『星天』 天才囲碁少女、異世界で無双する
空兎81
第一章 星天
第1話 天上
生まれた時に『この子は十歳まで生きられないでしょう』と言われた。心臓に疾患があって治る見込みはないのだと。
自分の家の天井よりも病院の天井の方が見慣れている。来年のためにとランドセルを買ってもらったけど、おそらくこれを背負って学校に行くことは一生ないのだろう。
毎日が無機質で無気力で無感覚。鏡に映った私の目はクレヨンで黒く塗り潰したみたいにぐちゃぐちゃだ。
命があるから生きていて、それがなくなれば枯れるだけ。植物とあまり変わらない。
やりたいことなんて何もなくてボーッと廊下の長椅子に座っていたら、隣の源爺ちゃんがジュースを奢ってくれた。ちびちびオレンジジュース舐めてたら、遊びに来ないかと言われたのでついていく。
源爺ちゃんの病室には何人かのおじいちゃんたちがいて、木の板の上に白と黒の石を置いて遊んでいた。
これは囲碁という遊びだと源爺ちゃんが教えてくれた。縦横19本の線の木板の上、白と黒の石を代わりばんこに置いて、自分の陣地をより多く確保した方が勝ちだ。
源爺ちゃんが『やってみるか?』と言うので黒い石を掴み、板(碁盤というらしい)の上に置いていく。
自分の領地を広げていくだけでなく、相手の石を囲うと取れるらしい。そして、取った石は最後に相手の陣地を減らすのに使われると。ふーん、じゃあ石を取った方がお得というわけか。
追う。囲う。追い詰める。碁盤の端は自分の石が置いてあるのと同じ扱いだから隅っこの方が相手の石を取りやすいらしい。
最初はニコニコと優しい顔をしていた源爺ちゃんが石を置くたびにだんだんと顔が強張っていく。そして、白石が隙間なく黒石に覆われたのを見て『初めての対局でこの石を取ることができるのか』と驚いた顔をした。
『参りました』と言って源爺ちゃんが頭を下げる。それは負けを認める時に言う言葉らしい。勝った。私がこの勝負に勝ったのだ。
心の底から何かが湧き上がる感覚があった。顔が熱い。叫び出したいような泣きたいようなそんな感情が溢れ出してぐらりと身体が揺れた。
気付いたらその場で気絶していた。病弱な身体は心の揺れ動くエネルギーに耐えられなかったのだろう。看護師さんやお医者さんがたくさん駆けつけたらしい。
皆に心配をかけた。身体に負担をかけた。けどこの高揚感は忘れられない。
世界が色づく。この日初めて生きているっていう実感を得た。
で、次の日も私は源爺ちゃんの病室に行って囲碁を教えてほしいとせがんだ。『また、体調が悪くなったら……』と源爺ちゃんは渋ったけど、駄々をこねてゴリ押しした。
よし、今日も勝つ。次も勝つ。ずっと勝つぞ。
と思って臨んだ一局でズタボロに負けた。私の黒石は死にまくって盤面は白に征服された。
序盤を有利に進める形である定石とひと目で石の生死が決まる手筋、これらを知らないと囲碁で勝つのは難しいのだと源爺ちゃんは言う。経験者が真剣に戦えば初心者は絶対に勝てない。
悔しくて悔しくて二度と負けたくないから、その定石と手筋とやらを覚える。
3目中手は真ん中が急所で4目中手はすでに死んでいて、5目中手もど真ん中に置くと相手の石が死ぬ。
取っても取られる〝打って返し〟やどこまで逃げても取られてしまう〝シチョウ〟、助けようとすれば助けた石まで取られてしまう〝追い落とし〟、手筋だけでもかなりの数だ。それに加えて、序盤にはある程度研究された流れがあるらしく、定石を覚えないと相手に有利な盤面を作られてしまう。
源爺ちゃんはたくさんの本をくれた。それは源爺ちゃんが使っていたものらしく使い込まれてボロボロで、毎日自分の部屋で齧り付くように読み耽った。
