲルはその動きを、まるでスローモーションのように捉えた。レーゲンが走りながらナイフを回し、逆手に持って振り上げる。隣でジョナスが叫ぶ声がする。


「待って!!」


 懸命な制止の叫びも虚しく、レーゲンの手が振り下ろされようとする。その瞬間、口元を引き締めたミゲルは絵本を手に取り、拾い上げながら勢いをつけてレーゲンに投げつけた。


 運良くそれは彼の顔面に当たった。レーゲンは素手の方で顔を摩ると、ミゲルを睨む。ミゲルは思わず身をひいたが、眉根を寄せてレーゲンを睨み返した。


「ねえ、僕ら答え分かったんだ! 今度は鍵を開けられる! ──だから、もう一回試させてほしい。……まだあと一回、チャンス残ってるでしょ?」


 レーゲンが動きを止めた隙に、ジョナスが必死に訴える。興醒めしたかのように表情を無くしたレーゲンは、顔をミゲルに向けたままジョナスを一瞥した。


「──へえ、答えが分かった……?」


 そう呟き、レーゲンはぐるりと部屋に視線を巡らせた。そして、天井から伸びた梯子に目を止め──わずかに細める。そしてその瞳は、導かれるように落ちた絵本と、絵本が当たってばら撒かれた何枚ものタロットカードに向けられた。


 レーゲンはそのまま時が止まったかのように黙り込んだ。恐ろしい沈黙が、ミゲルたちの耳を耳鳴りとなって刺激する。程なくして、レーゲンはわずかに姿勢を正した。


「──いいぜ」


 短く告げて踵を返し、扉へと歩いていく。そして振り向かずにさらにこう言った。


「やってみろよ」


 レーゲンが居なくなり、ミゲルたちは一様に大きく息を吐いた。ジョナスなどはギュッと目を閉じ、鷲掴む勢いでシャツの心臓部分を握っている。ひとときの安らぎが訪れたかのように見えるが、最大の試練はすぐに待ち構えている。これからレーゲンに、謎を解いた事を証明しなければならないのだ。


「だ、大丈夫だよね、ミゲル……?」


 心細さを隠せないジョナスが、不安げにミゲルを見上げる。ミゲルも彼と同様、不安に押し潰されそうだった。しかし、気の弱いジョナスを導けるのは自分だけだ。ミゲルは、心の奥で何かが萌えるのを感じた。そしてそれを確かめるように、ジョナスの手を取った。





 ジョナスの手を引いて、ミゲルは玄関へと向かう。階段から見下ろせば、玄関扉に背を預け、レーゲンが腕を組んで待ち構えていた。二人の足音に気づいて顔を上げたがそれもほんのひとときで、彼はすぐに興味なさげに視線を下ろし、目を閉じる。そんな、何をしでかすか分からないレーゲンに慄く足を空目に、二人はとうとう階段を下りきった。


 ミゲルは何も言わないレーゲンの横を通り過ぎ、鎖の繋がる錠前を手に取る。目の前の玄関扉が殊更巨大なものに思え、足が竦みそうになるところをなんとか踏ん張る。ジョナスを傍につかせ、ミゲルは震えるてでダイヤルを回した。


 ──ガシャン!


 ダイヤルを合わせたミゲルが錠前を引くと、鎖の音を立てながらシャックルが浮く。そしてそこに囚われていた鎖が解け、玄関扉の取っ手を支えにだらりと垂れ下がった。


 ジョナスが隣で安堵したような笑顔を浮かべる。ミゲルはそれを一瞥してから、相変わらずドアに背を預けたままのレーゲンを見上げる。──彼の瞳だけは、確かにミゲルに向けられていた。ミゲルは思わず身を引いたが、口を引き締めて錠前を彼に向かって掲げて見せた。


「……確かにな」


 レーゲンは呟くと、身体を捻って片方の肩を扉に触れさせたまま、ミゲルたちの方に身体を向けた。そして組んでいた腕を解き、扉に接していない方の手を使い、雑に鎖を解いていく。彼が鎖を引くたびに真鍮の取手が悲鳴を上げる。やがて鎖は全てミゲルの足元で蜷局を巻き、扉は解放された。


 ミゲルが取っ手に手をかけようとすると、乱暴な方法でそれは阻まれた。レーゲンがナイフを取り出し、両開きの二つの取っ手に、刃を押し込んだのだ。乾いた金属音が室内に跳ね、刃が取っ手の中でねじれる。鋼が噛み合う音とともに、扉の隙間がぎしりと軋み、それきり音が止んだ。


 思わずミゲルは手を引いた。ジョナスがレーゲンの行為に青ざめる。


「なんで? 鍵は開いたよ!」


 叫ぶような訴えにも、レーゲンは動じない。片手でナイフを持ったままジーンズのポケットを探り、多くの皺が刻まれて縒れた四つ折りの紙を差し出した。


「そうだな」


 レーゲンは一呼吸置いてから、口元だけ歪ませて薄く笑った。


「──”まずは”お前らの勝ちだ」


 再び絶望の淵に立たされた二人は、状況を飲み込めずに固まった。一向に相手の手に渡らない紙を、レーゲンはその場に放る。何度かひらめいて、音もなくそれは床に落ちた。


「なんでそんな顔するんだ? 俺は、”鍵を解いたらお前らの一勝”としか言わなかったはずだぜ」


 ミゲルたちは、地面に落ちたそれを呆然と見つめるしかなかった。記憶を辿れば、確かにそのような事を言っていた気もする。あまりの恐怖に、ここが最後のゴールだといつの間にか勘違いしていたのだ。


「拾えよ、ほら」


 レーゲンが顎をしゃくって促す。早まるジョナスの呼吸を背に、ミゲルはゆっくりと屈み──震える手で紙を掴む。レーゲンはどこか満足そうに片方の口角を持ち上げる。


 ナイフの刃がわずかに揺れ、銀の光がミゲルたちの顔を裂く。その幻のような冷たい輝きの向こうで、レーゲンが囁いた。




「──さあ、次の”遊び”だ」


































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