転生与力、江戸に目覚む 2
玄関ではおたかが見送りに立っていた。
「お気をつけて」
「ああ」
カチッカチッと、おたかが切り火を行うと、源一郎は草履を履き門を出た。初夏の朝の空気は清々しい。梅雨入り前のこの時期は寒くもなく、暑くもない、一年で最も過ごしやすい季節だ。
源一郎は歩き始めた。
朝の本所の町が広がっている。静かな武家屋敷街。長い土塀が続き、門構えの屋敷が並んでいる。人通りは少ない。本所の武家屋敷街は朝もまだ静かで、奉公人が庭を掃く音や勤めに向かう早出の武士が行き交う足音だけが聞こえる。
歩きながら源一郎は空を見上げた。青く澄んだ空。白い雲がゆっくりと流れていく。前世ではこんな空を見上げる余裕もなかった。朝から晩まで働き、休む間もなくただ疲れて眠るだけの日々。
だが今は違う。空がある。風がある。人の声がある。
──本所から両国橋を渡り、桜田門へと向かう道すがら、源一郎は江戸の朝を眺めた。
本所から両国橋へと向かう道中、町の様子が少しずつ変わっていく。
武家屋敷が途切れ、町人の暮らす長屋が見え始める。格子戸が開き始め、朝の支度をする生活の音が聞こえてくる。竈の煙が立ち昇り、焼き魚の匂いが漂う。井戸端では女たちが水を汲み、朝から世間話に花を咲かせていた。
女たちが源一郎に気づき、ぺこりと頭を下げる。源一郎も軽く会釈を返した。与力という身分は町人から見れば「お上」だ。恐れられもすれば、頼られもする。だが源一郎にとっては同じ人間だった。
「いい朝だな」
故に、源一郎が声をかけると、女たちは少し驚いた顔をした。
「へえ、そうでございますね」
「お武家様がそんな風に声をかけてくださるなんて」
女たちはくすくすと笑った。源一郎も笑って先を急いだ。
道の両側には商家や職人の家が立ち並んでいる。格子戸が開き始め、店先に品物が並べられていく。呉服屋の女将が暖簾を掛け、豆腐屋が天秤棒を担いで声を張り上げる。
「豆腐ィー、豆腐はいらんかねー」
その声に誘われるように、長屋の女たちが集まってくる。手拭いを頭に巻き、桶を抱えた女たち。彼女たちは豆腐を桶に受け取りながら世間話に花を咲かせる。
「聞いたかい、深川の方で盗みが続いてるんだって」
「また盗人かい?物騒だねえ」
「それがね、人じゃない、妖怪の仕業だって噂なんだよ」
「まさか。妖怪が金を盗んでどうするんだい」
「さぁ……でもね、現場に人の足跡がないんだとさ」
「足跡がない?そりゃあ、やっぱり妖怪の類の仕業かもしれないねえ」
「怖い怖い。夜は戸締りをしっかりしとかないと」
源一郎は足を止め、その会話に耳を傾けた。
盗み、か。しかも人の足跡がない──。
妖怪の仕業と噂されているらしいが、それはどうだろうか?疑問に思いながらも源一郎は再び歩き出した。
両国橋に差し掛かると、隅田川の広々とした流れが目に入る。川面には早くも舟が出ている。荷を運ぶ川船、網を投げる漁師の舟、そして屋形船──江戸の動脈たる隅田川は今日も人々の営みを支えている。
橋の欄干に手をかけ、源一郎はしばし川を眺めた。
前世において、この隅田川にはもっと高い橋が架かり、川の両岸には高層の建物が立ち並んでいた。木の舟ではなく鉄の船が行き交い、花火大会の日には数十万の人が押し寄せ、川べりは身動きが取れないほど混雑していた。
だが今、目の前に広がるのは木造の橋と低い町家が連なる江戸の風景だ。
ああ、これだ。
源一郎が前世で時代劇を見て、憧れていたのはこの風景だ。川を渡る風が心地よい。朝もやが川面に薄く立ち込めている。
ふと川面に目をやると──舟と舟の間、もやの中に何か揺れているような気がした。人の形のような、しかし定かでない影。
──船幽霊か。
源一郎は小さく手を振った。船幽霊は一瞬、源一郎の方を見た。恨めしそうな、しかしどこか寂しそうな目。そして陽が昇るにつれ、その影はもやと共に消えていく。
源一郎は小さく息をついた。昼の光の下では、あやかし──妖怪や怪異、霊的存在すらも姿を隠す。彼らが現れるのは宵の口から明け方まで。特に宵の口と明け方は人の生活時間と重なり、あやかしの世と人の世とが交わりやすい。
「兄さん、いい朝だねぇ!」
橋を渡りきったところで、魚売りの男が声をかけてきた。天秤棒に桶を担ぎ、威勢のいい声で魚を売り歩く姿はいかにも江戸の町人だ。