本で学んで源爺ちゃんと対局して少しずつ定石や手筋を覚えていく。それでもなかなか源爺ちゃんには敵わなくてある日癇癪を起こした。負けて悔しくて碁盤に並べられていた石をめちゃくちゃにして泣き喚いた。
白と黒の石が病室に散らばる。碁盤に突っ伏してわんわん泣く私を源爺ちゃんは『この馬鹿者がッ!』と叱り飛ばした。びっくりして思わず顔を上げる。
源爺ちゃんは見たこともないような怒り顔で、『碁盤の前に座るのだ、綺星』と言う。怖かったので従う。
『碁とは古より伝わる品位と礼節を重んじる競技である。気に入らないといって結果をなかったことにしようとするなど言語道断である』
源爺ちゃんは碁盤の上に残った碁石を丁寧に片付けると碁盤をひっくり返した。真ん中に何やら変な形の凹みがある。
『この凹みを血溜まりという。かつて無礼な振る舞いをした者の首を斬り落とし、ここに置いたのが由来だと言われている。囲碁とはそれほどまでに礼儀に厳しく律されてきたものなのだ』
怖いことを言われて背筋が震える。今まで普通に使っていた道具の裏側がそんなことになっていたとは。
『勝ちにこだわるのは悪いことではない。だが、対局相手を尊敬し、結果に対して真摯に受け止めた上で、全身全霊を捧げて戦いなさい』
それが碁に真剣に向き合うということだと源爺ちゃんが言う。私は今まで単に勝ち負けの結果に一喜一憂しているだけだった。けれど私が思うより囲碁はもっと奥が深く神聖なものだったらしい。
『石をぐちゃぐちゃにしてごめんなさい』と謝って落ちた石をひとつひとつ拾っていく。源爺ちゃんの言葉が私の中に深く突き刺さった。
碁を打つ時の源爺ちゃんは背筋がピンと伸びて、隙がなく張り詰めた空気になる。普段歩く時には杖を使っているというのに囲碁を打つ時は姿勢を正す。
パチリと碁石を打つ音は大きくないのにやけに心に響く。源爺ちゃんの意思が上乗せられていて、それが盤上に反響するのだ。
その姿がかっこいいと思うようになった。だから私も真似をする。姿勢を正して一手一手に意思を込めて打つ。
勝ちたいという気持ちは消えなかった。でも正しく美しく堂々と碁を打つ。源爺ちゃんみたいに尊厳をもって碁に臨みたかった。
ぽつりぽつりと源爺ちゃんに勝てるようになってきた頃、『綺星はプロの対局を学んだ方がいいだろう。碁を生業としている本当の勝負師たちの世界に触れるべきだ』と言われた。
源爺ちゃんがテレビをつけると、ちょうど今一番大きな大会であるという名人戦が行われていた。
挑戦者であるという黒鶫月人という男はボサボサの黒髪で目の下も黒ずみ陰気で病弱そうな感じがした。親近感。
だけどそんなまっくろくろすけみたいな見た目の黒鶫はアホみたいに強かった。出鱈目に打っているとしか思えないのに石と石が繋がって黒が白を征服していく。
息つく暇もない激しい攻めが続いていく。戦闘力が桁外れに高かった。圧倒的な力で白をねじ伏せ、世界が黒に染まっていく。
相手の棋士は顔中から脂汗を流していて四六時中ハンカチで顔を拭っていたが、やがて軽く頭を下げた。投了したのだ。
黒鶫月人は名人になった。
黒鶫の碁に強烈な憧れを抱いた。世界にはあんな圧倒的な強さの打ち手がいるのか。
源爺ちゃんの厳かで神聖な碁とはまた違う、世界を染め上げる、強者であるからこその美しさがそこにはあった。
それから夢中で黒鶫の対局を盤上に並べた。碁盤に齧り付いて毎日毎日黒鶫の碁を覚えようと必死に並べた。
一ヶ月もしないうちに源爺ちゃんとそのお友達さんには皆勝てるようになった。源爺ちゃんは嬉しそうに、『本当に、本当に強くなったなぁ』と笑っていた。
源爺ちゃんたちの退院が近くなり、相手をしてくれる人がいなくなってしまうと落ち込んでいると、インターネット環境があれば世界中の人と戦えると源爺ちゃんが教えてくれた。お母さんとお父さんにおねだりしてタブレットを買ってもらった。囲碁のアプリの設定はお兄ちゃんがやってくれた。
