恐怖 帰還 学校

——暗い。
 深い水の底から浮かび上がるように、意識がゆっくりと戻っていく。

 鼻をつく消毒液の匂い。
 遠くで鳴る電子音。
 硬いシーツの感触。

 ここは……どこだ?

 瞬きをした。
 白い天井。蛍光灯が滲んで見える。
 体は鉛みたいに重い。喉は乾いて、声にならない息を漏らした。

「……スグル?」

 柔らかい声がした。
 自分の名前を呼ぶ声。聞き覚えのある……優しい声。

 視線を横に動かす。
 椅子に座った少女が、両手でスグルの右手を包むように握っていた。

 美紅——。

 ずっと泣いていたのか、赤く腫れた目でこちらを覗き込んでいた。

「良かった……本当に、良かった……! スグル、目が、覚めた……」

 絞り出すような声。
 その手は温かくて、震えていた。

 ——なのに。

 スグルの心に、訳のわからない“寒気”が一気に走った。

 握られている手が、自分の手じゃないものみたいに感じる。
 美紅の顔が、誰か別の“何か”と重なって見える。

 赤黒い影。
 歪んだ笑み。
 胸の奥を締め付けるような記憶の残滓が、心臓を殴る。

(違う……やめろ……来るな……!)

「スグル? どうしたの……?」

 美紅が覗き込み、少し身を乗り出した——その瞬間。

 スグルの全身が跳ねた。

「触るな——!!!」

 叫び声が病室に響き渡った。
 繋がれていた点滴スタンドが揺れ、心電図が一瞬跳ねる。

 美紅がビクリと肩を震わせ、握っていた手をパッと離す。
 驚いたというより、傷ついたような表情だった。

「……ごめん……スグル……痛かった?」

 その声すら、今のスグルには遠く感じる。
 強烈な恐怖が引かず、呼吸が荒くなる。
 胸が締め付けられ、視界が波打つ。

「僕に……触るな……っ……!」

 震える手で身体を守るように抱え込み、スグルはベッドの上で後退った。
 美紅の顔が悲しみと不安で陰る。

 静かな病室に、二人のざわめく呼吸だけが残った——。

荒い呼吸が、喉の奥でひっかかっている。
 美紅は怯えたようにスグルを見つめながら、そっと手を胸の前で握りしめていた。

「スグル……?」

 その小さな呼びかけが、霧の中に差した灯りみたいだった。

 スグルはハッと瞬きを繰り返し、荒れた心拍がゆっくりと落ち着いていくのを感じた。
 視界の赤黒い影が薄れ、病室の白い壁が戻ってくる。

 美紅の顔も——いつもの美紅に戻っていく。

「……あ……」

 さっき自分が何をしたのか理解した瞬間、胸の奥がズキッと痛んだ。

「ごめん。ちがう、いまの……嫌、とかじゃなくて……なんでもない、ほんとに」

 スグルは急いで息を整え、震える指先を握りしめて隠した。

 美紅はしばらく、何も言わずにスグルを見つめていた。
 責めるでもなく、怯えたままでもなく——ただ“心配”だけを詰め込んだまなざし。

「……ううん。スグルが謝ることじゃないよ」

 美紅は小さく首を横に振った。

「怖かったんだよね。何か、思い出しちゃったんでしょ?」

 スグルは目を逸らす。
 その通りだったから。

 でも、言葉にすると壊れそうで。

「……ごめん」

「だから大丈夫。ほら、落ち着いた?」

 美紅はさっきは触れられなかったスグルに近づこうとして——
 一瞬ためらい、自分の膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

