第16話
頭を締め付けられるような痛みを感じて奏斗が目を覚ますと、見ず知らずの人がちょうど顔を覗き込んでいるところだった。
一瞬自分がどこにいるのか把握できずに混乱した後、すぐに川に落ちたことを思い出した。暖かい布団に包まれていることで、助かったんだと気がついて、なぜか涙が流れた。
沈みかけた律を必死で公園まで引っ張ろうとしたことを思い出す。 ほんの数十メートルなのに、どれだけもがいても辿りつかない。とにかく必死で少しでも陸のそばへと、ほとんど気を失った律を抱えて泳いだ。もし律の意識があったら、逆に沈んでしまっていたかもしれない。とにかく寒くて、体が震えていた。
誰でもいいから律はどうなったのかを聞きたくて、手をのばして服の裾を引っ張った。
「律は?」と言ったつもりだったが、言葉がうまく発声できなかった。それでも看護師は、「もう元気にしてるから、大丈夫」と教えてくれた。
良かった。生きてる。
ホッとして奏斗はもう一度目を瞑った。
病室を移れることになり、カーテンが開かれた明るい部屋に移動した。窓の外は雲ひとつない青空が広がっていて、今がまだ夏だったことを思い出した。三日間も眠っていたせいか、だるさと頭痛が治らない。もう眠りたくないのに頭痛のせいで起きていたくない、最低の気分だった。
うつらうつらしていると、カーテンの向こうから「奏斗」と呼ぶ声が聞こえて我に返った。
しばらくすると、カーテンの隙間から今にも泣き出しそうな律が顔を出した。ゆっくりとカーテンを開いて「いいかな?」と声をかけてきた。
「座れよ」
体がまだうまく動かせず、顔の向きだけを変えてベッドサイドにある椅子へ促した。
律は様子を窺うようにゆっくりと近づいて椅子に腰掛けると、おもむろに奏斗の右手を両手で包んで握りしめた。
「奏斗、ごめん。本当にごめん。ありがとう」
早口でそれだけ言って、奏斗の手を握りしめたままぼたぼたと涙をこぼし始めた。
「おい、泣くなよ」
律は黙って何度も頷いて、顔を伏せた。
生きてて良かった、とか、俺は味方だ、とか、奏斗の頭に一瞬浮かんだ励ましの言葉もいらない気がした。律の手はあたたかく力強くて、きっとこの手はもう死を選ぶことはないと思った。
死にかけたとしても、律の悩みが解決するわけではないし、容赦なく罵声を浴びせる人間がいなくなるわけでもない。健やかに、自分が正しいと信じ続ける者たちはどこにでもいて、異質な者たちが存在を主張することを拒絶する。律が生きている限り、痛みはつきまとうかもしれない。それでも、まだやっぱり死にたくはなかった、と律がそう思ってくれるのなら、いくらだって手を貸したい。
「これからは、奏斗が一人にならなくて済むように、僕が一緒にいてあげるよ」
律は涙でぐちゃぐちゃになった顔を手で拭いながら、冗談めかして笑った。
「なんで俺が助けてもらう方なんだよ」
青空を背景にして微笑む律はとても清々しく、吹っ切れていた。
「元気になったら、またカラオケ行こうぜ。律の歌聞きたい」
律は、じゃあ唯乃とさくらも誘わなきゃ、と顔を綻ばせた。二人にはもちろん、入院している事を伝えていない。それどころか律はスマートフォンごと川に落ちたせいで、連絡すら取れなくなっていた。両親が最新機種を買ってきてくれたらしいが、最後のバックアップからだいぶ時間が経っていて、奏斗の連絡先もわからないままのようだ。
「奏斗、僕ね。いっそカミングアウトしようと思って」
奏斗は驚きのあまり言葉を失った。
「それでやっぱり歌をやりたいって思ってる。僕には歌しかないからさ。それに、奏斗が言ったんじゃない。死ぬぐらいならゲイの方がマシだろって」
そんな事を言った記憶は全くなく、奏斗は思わず眉を顰めた。
「俺がそんなこと言うかよ」
「言ったよ、勝手に落ちてんじゃねえ、死ぬぐらいならゲイの方がマシだろ、って」
「いやいや、そんな酷いこと言わないって」
