愚楽、アイスをもう一度(19世紀)

 ロンドンの夏は、珍しく青空だった。

 馬車が埃を巻き上げ、人々は汗をぬぐいながら歩いている。

 愚楽もその一人だった。

「……暑い。文明が進むほど暑くなるってのは、皮肉だな。」


 角を曲がったとき、金属の箱から白い煙を立てる屋台が目に入った。

 少年が元気に叫んでいる。

「アイスはいかがです、ミスター!」

 愚楽は立ち止まる。

「アイスだと? まだあったのか、あの貴族の遊びが。」


 彼の脳裏に、遠い記憶がよみがえる。

 ――ヴェルサイユ宮殿。ルイ十四世の食卓。

 銀の皿に盛られた氷菓を、貴族たちが神妙な顔で味わっていた。

「これぞ文明の頂点だ」と胸を張りながら、誰ひとり笑っていなかった。

 愚楽はその冷たい皿を見て、思った。

> 「氷まで気取るのか、フランス人は。」


 それ以来、冷たい菓子は彼の中で“権力の味”だった。


 だが今、目の前の屋台では、

 少年が汗を光らせ、笑いながらアイスを配っている。

 客たちも笑っている。

「おじさん、食べてみる? 一ペニー!」

「……一ペニー? あの宮殿では一口で三日の給金が吹っ飛んだぞ。」


 半信半疑で、カップを受け取る。

 白くて柔らかい、雪みたいな菓子。

 愚楽はじっと見つめた。

「湯気も立たねぇ、音もしねぇ……死んだ飯か?」

 少年が笑う。

「食べたら生き返りますよ!」


 スプーンでひとすくい。口に運んだ瞬間――。

「つめたっ!」

 思わず跳ね上がり、頭を押さえた。

「脳が凍る! 悪魔の罠だ!」

 少年は腹を抱えて笑う。

「それがうまいんですよ!」


 痛みが引いたころ、舌の上に甘さが広がった。

 牛乳と砂糖のやわらかな味。

 愚楽は目を見開き、そして笑った。

「……あまい。しかも、自由な味がする。」


 周囲の客がこちらを見て笑っている。

 誰も高貴ぶらず、みんなで同じようにスプーンを動かす。

 その光景を見ながら愚楽は言った。

「なるほどな。昔の氷は、人を黙らせるもんだった。

 けど今の氷は、人を笑わせるんだな。」


 少年がきょとんとする。

「なんか難しいこと言ってません?」

「難しくねぇ。つまりうまいってことだ。」

「もう一個どうです?」

「当たり前だ! 今日は二個食う日だ!」


 二つ目を食べながら、愚楽はぽつりとつぶやく。

「冷たいのに、心があったかくなる。

 こいつ、飯テロ界の革命児だな。」


 少年は首をかしげる。

「なんです、それ?」

「気にすんな。偉い人が真面目に食ってた時代より、

 お前みたいに笑って売ってる今のほうがずっと偉いよ。」


 アイスが溶け、指に甘い滴が垂れる。

 愚楽はぺろりと舐め、満足げに言った。

「溶けても笑えるもんは、本物だな。」


 日差しの中、少年の屋台から笑い声が広がっていく。

 風が吹き、街角に甘い匂いを残した。

 愚楽は帽子をかぶり直し、歩き出す。

「……人生、たまには冷たくていい。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る