 “また拒絶されたらどうしよう”
 そんな小さな不安が、傷にならないように必死で隠されていた。

 スグルはそれに気づいて、胸の奥がまた痛む。

「……もう大丈夫だよ、美紅。さっきのは……なんか、変な感じがしただけ」

 と、笑おうとしたが、上手く笑顔にならなかった。

 そのぎこちなさを見て、美紅は逆に安心したようにふっと微笑む。

「無理しなくていいよ。ここ、安全だから」

 病室の静けさが戻ってくる。
 電子音だけが規則正しく鳴っていて、どこにも影はない。

 スグルはようやく、深く息を吸った。

しばらくして、病室の扉がノックもなく開いた。
 白衣の医者がカルテを片手に、看護師を数名連れて入ってくる。

 扉の上には大きく ICU(集中治療室) の文字。
 スグルはその文字を見て、一瞬、自分がどれだけ危ない状態だったのかを理解した。

「経過は良好ですね。抗不安薬、抗うつ薬が効いたんでしょう」

 医者がモニターの数値を確認しながら言うと、美紅は胸に手を当ててほっと息をついた。

「よかった……本当に……」

 その横で、若い看護師がニコっと笑いながらスグルと美紅を交互に眺める。

「ところでお姉ちゃん、このお兄ちゃんの彼女?」

「そ、そんなんじゃ……ないですよ……!」

 美紅は慌てて首を振り、頬を赤く染めた。
 耳にかかった髪をそっと払うその仕草は、
 スグルの目には光をまとった何か尊いものにしか見えなくて、

(……かわ……)

