第11話 許嫁と、幼馴染が

「おわっ……たっ………………」


 なが、かった…………。


 数学以外にもめちゃめちゃ大変だった。

 他はまだ良かったけど、余裕で範囲とか違うからクソほど難しかった……。


 それに、休み時間に絶え間ない同級生たちの応酬…………。

 どんだけ話しても人が絶えない絶えない。

 一人が満足して帰っていたらその後ろに五十人くらいが待ち構えてる絶望感たるや。


 初めての学食もトイレも教室移動も全部、大名行列かってくらい人がついてきていた。トイレだけは勘弁してほしかった。


「お疲れ、達哉」

「あ、友二……」


 イスの上でぐてーっとなってしまった俺に、話しかけてくれる友二。


「お疲れ。よくがんばったなっ……!」


 と、ぐっと親指を立ててくる。


「おー……お疲れ……できればどうにか俺を救い出して欲しかったな……」


 と、俺も親指を返しておいた。


「あっははっ、ごめん。でもまぁ、今回のことは達哉にもプラスになると思うよ」

「え? どゆこと?」


 微笑んでくる友二だったが、意味がよくわからない。


「まあ、あることないこと色々聞かれたわけだけどさ、少なくともその誤解を正す場にはなったでしょ」

「まあ……うん。なぜか俺が国体全国チャンピオンになってたって噂があったのはほんとにビビったけど」

「あはっ、まあそんなこともあるよ。転校生にはそういうものもつきものじゃんか」

「全国の転校生すげぇ……」


 まあ、確かにちゃんと受け答えしたおかげで、放課後の今には人がまばらになってきた。


 聞くところによると、なぜか昼休み後までに『さすがにこれ以上は失礼のないように接しよう』なる不文律が出来上がっていたらしく(情報源は友二)、それ以降にムリに話しかけられることはなかった。


 まあ、別に普通に話しかけてくるにはありがたいし、嬉しいのだけど、みんな何か宝石を眺めるような目と声色で話してくるのだから困るのだ。


「達哉さん、お疲れ様でした」

「あ、漣華さん、どうも……」


 この一日、漣華さんとはあまり話せなかった。

 だから、やっと話すことができて、かおがへにゃりと溶けてしまう。


「あ…………」


 すると漣華さんは、すこし頬を染めて、意外そうな顔をしてこう言った。


「そんな顔、されるんですね……」

「あ……変な顔、してましたか」

「いや……何か、意外だな、と」

「そうですか?」


 すると、漣華さんはふ、と顔をまた背けてしまった。


「それでは、じゃあ、帰りましょうか」

「あ、はい」


 そそくさとバッグを持って立ち上がる漣華さんと、それに続く俺。


「じゃあね達哉。また明日」

「あ、じゃあね友二」


 顔だけ振り返って手を振って、俺は漣華さんに続いて教室を出た。



「コソコソ……すごい、ホントに許嫁なんだ……」

「コソコソ……うん、すごいお似合い……」

「コソコソ……宇藤さんって背高いのね……」

「コソコソ……体格もすごい……守られてるんだわ」


 …………そんな感じで、校門へと向かう途中も楽ではないらしい。


 心のなかでそっと鼓膜に蓋をして、全力で聞かないふりをして歩く。


 よし、別のことを考えろ。


 あー、今日の夕飯なにかなー、母さんの作った……あ、ちげぇもう別の人の家なんだ。変な感じだな。週末は絶対元の家帰ろう。


 よしよし、いい感じに気を紛らわせている。


 電車で家まではどれくらいだっけ。さっき調べたところだと、二時間ないくらいだったような。


 まあ土日のお出かけとしては普通に行けるか。あとは交通費か、バイトとかはやっぱり始めたほうがいいのかな。


「達哉っ?」

「え?」


 何?

 今、誰かに呼ばれた?


 友二? じゃない。こんな高い声じゃないような。

 漣華さん? でもない。こんな、俺を馴れ馴れしく呼ばない。

 じゃあ、誰?