『綺星が元気になったのはよかったけど、囲碁ってそんなに面白いの?』と言うお兄ちゃんにも囲碁について教えてあげた。『なるほど、陣取りゲームか。互いの色により多く陣営を染め上げたら勝ちなんだね。スプラトゥーンみたいなゲームだな』と、お兄ちゃんは自分のスマホにもアプリを入れた。囲碁は面白いよ。こんなにも心を燃やすことのできるものは他にはない。
画面で囲碁を打つのは最初はよくわからなかったけど、慣れるとたくさんの人と対局ができてどんどん楽しくなってきた。
毎日囲碁を打った。勝てる時もあった。負ける時もあった。
負けると悔しくて悔しくて身が捩れるようだった。負けた勝負を思い出して眠れない夜もあった。
何の感動もない人生だった。物を食べても硬いとか柔らかいとかがわかるだけで味がしない。暖かいとか寒いとかについても身体が震えるだけのこと。勝負に勝つということが初めての衝動だった。
明日が来ないかもしれない私に、碁は生きる活力をくれた。勝利することで生を実感する。だから全力で勝負に臨む。
命懸けで囲碁に打ち込んだ。
打って、打って、打って、私は十歳になった。でも病状は進んでいた。
一度でも発作が起これば戻ってこられないかもしれない。明日を迎えられるかもわからないと。囲碁を控えるようにと医者が言う。勝った負けたの極度の興奮は心臓に負担がかかるからと。
一日に一度1局だけ、囲碁を打つことが許された。それで終わり、明日は来ないかもしれない。
それなら真剣勝負がしたかった。相手の顔がわからないネット碁は形勢が悪いと突然回線を切られることがあった。そんなことに私の貴重な一局を消費してたまるか。
〝天上世界〟という囲碁サイトがあるらしい。入会費3000円でランキングに応じた賞金が支払われるが、下位20名は強制的に退会させられるという仕様から、本気の人しか登録しないという。
お母さんに頼み込んでアカウントを作成する。夜乃空綺星がこの盤上に在ってほしいからアカウント名は、〝星天〟だ。
毎日1局だけ打った。全身全霊を注ぎ込んで戦いに臨んだ。明日なんて来ないかもしれないんだから、今勝つ。今、目の前の敵を倒す。
勝つために生きている。生きるために戦う。
この高揚が私の生きている証しだ。
打って、勝って、打って、勝って、そして三年が経った。私は勝ち続けた。
1000勝0敗、それが私の三年間の戦績だった。気付けば『星天』はランキング1位にいた。お兄ちゃんが「綺星、SNSでめっちゃ話題になっているよ! ほら、『三年無敗のネット界の王者』やら『天上世界の本当に天上やん』やら『まるで黒鶫名人のような棋風。正体は実はプロ棋士!?』みたいに騒がれているよ! この間戦った『白黒パンダ』ってアカウント、プロ棋士だったんだって! 綺星、プロにも勝っているんだよ!」と教えてくれる。
プロ棋士に勝てたんだ。それなら、私はプロになれるのだろうか。
思い出すのは黒い月のような人。黒鶫の碁を初めて見た時の衝撃は今もまだ覚えている。
プロになれば黒鶫とも戦えるのかな。戦ってみたいな。自分の全てを出し尽くして頂点に挑んでみたい。本当の天上に至りたい。
でも夢を見るには私にはあまりにも時間がなかった。この三年間に四回発作が起こった。そのたびにお医者さんには今夜が峠かもしれないと言われた。私の命はいつ尽きてもおかしくなかった。
それでも戻ってきた。まだ勝ちたい、勝ち続けたい。まだ生きていたい。
私はまだ満ち足りていない。
そんなある日、一通のメールが受信ボックスに入っていた。〝頂上戦〟への招待だった。