 言葉が胸につっかえて出てこない。

「スグルくん?」

「ッ……あっ、あぁ、すみません」

 急に話しかけられ、スグルは変に裏返った声で返事してしまう。

 美紅がクスクスと笑い、看護師も「青春ね〜」と微妙にからかうような笑み。

 医者はそんな二人を横目に、カルテを閉じてさらっと言った。

「元気そうだし——もう退院しちゃおうか」

 あまりにも軽いその言葉に、スグルと美紅は同時に目を丸くした。

「……え?」

「そんな簡単に……?」

 美紅が戸惑いながら尋ねると、医者は肩をすくめる。

「命に関わる外傷もないし、精神的ショックも薬で安定してる。
 ICUに置いておくほどじゃないよ。むしろ外の生活に戻った方が回復しやすい」

 スグルは視線を落とす。

 外の生活。
 “事件の続き”が待っている現実が、急に近く感じて胸がざわついた。

「一時期はどうなるかと思ったわよ?」
看護師が腰に手を当て、まるで弟を叱るお姉ちゃんみたいな口調で言う。

「大変だったのよ? スグルちゃん、あなたすっごい暴れん坊なんだから」

「そ、そんなに……?」

 スグルは思わず身を縮める。
 そんな自覚はまったくない。

 医者も苦笑しながらカルテをめくった。

「挙句には “僕に触るな!” なんて叫ぶしね」

「っ……な……!」

 自分でも覚えている叫び。
 でも、こうして言われると羞恥心が爆発しそうだった。

 そこへ看護師が追い打ちをかける。

「そうそう、あと忘れちゃいけないのが——」

 指を一本立てて、思い出したように続けた。

「“暗くて怖い……何も見えないよぉ……みんなどこぉ……?”って泣いてたやつね。
 ショックで一時的に失明したときの」

「うぉおおおい忘れろ!!」

 スグルは顔を真っ赤にし、布団を頭までかぶりたくなるほどの勢いで叫んだ。

 看護師たちはクスクス。
 医者も肩を揺らして笑っている。

「まぁまぁ、可愛かったわよ?」
「若いっていいわね〜」
「甘え方が子犬みたいだったな」

「やめてくれぇぇぇ……!」

 完全に茶化されている。
 恥ずかしさで心臓が破裂しそうだ。

 ——その中で、美紅だけは違った。

 周りが笑う声の中、ただ一人、スグルをじっと見ていた。

 呆れたわけでも、からかっているわけでもなく。

 まるで——
 その必死で照れている姿すら、愛おしいとでも言うかのように。

 柔らかく、優しく、少しとろけそうなまなざし。

 スグルはその視線に気づき、さらに顔を赤くする。

「……み、見ないでよ……」

 美紅は微笑んで、首をかしげる。

「だって……かわいいんだもん」

 スグルの心臓が跳ねた。

 笑い声に包まれた病室で、ついに医者が片手を上げて制止した。

「こ……これ以上はやめてあげましょう。
 ちょっと可哀想ですし……心身的にあまり良くないですから」

 スグルは布団を握りしめたまま、涙目で医者を見る。
 その目は明らかに “もっと早く止めろよ!” と訴えていた。

「そうよねぇ。はいはい、もう終了〜」

 看護師はケラケラ笑いながらスグルの肩をぽんぽん叩いた。

「さ、スグルちゃん。帰りの支度しといてね」

「………………はい……」

 蚊の鳴くような返事。
 耳まで真っ赤なスグルを見て、美紅は思わずクスッと笑う。

「ほんとに恥ずかしくなると心拍数って上がるんですね」

 言われて、スグルの心拍計がピッ、ピッ、と早くなる。
 医者と看護師が揃って吹き出した。

「こう見ると面白いわよねぇ。
 だからこの仕事、辞められないのよ」

 看護師が胸を張って言うと、医者が苦笑しながら頷く。

「たまに俺の心拍も測ろうとするからな、この人」

「え、嫌がる医者なんて初めて見たんだけど?」

 美紅はきょとんとして言った。
 看護師は満面の笑みで親指を立てる。

「でしょ? もう天職なのよ、私」

「天職じゃないですか」

 美紅のその一言に、また病室が明るく笑いで満たされた。

 その中でスグルは、ちょっとだけ肩の力が抜けた。
 恥ずかしさはまだ残ってるけれど——心のどこかで、あたたかい。

(……何なんだよこの空気……)