鈍い痛みが引かない腕を左右に振って、否定する。
いくら必死の時でも自分が言ったとは俄かに信じがたい。
「言ったって。それで、そっか、まだやりたい事やりきってないな、このまま死んだら嫌だな、って思った」
「ごめん。記憶ない」
「いいよ。やり直しさせてくれて、感謝してる」
律はもう一度強く奏斗の手を握った。
何度も手を握られるのは、むずがゆかった。でも嫌な気持ちはしない。
映画を見ても、漫画を読んでも、友達の話を聞いても、どうして人が人と接触したがるのか、奏斗には理解ができなかったし、抵抗しかなかった。
今は、少しだけそれがわかる気がする。律の手は暖かく、愛情を感じる手だ。世界の大多数の人たちは、人の愛情を求めて触れたがる。律は、そのままの奏斗を何も言わずに最初から受け止めてくれていた。
人が人に恋心を抱く気持ちは、きっと一途で尊いものなのだろう。奏斗は、他の人たちが当たり前に持っているその感情が羨ましかったし、理解したかった。ただ、『普通』になりたかった。
「俺が律を好きになれたら良かったのに」
心の声が溢れて奏斗がボソッと呟くと、律は一瞬虚をつかれたように顔を上げた後、ニヤけて言った。
「奏斗は十分、僕のこと大好きでしょ。命助けてくれただけで十分じゃん。そんな大事にしてくれること、ある? どれだけ相手のことを考えて幸せな気持ちになるか、それだって素敵な事じゃん」
「でもこれは恋愛感情じゃない。俺、もしお前が、誰か他に好きな奴ができたって言っても『良かったな、おめでとう』って普通に言えるぜ。嫉妬も何もない」
「奏斗は、自分を型に嵌めたさすぎ! いいんだよ、グラデーションで。他の人は嫌だけど、この人はなんか平気。もしそうだったとして、誰が文句言うの? いいよそのままで。僕は、そんな奏斗をまるっと受け入れてるから」
そのままでいい。自分自身が一番欲しくて、どうしても自分に対して言えなかった言葉。わかったふりではない、本音だ。
性格や外見が人それぞれ違うように、何かに対する感情や価値観が違っても当然。そういう人もいるよね、と皆が思える世界が来るのはまだ先だろう。
それでも何か、自分自身でできることがあるのなら、何かを変えてみたい。
「ちょっとスマホ、取ってくれない?」
肩より上に上げられない腕を伸ばして、引き出しを指差した。
三日間開いていないスマートフォンは通知が溜まりに溜まっていた。そしてヒナタからの通知がいくつも来ていて、約束をすっぽかしてしまったことを思い出し、一瞬にして血の気が引いた。
「ヒナタさんの約束すっぽかした……」
「あ」
律は何かを思い出したように、両手で口を覆った。隠し事をした幼児みたいに、眼球がきょろきょろと落ち着きなく動いている。
「大事なこと、言い忘れてた」
「大事なこと?」
「菜月さんとヒナタさんを調べてたこと、言っちゃった」
「ええ⁉︎」
律は奏斗が寝ているうちに起こったことの経緯を説明してくれた。 菜月がそれほど怒っている様子がなかったことに安心はしたが、和奏が絡んでいると聞いた時には思わず「終わった」と声が漏れた。
兄の奏斗からしてみても、和奏の検索能力は尋常ではない。アカウントはとっくにバレているだろうから、もう閉鎖だ。
「僕、ひょっとしたらとんでもないことしちゃったんじゃないかと気が気じゃなくてさ。万が一、これで焼けぼっくいに火がつくなんてことがあったらどうしよう」
気が気じゃないと言いながら、律はだいぶ舞い上がっているように見えた。
「何が焼けぼっくいよ」
声がした方に奏斗と律が同じタイミングで振り向くと、カーテンの隙間から菜月が顔を出していた。
事件を起こしてしまってから初めて顔を合わせる気まずさで、奏斗は咄嗟に菜月から目を逸らした。
「あのさあ、心配させておいてその態度はないんじゃないの?」
