第ニ話
足元に堆く積まれた木材には、魚油が染み込ませてあった。これで一気に、炎が私を包み込むことだろう。勢いよく頭を振って、顔にかかる髪を振り払う。見よ、猛虎国の者達よ。雪蘭の最後の顔を見よ。目を見開くと、一片の雪が睫に舞い落ちた。天を仰ぐと、厚い雲の間から大きな雪片が蘭の花びらのように降って来る。初夏の祝いを間近に控えた、汗ばむ陽気だというのにだ。
「雪だ!」
広場のどよめきは、火を点けろと命じられた牢役人を動揺させる。季節外れの雪……、これは「雪蘭」を殺すなという天意ではないか。天意を無視した猛虎国に、災いが降りかかるのではないか。各所で、そんな呟きが聞こえた。
剣のように天に聳える我山が、霞の向こうに見える。生まれ故郷の我山に、あの方の魂と一緒に帰ろう。ひび割れた唇で溶けた雪の結晶を味わうと、故郷とあの方への恋しさが胸に迫って来る。
あぁ、一度で良いから、我山に戻りたかった。あの山から離れて、十五年。雪深い我山で生まれたのに、長らく砂漠を放浪した。やっと安住の地を得たと思ったが、最後はやはり炎の地獄で息絶えることになるとは。これが私の運命なのだ。
「早く、早く、火を点けぬか!」
孟海の怒声に驚いた執行人が、松明を投げ捨てる。同時に、私の視界は真っ赤に染まった。肌が、髪が焼け焦げる匂いが鼻腔を塞ぎ、意識が遠のく。女の悲鳴が遠くで聞こえた。妾姫達か、それとも自分自身の声か。
「
私は息が続く限り、あの方の名を呼び続けた。斬銀、斬銀、斬銀、私は貴方が恋しい。この身体、全てを貴方に捧げたい。孟海よ、さぁ見るが良い!愛しい女が燃え尽きる様を見るが良い。孟海の顔を見据えてやろうと大きく目を見開いた時に、懐かしい顔があった。幻覚なのか。私は一度、瞬きをする。
「
「
銀高は素早く縄を切り、焼けただれた私の体を銀色の毛皮で包み込んだ。この匂いは、白牙狼。これに包まれれば、深い刀傷でも直ぐに癒える。銀高家に伝わる秘宝の衣。
「雪香」と幼き頃の名で呼ぶのは、あの砂漠を共に放浪した仲間達だけ。霞んだ視界の先には、背が異様に高く漆黒の肌を持つ男が、七色に輝く剣で大勢を相手に立ち回っていた。
「雪香様、ムモも一緒です。助けに参りました」
「ム…」
私の声は、炎に焼かれてしまった。抱きしめられたムモの胸元で、「ビンディ」と呼ぶ懐かしい声を最後に、私の意識はどこか暗く、深い闇に引き摺り込まれていった。
次に気付いた時には、私は雪山にいた。いつも遠くに眺めていた我山にいる。ムモは私を背負い、馴れない山道を銀高に続いて登っていた。
「ム…、モ」
気配に気付いたムモが、そっと私を雪の上に降ろした。
「ビンディ、痛いか?」
こんなに悲しそうなムモの顔は、初めて見た。砂漠の旅では、いつも笑っていたのに。心配かけまいと無理に微笑もうとしたが、口元がうまく動かせない。そんなに火傷が酷いのだろうか。指先で確かめようとするも、そこに感覚はなかった。仕方なく私はただ、首を横に振った。
不思議と痛みはなかった。我山族の皮膚は強く、また再生能力が他族より優れていると聞いたことがある。それとも、この白牙狼の衣のお陰か。
「そうか、良かった」
銀高は、あの時と変わらず顰めっ面をしている。砂漠の旅で母に見せた笑顔は、その後、誰かに向けられることはあったのだろうか。私を見下ろす二人の顔を見ていたら、なんだか子供の頃に戻ったような安堵感に包まれた。このままここで死ねるなら、それも良い。
「雪香様、斬銀は生きております。どうか、お気を確かに」
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