 さっき挨拶してきた中の人か。


 いや違う。


 違和感。


 もっと、そう。

 俺の、表層にいる人。

 ここにいるはずがなくて、だからこそ頭が追い付かない、あの。


「朝海?」


 口をついて出たとほとんど同時に、後ろを振り返った。


 そして見た。


 大きく目を見開いて、ありえないというように、力の入っていない指を、なんとか重力に負けない程度にこちらに立てているその姿。


 熱くなった。全身が。


 そしてその服装は、見たことのある――いや、見慣れたユニフォームで。


 俺の学校の、強豪テニス部の公式ユニフォーム。


 朝海がレギュラーになった時、本当に久しぶりに嬉しそうに連絡をくれたことがあったっけ。


 そういえば、他校の部活が来るから失礼のないようにと、友二が言っていたような。


 そんなありきたりな思考が、濁流のように流れてきて。


 俺は、動けなかった。


「達哉? 達哉だよね?」

「え、あ」


 口を開こうとした。でも、答える間もなく。


 朝海は、俺の直ぐ側へ駆けてきていた。


 ふわりと動くショートボブの髪の毛。

 その香りで、どくんと心が跳ねたような気がした。


 朝海は矢継ぎ早に口を開く。


「な、なんでここにいるの? あ、そっか、転校」

「あれ、部活って、朝海のテニス部のことだったんだな」

「そ、そうだよ。うん、だから――――」


 互いに、焦りに焦った言葉の交わし。


 焦点の取れていない目が空中できょろきょろと暴れる。


 うまく整合性も取れていない会話をして。


 ぎゅっ、と心臓が張り裂けそうなほどに痛かった。


 そんな中で、朝海の顔が、俺の横にいる彼女へと向いた。


「タツ、この、人は」


 震えるような手だった。


 震えるような声だった。


 言葉も紡げないほどに、朝海らしくなくひどく動揺する声色。

 そして、今さっき出た言葉質問を後悔したかのような顔をした。

 何かを察して、それ回答が指し示すことを、恐れて。


 漣華さんは、ぺこりと頭を下げた。


「はじめまして、安曇屋漣華と申します。あなたは……?」

「っ、許嫁の、ひと?」

「は、はい、そうです、宇藤達哉さんの」

「っ、っ」


 がくん、と視界の中の朝海が揺れた。


 唐突に重力を失ったかのように。


 そしてふるふると震える手が、俺の方に伸びて。


 もう、果てる直前の小鹿のように。


 ただ、ただ遠慮がちに。小さな力で。


 俺の制服の袖を掴んだ。


「なん、でっ」


 光の映らない目が、そこに見えた。


 心臓が、激しく鼓動した。


 やめろ、やめろと頭がうるさく唸った。


 何に否定しているのか、もう分からないのに。


「達哉、さん? この人は」


 隣の漣華さんが、困惑した様子で話しかけてくる。

 その言葉がやけに遠く聞こえて、回答に時間を要した。


「、ああ、この人は、俺の幼馴染で。朝海っていうんだけど」


 そう言うと、ふ、と朝海は頭を下げた。


 俺の言葉を遮るように、ぐいと裾を引っ張って来て。


 そして、俺には頭頂部しか見えない顔を、漣華さんのほうに向ける。


「あの、少し、タツと話ししていいですか」

「えと、ご友人、ですよね」

「はい」

「大丈夫、ですけど…………」

「ありがとう、ございます」


 俺の袖を。

 今度はぐっと掴んできて。


「ごめん」

「え?」


 その謝罪に、うまく反応ができない。


「ごめんっ、身勝手って、分かってる」

「あ、朝海……?」

「あんなことしてさ。馬鹿だったって分かってる」

「いや、あれは別に」

「わたしの事は、タツはなんとも思ってないって分かってる」

「いや、幼馴染だろ、そんな」


 ぎゅっ、と。


 俺の袖を、小さな手、それでも鍛えられた分厚い皮膚で握ってきた。


「おねがい、ちょっと、時間くれないかなっ」


 それは、何かを必死に求めるような切実な声だった。


 そんな声を聞いて。


 ただただ無心に、俺は同意してしまっていた。

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