「ああ、いい朝だな」
源一郎は笑顔で応じた。
「今日は鯵がいいよ!朝取れだ!」
「ちょいと。二つばかりアタシにおくれよ」
「へぃ、まいど!」
魚売りは威勢よく声を張り上げながら去っていった。人々は顔を合わせ、声を交わし、笑い合う。前世で失われつつあったもの──人と人との繋がりがここには当たり前に存在している。スマホとやらを覗き込んで黙々と歩く人々ではなく、声を掛け合い、挨拶を交わす人々。
日本橋を越え、大通りを進む。
朝日が昇り、町全体が明るさを増していく。商家の格子戸が次々と開き、店先に品物が並べられていく。呉服屋、小間物屋、薬種屋、傘屋、下駄屋──それぞれの店が今日の商いの準備を始めている。
「いらっしゃい、いらっしゃい!」
「大根~、菜っ葉~、朝取れの茄子だよ~!」
「握り飯ー、握り飯はいらんかぃー」
棒手振りや町の活気ある声が源一郎の耳に心地よく響く。
炭火の匂い、魚の匂い、味噌の匂い。五感を通して江戸の朝が源一郎の中に染み込んでくる。前世ならこういう光景は特別な催し物でしか見られなかった。だがここでは毎日がこうなのだ。
昼の明るい光の下では、あやかしたちの姿は見えない。だが源一郎は知っている。夜になればこの町のそこかしこに、人ならざるものたちが息づいているのだと。
§
桜田門外より少し外側に離れた土地、火付盗賊改方の拠点となっている役宅は江戸城の見える場所にあった。
白い土塀に囲まれた屋敷は質素ながらも威厳を感じさせる佇まい。門前には槍持ちが立ち、訪れる者を逐一見張っている。その目は鋭く、通り過ぎる者一人一人を値踏みするかのようだ。
火付盗賊改方──幕府が直々に設けた、盗賊と火付け、そして賭博を取り締まる役目。町奉行所とは別に江戸の治安を乱す者どもを捕らえ、裁き、時には密偵を使って探索を行う。
捕まえて、裁いて、探る。三つの仕事を一つにした特別な役所だ。
前世の知識で例えるなら──警察と検察と公安を足して三で割ったような存在、といったところか。源一郎はそんな風に考えながら門をくぐった。
詰所にはすでに数名の同心たちが集まっていた。陽が昇り始めたばかりだというのに皆、きびきびと動いている。刀の手入れをする者、書類を確認する者、密偵からの報告を聞く者。
「これは、渡辺様」
年配の同心が源一郎に気づき、丁寧に頭を下げた。顔に傷のあるいかにも場数を踏んだ風情の男だ。四十前後だろうか源一郎よりも明らかに年上。稽古を欠かさない武官らしく、太い腕に鋭い目つきをしている。
「今日が初めてのお勤めでございますな」
「ああ、よろしく頼む」
源一郎は穏やかに応じた。
与力と同心──前世の知識で例えるならさしずめ官僚とたたき上げの刑事、といったところ。この時代、与力と同心は同じ御家人であるが、その内実は違う。江戸時代前、与力は足軽大将などの中級武士であったのに対し、同心は士分を持たない足軽階級の下級武士。与力は奉行を補佐できる立場であるのに対し、同心はその下で働く実務担当。俸禄も違えば住む場所も違う。御家人の中でも格に差があるということだった。
そして、岡っ引きは同心のさらに下で働く町人身分。給料はなく、事件解決の際の謝礼が収入源となる。元は博打打ちや盗人だった者も多い。裏社会に顔が利く者たちで構成されていた。
とまれ、源一郎が同心に声を掛けられ、値踏みするような目でみられても穏やかに応じたのは、源一郎が堅苦しい上下関係を好まないせいだった。
前世の記憶がそうさせるのか、それとも性分なのか。「身分上は威張れるが、懐は寂しい」典型的な与力である以上、現場の人間とうまくやっていく方が得策だという考えを持っていた。
「先代様のご嫡男がもう与力襲名とは……ご立派なことで」
「いや、まだまだ未熟者だ。色々と教えてもらいたい」
源一郎がそう言うと、同心は少し驚いたような顔をした。
与力が同心に「教えてもらいたい」などと謙って言うのは珍しいのだろう。だが実務を知っているのは現場の人間だ。それは前世でも今世でも変わらない真理だった。
「それは……ありがたいお言葉で」
同心の男がやや嬉しそうに笑い、そこへ若い同心が駆け寄ってきた。二十前後だろうか。真面目そうな顔立ちの若者だ。