 笑われてるのに、不思議と嫌じゃない。
 美紅が隣で笑ってくれているから、かもしれない。

退院準備はあっという間に終わった。

 病室の片付けや荷物確認が一段落すると、医者と看護師が扉の前でまとめの説明を始める。

「じゃ、受付で退院の手続きだけしちゃってください」
「薬は後で渡しますからね〜、はいこれ控え」
「何かあったらすぐ来ること。無理はしないように」

 最後に軽く頭を下げ、医者と看護師はにこやかに退出していった。

 そのあと、スグルと美紅も病室を出る。
 長いICUの廊下は少しひんやりしていて、
 ついさっきまで死線をさまよっていたのが嘘みたいに静かだった。

 受付で退院の手続きを済ませると、すべてがあまりにもスムーズに進み、
 二人はそのまま病院の自動ドアを抜けた。

 外の空気はどこか懐かしく、少しだけ冷たい。

 ——そのとき。

 キィ、と静かにブレーキ音がして、
 病院の正面ロータリーに黒塗りのクラウンが滑り込んできた。

 光沢のある車体。
 スモークガラス。
 後部座席のドアがゆっくりと開く。

 運転席は無言。
 ただ、スグルが来るのを“待っていた”とわかる佇まい。

「……迎え、来てたんだ」

 スグルは小さく息をつき、ためらいもなく車へ向かおうとしたが——
 ふと後ろを振り返る。

 美紅が不安そうに立ち止まっていた。

 だからスグルは、
 自分でも驚くほど自然に、そして“スグルらしく”口を開いた。

「美紅、行くぞ。帰り道くらい……俺の隣にいてくれよ」

 その声は昔より少し低く、落ち着いていて、
 でもスグルらしい素直さが滲んでいた。

 美紅は目をぱちぱちと瞬かせ——
 次の瞬間、頬を真っ赤に染めた。

「……い、行く……!」

 途端に表情がふわっと緩み、
 恥ずかしそうに俯きながらも、しっかりとスグルの後を追う。

 スグルは後部座席のドアを開け、
 軽く顎で“先に乗れ”と合図して美紅を乗せた。

 彼女が座席に身を沈めたのを確認してから、
 スグル自身もゆっくりと車に乗り込む。

 ドアが閉まる音がやけに深く響いた。
 その瞬間から、二人の“次の時間”が始まるような感じがした。

黒塗りのクラウンの運転席に座っていたのは——
 黒瀬ではなく、スーツ姿の男だった。

「迎えに来ましたよ、スグルくん。……美紅ちゃんも」

 振り返ったその顔は、
 学校で生徒指導を担当している 石川先生 だった。

「石川先生……?」

 美紅は目を丸くする。
 普段は優しいおっちゃん先生だが、今は表情が硬い。

 車は静かに病院を後にし、
 街を抜けてまっすぐ“学校”の方向へ向かっていく。

 ——そこで、美紅はやっと疑問を口にした。

「え、えっと……なんで、私……スグルの家に行く流れになってるんですか……?」

 石川先生はバックミラー越しに美紅を見て、
 ほんの少しだけ眉を寄せた。

「……言わないといけないことがあります」

 スグルはその言葉に反応しない。
 足を組み、腕を組み、顔を伏せたまま。

 その“何も言わない姿”が逆に、
 美紅の胸に不安を刺し込む。

 石川先生は静かに続けた。

「美紅ちゃん。君の…ご両親のことなんだけどね」

「……お母さん? お父さん? なに……?」

「君の親御さん……ヤクザと関わりを持っていたことが判明しました」

 その言葉は、
 車内の空気を一瞬で凍らせた。

「……え?」

「違法薬物の売買に関与していた。
 家宅捜索で出てきた薬物の量も……かなりのものだった」

 美紅の呼吸が止まる。

 頭が真っ白になる音が聞こえるようだった。

「そ、そんな……そんなわけ……嘘、でしょ……?
 あの人たちが……そんな……!」

 石川先生は目を伏せた。

「そして、美紅ちゃん。今日の昼に——二人とも逮捕された」

 美紅の世界が崩れた。

「やだ……やだやだやだッ……なんで……?
 なんでなの……? なんでェぇ……!」

 涙が堰を切ったように溢れた。
 嗚咽で喉が詰まり、声にならない叫びが車内に響く。

「違うよ……絶対違う……!
 お母さんそんなの……お父さんそんなの……!」

 泣き叫ぶ美紅の横で、
 スグルは何も言わない。

 足を組み、腕も組んだまま。
 下を向いたその影が、
 ただのスグルではなく“別の何か”に見えるほど静かで鋭い。

(……やっぱり、スグルは知ってたんだ……)

 石川先生はバックミラーでスグルを一瞬見る。
 その視線は、どこか“覚悟していた者”のものだった。

 美紅の涙の音だけが響く車内で、
 スグルの影は深く沈んでいた。

 顔は見えない。
 でも——

目が、鋭く光っている気配だけは、はっきりと感じられた。

 スグルは、車内の重苦しい沈黙に耐えかねたのか、
 一つ大きく息を吐いた。

 そして、ゆっくりと顔を上げる。
 普段の冷たさや影は消え、ほんの少し優しい、柔らかな表情に変わっていた。

 泣きじゃくる美紅の肩に、そっと手を置き、
 反対の手で顎に触れる。
 そしてクイッと顔を上げさせる。

「レディがそんな大きな声を上げて泣くんじゃない。
 ほら……可愛い顔が台無しじゃないか」

 美紅は驚いたように目を瞬かせる。
 思わず肩を揺すられ、顔を上げると、
 スグルの目がまっすぐ自分を見つめていた。

「ス、スグル……らしくない……よ……」

 吐き出したその言葉に、スグルはわずかに笑った。
 それは冗談でもなく、軽くもなく——
 ただ、今この瞬間のためだけの表情だった。

 二人は、自然と抱き合った。
 美紅の涙はまだ止まらないが、スグルの腕の中で少しずつ落ち着いていく。

 その光景を、運転席から静かに見守る石川先生。
 心の中で、何やら勝手に妄想しながらも、目だけは冷静に道路を見つめていた。

(スグル……かっこいいな……。こんなん惚れるやろ、美紅ちゃん……)