布団の上から足を叩かれ、「はい、すみませんでした」と小声で答える。飛び降りたことよりも、過去を探ったことへの罪悪感が酷くてなかなか真っ直ぐに顔を見ることができない。
「奏斗。連れてきたよ、ヒナタさん」
「えっ」
痛む体を忘れて飛び起きた拍子に、額の奥に鋭い痛みが走り、顔を顰めた。思ってもみなかった展開に律は目を輝かせ、わくわくしている。目が合ったと同時に軽く睨みつけると、ゴメンという形に口が動いた。
「ほら、ヒナタさん、こっち」
菜月がカーテンの向こうで誰かの腕を引っ張る影が見えて、ゆっくりと男性が姿を現した。彼は居心地悪そうにカーテンの中に入ると、頭を下げて「はじめまして。ヒナタです」と名乗った。
状況を掴めていない律は目を白黒させて、奏斗とヒナタを交互に何度も見て「どういうこと?」と裏返った声で言った。
菜月はベッドにヒナタだけを残し、「私がいない方がいいと思うから」と休憩室へ向かった。
奏斗は引っ叩かれてもおかしくないくらいのことをしでかしたと思っていたのに、母のあまりの理解の良さに気が抜けてしまった。
昔からあまり、奏斗のすることに対して何も言わない母ではあったが、あまりにもあっさりしすぎている。
「普通、子どもに昔の事調べられたりしたら、怒りますよね……。なんでなんも言わないんだろ」
「どうしてだろうね。俺ならぶん殴ってるかもしれない。短気だし」
ヒナタは長い脚を組み、膝の上で頬杖をついて首を傾げた。固いメッセージの文言よりフランクに話す姿は、想像以上にずっと親しみやしさを感じた。
「ヒナタさんて、元女子なんですよね?」
律はいまだに信じられないと言った様子でヒナタをまじまじと見た。
「律、失礼だろ」
奏斗は食い入るようにヒナタに近づく律を手で制した。
「いや、大丈夫。おばさんが現れると思ったらおじさんが現れたんだから、びっくりするよね」
「全然おじさんじゃないですよ! ちょっとかっこよすぎてびっくりしちゃって。てか、めちゃくちゃ僕の好み」
「ありがとう。でもごめん、俺、恋愛対象は女の人だけなんだよね」
本気なのか冗談なのかも不明なやり取りを一瞬で交わせるほど社交的な二人を、奏斗はただ呆然と見ていた。
ぽんぽんと会話が飛び交って、今日初めて会ったとは思えない。
やがて奏斗が置いてきぼりを食らっていることに気づいたヒナタが訊ねた。
「ところで奏斗くんは、俺たちのことを調べてどうしたかったの?」
ヒナタは、会うことになるなんて思わなかったから、赤裸々に語りすぎちゃったよ、とばつが悪そうに肩をすくめた。
「なんだかんだ言って、好奇心という言葉で片付けるのが一番妥当なのかもしれないです」
ヒナタが過去の恋愛について未練がありそうだったから、というのはもちろん理由のひとつではあった。
それ以外に、奏斗の心の中には、多分これがきっかけだっただろうと思われる出来事があった。
「一年くらい前、うちに父親の幼馴染のバンドメンバーが飲みに来た日に、聞いちゃったんですよね——」
その日は菜月が泊まりがけの仕事で不在だった。子どもの頃から何度も会ったことのある翔太と涼には、奏斗も和奏も慣れていて、その日も二人は泊まっていく気満々だったようだ。翌日が休みだったこともあり、ずいぶん遅くまでリビングから三人で話す声がしていた。
和奏はすっかり眠ってしまい、奏斗も一度眠ったものの、ふと目覚めて水でも飲もうかと部屋を出た。リビングから聞こえてくる三人の声はどことなくトーンを落としていて、秘密の会話のようだった。奏斗は興味本位で階段の途中に座り込み、耳を澄ませた。
彼らは、互いの妻についての愚痴を溢しているようだった。
その時、奏斗は晴臣の言葉に自分の耳を疑った。
「でも、あいつは俺のことを好きで結婚したわけじゃないから。お前らの方が幸せだと思うよ」
「お前はまだそんなこと言ってんのかよ」
「十分仲良いだろ」