頂上戦とはあらゆる大会の優勝者を集め、トップを決める大会らしい。天上世界でランキング1位になってから三年、トップを守り続けたことから特別に参加枠を獲得したのだと。
出たい。この大会に出て強い相手に勝ちたい。ありったけの力を出し切りたい。
これはリアルでの戦いだ。パソコン越しではなく対面で、しかも4局打たなければならない。最後まで体力が保つか、いや命が保つかわからない。
両親は反対した。なんの医療設備もないところに行って発作が起こったらどうするのかと。ただでさえ最近は体調が安定しないのに心臓に負担をかけるようなことはしないでくれと。
だけど大会に出ようと出まいと発作は起こるかもしれない。回数を重ねるごとに戻ってくるのが難しくなっている。明日終わるかもしれない命なのだから、後悔はしたくない。
両親は涙ぐみながら大会に出るのを許してくれた。わがままを言ってごめん。でも私は戦いたいのだ。
一生懸命生きたいのだ。
一生着ることはないと思っていた中学の制服を着て頂上戦に向かう。歩く体力はないから車椅子だ。電動だったけどお母さんが押してくれた。
家族揃っての出発だ。お兄ちゃんもついてきてくれた。なんか皆でお出かけすることなかったからお祭りみたいでちょっと楽しい。
会場に着いた。ガヤガヤと『あれが星天?』やら『あんな子どもがネット世界で最強の棋士なのか?』やら『車椅子に乗っている。病気か?』と聞こえてくる。注目されている気がする。
一回戦の席に着いた。相手のおじさんはアマ棋聖らしい。ジャラリと掴む碁石の感触が冷たくて心地よい。対面で囲碁を打つのは源爺ちゃん以来だ。緊張と高揚で胸が熱くなる。
背筋を伸ばす。胸も張る。姿勢を正すのは身体がしんどかったけど意地を張った。
礼節を重んじる源爺ちゃんはかっこいい打ち手だった。だから私もそれに倣う。
相手に敬意を払う。その上で持てる力の全てを注ぎ込んで相手を倒すのだ。
『おねがいします』と言って対局が始まった。碁盤に石を置く感触や対局時計を押す動作がしっくりこない。ネット碁とは違う感覚。
対面から相手の熱気が伝わってくる。表情、呟き、石を打つ音の強弱、それらの全てがプレッシャーとなり、私に降り注ぐ。だけど、それが心地よい。
ああ、これだ。こういう戦いがしたかった。真剣に戦うってこういうことなんだ。相手を感じ、相手を上回る。
命を懸けてこの戦いに勝つ。
打つ。攻める。打つ。囲う。上級者の戦いでは石が取られることは滅多にない。石に優劣がない囲碁では一手で大きく相手に差をつけることが難しいからだ。
だけど私は相手の石を取ることに全力を尽くした。相手の石を殺す。そのことにどうしようもなく胸が高鳴った。
攻めて、攻めて、攻め続ける。引きはしない。相手の息の根を止めるまで攻め続ける。
左隅の大石が死んだ。『あり得ないだろ……』と呟いて相手が投了した。
1戦目は勝った。私はまだ生き続ける。
2戦目はアマ本因坊だった。勝った。
3戦目は中国の代表だった。勝った。
決勝戦、相手はアマ名人だった。プロを除いて最も強い。
鍔迫り合いに臨むが躱される。距離を空け、のらりくらりとこちらの間合いには入ってこないのに、相手に地(自分の石で囲った空間)を作られる。強い。
おまけに胸が苦しくて息が詰まる。一日4戦するのは初めてのことだから体力的にもしんどい。
だけど泣き言なんて死んでも言わない。心が折れるのは命尽きる時だ。
緩めない。引かない。押し切る。
お互いの領地の境がなくなって地合いが細かくなっていく。寄せて寄せて攻めてそして最後、私の地が残っていた。白の地は35目半、黒の地は37目。私の1目半勝ちだ。
勝った、私が勝ったんだ。
「まさかアマ名人に勝ってしまうなんて、君は本物だね」
上から声が降ってくる。顔を上げると真っ黒な目をした人が無表情で碁盤を覗き込んでいた。