「渡辺様、頭取がお呼びでございます」
「分かった。すぐに参る」
源一郎は詰所を後にし、奥の部屋へと向かった。
廊下を歩きながら源一郎は思った。これから会うのはあの有名な長谷川平蔵だ。前世では時代劇や小説で何度も見た名前だ。江戸の治安を守った名頭取として知られている。「鬼平」の異名を持つ男。
まさかその配下として働くことになるとは……源一郎は心の中で苦笑し、前世の自分が知ったら驚くだろうなと感慨深かった。
部屋の前で源一郎は深呼吸をした。
「渡辺源一郎でございます」
「入れ」
低く、しかし力強い声が返ってきた。
源一郎は襖を開けた。
部屋の奥に一人の男が座っていた。四十半ばと思しき精悍な顔立ちの武士。剃り上げた月代に切れ長の目。口元には厳しさと優しさが同居している。紋付の着物を着た姿は質実剛健そのものだった。
長谷川平蔵宣以──その人だった。
「渡辺源一郎、推参いたしました」
源一郎は膝をつき、深々と頭を下げた。
「面を上げよ」
平蔵の声に源一郎は顔を上げる。平蔵はじっと源一郎を見つめていた。値踏みするような、しかし興味深そうな眼差しだ。しばしの沈黙。源一郎は背筋を伸ばしたまま平蔵の視線に耐えた。
「……ふむ……お前、変わった目をしているな」
「は?」
「まるで遠くを見ているような目だ。いや、遠くというより──別の世を見ているような。初めて見る目だ」
平蔵は興味深そうに言った。
源一郎は内心で冷や汗をかいた。鋭い。この人は何か感じ取っているのか。
「だが悪い目ではない。父御からお前のことは聞いていた。剣の腕は立つが少々変わり者だとな」
「……僭越ながら」
「構わん。この役目に必要なのは型にはまった者ではない。むしろ、お前のような者の方が役に立つこともある」
平蔵は短く笑った。
「では、早速だが初仕事を与えよう」
平蔵は懐から一枚の紙を取り出した。
「深川で盗みが続いている。商家の倉が夜な夜な荒らされ、金や反物が盗まれておる」
源一郎は紙を受け取り、目を通した。被害に遭った商家は深川にある丸屋。夜中に倉が荒らされ、商品である反物が盗まれている。その被害額は合計で三十両を超える。
「不思議なのは現場に人の足跡が一切ないことだ。窓も戸も閉まったまま、鍵も壊されておらぬ。まるで壁を抜けたかのように品物だけが消えている」
平蔵は源一郎の目を見た。
「住民たちは『あやかし』、妖怪の類の仕業だと怯えている。だが──」
平蔵はそこで言葉を切った。
「お前は妖怪を信じるか?」
源一郎は一瞬、答えに詰まった。
正直に答えるべきか。それとも当たり障りのない答えをすべきか。だが……平蔵の目を見て源一郎は決めた。この人には嘘をつかない方がいいと。
「……信じる信じないは関わりのないことかと存じます」
「ほう?」
「もし本当におるのならそれはそれ。おらぬのなら、おらぬでよし。ただ、盗みを働く者が妖怪の類であったのならば、捕らえねばなりません。その妖怪もまた江戸の住人ですので」
一瞬の沈黙の後、平蔵が声を上げて笑った。
「はははは!面白い答えだ!」
平蔵は膝を叩いた。
「その通りだ。正体が妖怪だろうが人だろうが盗みは盗み。罪人は見つけ出して裁かねばならん。行ってこい、源一郎。そして真相を究明してこい」
「はい」
源一郎は一礼し、部屋を後にした。
廊下に出て源一郎は小さく息をついた。
「初日から、あやかし絡みの盗みか……」
だが、その顔には笑みが浮かんでもいる。
足跡もなく鍵も壊さずに品物を盗む──これは何かの妖怪の類の仕業かもしれない。──しかし、夜になればその真相は分かることだろう。
源一郎は刀の柄に手をかけ、江戸の空を見上げた。
梅雨入り前の青く澄んだ空。雲がゆっくりと流れていく。前世ではこんな空を見上げる余裕もなかった。朝から晩まで働き、休む間もなくただ疲れて眠るだけの日々。
だが今は違う。
この江戸の町で人と、あやかしの間に立ち、町の平穏を守る。それが源一郎の仕事だ。
「さて、行くか」
渡辺源一郎綱守──先祖の『綱』の字を持つ男の、与力としての日々が今、幕を開けた。
人と、あやかしの──『あわい』に立つ変人与力の物語の始まりである。
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