そんな会話だった。フォローを入れる友人二人に対し、晴臣は頑なにその姿勢を崩さなかった。
あいつは俺のことを好きで結婚したわけじゃない——
奏斗の耳には、晴臣のその言葉が染み付いて離れなかった。
結局水を飲みにいくことはできず、そっと足音を立てないように部屋に戻り、布団を頭から被った。鼓膜の奥で脈打つ心臓の音が、布団の中でこだまするようだった。
しかし、奏斗の心に芽生えたのは、父が母に対してそんなふうに思っていたのかというショックとは違った。
「母も、俺と同じなのかもって思ったんだ。もしそうなら、どういう経緯で結婚したんだろうってずっと謎だった」
ヒナタは俯いたまま、シーツの皺をじっと見つめていた。メガネの奥の目が何か思い詰めたように険しくなっている。
「だから、ヒナタさんは母にとって何だったのか、どうしても知りたかった。結局、俺の単なるわがままです。自分が納得したいから、親の過去をほじくり返した。それだけです」
ヒナタは何か言いたそうに何度か口を閉じたり開いたりした後、一度大きく天を仰いでから大きなため息をついた。
そして抱え込んでいた心の澱を吐き出すように、少しずつ、言葉を重ねた。
「本当の俺は、思ったことはすぐに口にするし、我慢もしないタイプの子どもだった。だけど、ある時から自分を「私」って言うことに強い抵抗を感じるようになって、自分の話ができなくなった。菜月と会った頃はまさにその抵抗が一番酷い時で、もうこのまま生きていくくらいなら、死んだ方がマシだと思ってた。でも死ねなかった。家族を事故で亡くしてたからね」
奏斗の視界の端で、律の体が強張って、息を呑んだのがわかった。
「菜月のおかげなんだ。こんなに幸せなことがあるなら死ななくて良かった、って。でも、あの時期、一番自分に嘘をついて生きてた。彼女にもなにも言えなかったし、結局、自分もいつか結婚したいから、なんて嘘をついて。あの時は、それが自分にとっても菜月にとっても一番の選択だって信じてた。でもそのせいで、菜月だけじゃなくてオミまで傷つけたのかも、と思うと……。なんて自分勝手だったんだろうね」
バカだよなあ、と呟いてヒナタは力なく笑った。
奏斗にとってのヒナタのような大人が、当時のヒナタにはいなかった。相談できる家族もおらず、何の情報も持たない高校生が、一人で思い悩んで出せる答えはたかが知れていただろう。
「菜月、言って欲しかった、なんて言うんだ。昔は、割と周りからどう見られるのかをずっと気にしてて、繊細で、弱い子なんだと思ってた。俺は、菜月をみくびってたのかもしれない」
奏斗の知る菜月は、細かいことを気にしない、マイペースな人だ。
ヒナタの記憶の中の菜月とはだいぶ差がある気がした。ただ当時の菜月をヒナタがどれだけ大事にしていたのかは、彼が菜月を語る表情を見れば、十分にわかった。
ヒナタは少し姿勢を正して、奏斗の顔をじっと見つめた。
「だから、もう一度会えて良かった。思うとおりにして良かったんだって、今になってようやく気付いた。君たちが大人になる時、もっと生きやすい世の中になるように、ってずっと頑張ってきたつもりだったけど、自分自身のことももう少し、考えようと思う」
当時の彼らが彼らなりに、最善の方法を選んだ結果に、自分がいる。その結果生まれた奏斗が、ヒナタの過去を調べて、当時の彼の幸せを願うことは、思えば逆説的だ。それでも、その選択を経た先の彼の未来に関われる存在になれたのなら。自分のしたことは、少なくともヒナタにとってマイナスにならなかったと、奏斗は信じたいと思った。
ヒナタは晴れやかに凛とした顔をしていた。そして、窓の外の青空を見上げた。
なんて美しい横顔だろう。
母はきっと、この横顔を永遠に見ていたかったのではないか、そんな気がした。
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