「どう見ても棋譜が黒鶫そのものだ、話題の〝星天〟の中身はお前だろって色んな人に問い詰められるから、どんな奴なのか見に来たんだけど、まさか女の子だったとは」
手に持っていた扇子をガジガジと咥えながら、和装の男が言う。マナーが悪い。モラルもなさそう。そんな常識外れのこの男を私は知っていた。
実際に会うのは初めてだ。けれども心の中で毎日対局していた。この三年でこの男が打った碁は全て並べた。
初めて憧れを抱いた人。目の前にいる男は囲碁界の頂点に立つ黒鶫月人その人だった。
「せっかくだから一局打とうか」
黒鶫が対面に座る。盤面の石を片付け盤上がまっさらになる。
黒鶫月人、今の囲碁界で間違いなく最強の棋士。最初に取ったタイトルが名人だったから黒鶫名人と呼ばれているが、今や7大タイトル全てを制覇している。
無敗でタイトルを保持していることから、〝欠けることのない望月〟と言われている。満月を背負った男、それが黒鶫月人だった。
あの日の憧れが目の前にいる。ずっと戦ってみたいと思っていた。囲碁界の頂点、世界で一番天上にいる人。でも私には時間がなくてプロにはなれないから立ち合えることなんてないと思っていた。
届かないと思っていた月に手が届く。神経が昂ぶり身体の奥底から興奮が湧き起こる。
今日憧れを殺す。月を落として私が盤上の頂点になるのだ。
「いいよ。命を懸けて貴方を倒す」
「命を懸けるの? じゃあ、君がそうするなら僕も命懸けで勝負しよう」
私が黒だ。『お願いします』と頭を下げて対局が始まる。
1手目黒、右上隅星。そして、2手目白、左下隅星。黒鶫がパチリと白石を置く。
なんだろう、ただ石を置いただけなのに空気が重くなる。今までも対戦相手から圧のようなものを感じたことはあったけど、これはその比ではない。まるでずっしりと上から岩がのしかかってきたかのようだ。これが強者と戦うということなのだろう。
痺れのようなものが身体を駆ける。じっとなんてしていられない。この衝動をどこかにぶつけたくて堪らない。
勝つ。勝つ。絶対に勝つ。貴方を殺して私は生きる。
3手目黒、右下隅星。4手目白、左上隅星。左下隅の白にかかる。白は受けずに右上隅の黒にかかる。私も受けずに左下白にかかる。両ガカリ、急襲だ。
場が急変していく。互いに受けを最低限に殴り合い。盤面は複雑になっている。
「死に場所を探しているのかと思った」
黒鶫がぼそりと呟く。黒鶫が打ち込んだ一手がパチッと光ったように見えた。右上の黒の目がなくなった。黒の大石を狙う強烈な一撃、
「っ、死ぬつもりなんてないけど」
「だろうね。今から死ぬって奴が打つ碁じゃない。あまりにも生気のない顔色してるから人生最後の一局を望んでいるのかと思ったんだけど、そういうわけでもないんだね」
追撃がくる。流星群のように次々と放たれる光り輝く一手が私の黒石を追い詰めていく。
受けきれない。戦況は不利。なんとか盤面をひっくり返したいけど、急に胸の苦しさに襲われ思わず咳き込む。まずい、発作の前兆だ。
「ゴホッ、ゴホッゴホッ」
「どちらにしろ君は死んでしまいそうだね」
お墓参りにはちゃんと行くよ、と黒鶫が言う。倫理観やモラルが欠如しているんじゃなかろうか。でもくやしいかな。囲碁はアホみたいに強い。
咳き込みながら展開を読む。3の七……、いや、17の二に打たれると本当に黒石が死ぬかもしれない。やっぱりここは手を入れるしかない。だけど、そうすると地合いが……。
咳き込み過ぎて目が潤む。視界は滲むが思考は止まらない。
黒石を生かす、それはただこの場を凌ぐだけの手だ。死なないように生きているだけ。
違う、違う。そんな僅かな延命のための一手を打ちたいのではない。緩めるな。振り絞れ。
