フォレルスケット

乃木

プロローグ


 ここに、彼女はもういない。

 煙草の臭いが染み付いた階段を下りている時、菜月はまるで二十五年前のあの日にタイムスリップしたような錯覚に囚われた。

 黄ばんだ壁も、いつかスターになることを夢見て書き込まれた、名もなきアマチュアミュージシャンのサインも、真っ黒なゴム敷きの四角いライブハウスの空間も、何もかもがそのままだ。

「菜月、そういうわけだから、頼む!」

 喉をやられた晴臣はるおみが、大して悪びれることもなく、歌詞を表示させたタブレットを手渡してきた。

 最初から歌う気なんて、ゼロじゃん。

 そう言ってやっても良かったけれど、晴臣が一度決めたら絶対にぶれない人間であることはよく知っているので、もはや抵抗する気すら起きなかった。

 菜月はとりあえず、素直に応じたわけではない、というアピールのために、晴臣を一応軽く睨みつけた。

 各々が音響チェックをしている舞台の端で、タブレットのページをめくる。

 懐かしい、十代の頃の記憶が蘇るラインナップだ。

 タブレットをタップする指が、不意に止まった。

 初めて人前で歌った、あの日の最初の一曲だった。

「オミ、一曲目、これにしない?」

 菜月は、その画面をチューニング中の晴臣に見せた。晴臣は、いいね、と満面の笑みで頷く。

 ホールの奥にあるバーカウンターの左端に目をやる。

 まさか、またここで歌うことになるなんてね。

 菜月は込み上げる笑いを噛み殺して立ち上がり、大きく深呼吸をした。

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