最後の瞬間まで自分の命ギリギリを込めた一撃を放ち続けるんだ。
バチンと指先が鳴る。電流のような痺れが爪の先を掠め熱を帯びる。
2の九ハサミ、白を攻める一手。手を抜いた右上の黒は死ぬかもしれない。殺せるものなら殺してみろ。その前に左辺の白の息の根を止めてやる。
攻める。攻める。攻める。ひと呼吸の間も与えず攻め続ける。
胸が苦しくて、もやがかかったかのように視界がぼやける。周りの声も聞こえなくなっていく中、碁盤だけが鮮明に見えた。
なんだろう、苦しくて呼吸もままならないというのに指先に力が籠る。石を持つ手が熱い。
見える。戦況が、戦場が、変わりゆく世界が見通せる。
盤上が光り輝いている。
もうどちらが勝っているかなんかわからないくらい盤面は複雑となっていた。あちこちで鍔迫り合いと殺し合いが発生している。
だけど次に打つべき手がわかる。この世界の行く末がわかる。
私は天上に至った。
黒鶫が放った一手が強烈な光を放つ。勝負をかけた黒鶫の渾身の一手。
だけど、その一手は読めていた。
チャリと碁笥から黒石を取り出す。今まで創り上げてきた世界を破壊する一手。これが私の最高手。
碁石を盤面に放つ。瞬間、指先に稲妻が走る。石だ。私の打った石が輝いているのだ。
不思議な感覚だ。盤上の石がまるで夜空に浮かぶ星のように煌めいている。
光は伝播し道筋を作る。これが天上の視点、終局図まで見えた。このまま互いに最善手を打つと、……私の半目勝ちだ。
勝った。勝ったよ。黒鶫を倒した。月を堕とした。
ぐらりと視界が揺れる。脳みそが揺さぶられて身体が傾く。起きていられなくてそのまま前方に倒れ込んだ。
ああ、終わり。タイムリミットか。十歳まで生きられないと言われた身体がついに限界を迎えたのだ。
勝ったのに。名人を倒したのに。月を捕まえたのに、私には時間があまりにもなかった。
悔しい。悲しい。苦しい。つらい。これで終わりなの。
生きたかった。せっかく輝く世界を手に入れたのに、この世界で生きていたかったのに神様は許してくれなかった。
何も見えない、何も感じない。ゆっくりと意識が消えていった。
暗転、
目が覚めた。周りが明るい。私はどこかに寝そべっている。
さらさらと木漏れ日が降り注ぐ。背中が硬い。視界に広がった景色を見るに、たぶん私は大きな木の根元で眠っていたのだろう。
ここはどこだろう。確か黒鶫との対局の途中で発作が起こって、勝負には勝ったけど意識が遠のいた。死んでしまったと思ったけどどうやら助かったようだ。服装は制服のままだ。だけどどうして病室ではなく外にいるのだろう。
のそりと身体を起こす。だけどそこで思わぬ光景が目に入ってきた。
「……ここどこ?」
石畳の道や石造りの建物に赤い屋根、たくさんの屋台。行き交う人々はダボッとした服に身を包み腰回りを帯で留めている。
なんとなく現代っぽくないところだ。日本ぽくもない。中国? でもちょっと違うみたい。それにしても何故私はそんなところにいるのだろう。
ごつごつとした感触の大木に手をついて身体を起こす。その時私は自身の異常に気がついた。
あれ、動く。苦しくない。
手を握ったり開いたりその場で跳ねてみたり、嘘のように身体が軽い。呼吸ひとつするだけでも胸が苦しくなったというのに何も感じない。
目が覚めたら知らないところにいるし、身体は元気になっているし、訳がわからない。
だけど私は生きている。そうか、私は生きているのか。
さらさらと風が木の葉を揺らし、髪が靡いた。
見知らぬ街並み、生活に支障のない身体。誰かの気紛れか神様の悪戯か、私、夜乃空綺星は異世界で新しい人生を得たらしい。
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