 外の冷たい空気に押されて重かった車内が、
 一気に羽が生えたように、暖かい空気で満たされる。

 石川先生は独身であることを思い出し、心の中で軽く戦いながらも、
 両手でしっかりとハンドルを握って運転していた。

 クラウンは静かに、しかし力強く街の道を滑るように進む。
 後部座席には、抱き合った二人の世界しか存在していなかった——。

 クラウンは街を抜け、徐々に住宅街に差し掛かる。
 夜の街灯が窓に反射して、車内を淡く照らす。
 抱き合ったままの二人には、外の景色も雑音もほとんど届かない。

「もうすぐ着く」

 スグルは低く言った。
 声は冷たくもなく、優しくもなく——ただ確かに、導く者の響きを帯びていた。

「え……?」

 美紅はまだ少し震えながら顔を上げる。
 スグルが目を逸らさず、前方を見据えたまま言う。

「今日は……俺の家に泊まれ。安全だから」

 その一言は命令でもなく、甘えさせるでもなく、
 でも揺るがない信頼を含んでいた。

 美紅は頬を赤くして、思わず小さく頷く。

「……うん……」

 クラウンが一軒家の前に停まる。
 モダンでありながら、どこか落ち着いた雰囲気の建物。
 ライトに照らされる玄関ドアは、今夜の二人を静かに迎えていた。

 スグルはドアを開け、先に美紅を誘導する。
 その姿は、自然体でありながらも威厳があった。

 玄関で靴を脱ぎ、二人は居間へ。
 温かい照明と、整った家具の空間が広がる。
 その中で、二人はしばらく無言で向き合った。

 美紅は少し恥ずかしそうに目を伏せる。
 スグルはその手を取り、軽く握ってから放す。
 そして、静かに告げる。

「今日はここでゆっくり休め。何も考えなくていい」

 美紅は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
 泣いたあとの涙も、少し落ち着いていく。

 そのまま、二人は距離を縮めながら居間で座り——
 夜の闇の中、外の世界から守られた安心感に包まれた。

 スグルの家は、今夜だけ、二人の小さな避難所になったのだった。

 美紅を客間のベッドに寝かせると、スグルは毛布をそっと肩までかけた。
 泣き疲れたのか、寝息は静かで穏やかだった。

「……ゆっくり寝ろよ」

 小さく呟いてから、スグルは部屋の電気を落とす。
 足音を消し、玄関のドアを静かに閉めると、夜の空気がひやりと頬を撫でた。

 黒塗りのクラウンは、夜の都内を滑るように走る。
 目的地は——警視庁。

 身分認証を通り、スグルは慣れた足取りで廊下を進む。
 深夜の警視庁は静かだった。
 だが、捜査一課の扉を開けた瞬間、蛍光灯の白い光と紙の匂いが彼を包む。

「戻った」

 誰に言うでもなくそう呟き、スグルは自分のデスクに向かう。
 乱雑に積まれた書類を片手で避けながら、引き出しを開ける。

「えーと……あれどこやったっけな」

 パサパサと紙をめくる音。
 そして、黒い革の手帳を見つけ、掴み上げる。

『逮捕手帳』

「……あぁ、これも必要だけど、これじゃねぇな」

 放り投げた。

 次に出てきたのは——

 ジャ◯ニカ学習帳。

「これこれ」

 満足げに頷くと、スグルは胸ポケットから黒いマ◯ネームペンを取り出した。
 そして、表紙に堂々と書き込む。

『美紅との共同生活日記』

 真顔だった。

 書き終えてペンをしまい、学習帳を脇に抱えて警視庁を後にする。
 夜風が吹き抜ける中、スグルはふっと小さく笑った。

「……まあ、こういうのも悪くねぇか」

 帰宅したスグルはリビングのテーブルに学習帳を置くと、
 1ページ目を開いてペンを走らせた。

『1日目
美紅、突然の泣き叫び。仕方ない。全部背負うのは俺の役目。
とりあえず飯はどうするか。とにかく今日は休ませる。
——以上。』

 ページを閉じると、満足そうにふぅ、と息を漏らした。

 そのまま学習帳を自室の引き出しにしまい、
 シャツを脱ぎ、ベッドに倒れ込む。

「……さて。明日からどうなるか……」

 スグルは目を閉じた。
 美紅の泣き顔と笑顔が、交互に脳裏に浮かんでいた。

 静かな夜が、ゆっくりと更けていく。

 ベッドに横になったスグルは、天井をぼんやり見つめながら呟いた。

「……あ、シャワー浴びるの忘れた」

 数秒の沈黙。

「……まぁいっか。めんどくせぇ」

 どこからどう見ても、さっき警視庁から帰ってきたエリートの言葉とは思えない。

「明日の……朝浴びれば……」

 言い終わる前に、睡魔が一気に押し寄せる。
 意識が落ちる直前、ふと美紅の寝顔が頭に浮かんだ。

「……あいつ、寝れてっかな……」

 そのまま目を閉じる。

 静かな室内。
 遠くでエアコンの音だけが規則的に響いていた。

 数時間後、深夜。
 スグルは一度だけ微かに目を開けた。
 自室のドアの向こうで、布団がわずかに擦れる音が聞こえた気がした。

(……美紅か)

 寝返りを打ちながら、スグルは思う。

(泣いてねぇだろうな……)

 そのまままた眠りに落ちるが、どこかで美紅の存在を気にかけ続けていた。

 外は冬の気配を帯びた静けさに包まれていた。

◆ 翌朝

「スグル〜……起きて……」

 肩を軽く揺すられる。
 まぶたを開けると、心配そうに覗き込む美紅の顔。

「あぁ……もう朝か……」

 寝癖を直しながら起き上がる。

「朝ごはん……作ったの?」

「ん? ああ、もうすぐできる」

 スグルはエプロンを腰に巻き、フライパンの火加減を調整しながら言う。

「えっ……スグルって自炊するんだ……」

 美紅の目がまん丸になる。

「そりゃするだろ。1人暮らし長いし。結構うまいぞ」

「なんか……意外……。でもすごい! こういうの出来る男子ってカッコいいよ」

 褒められたスグルは、
 見事に耳まで赤くなった。

「べ、別に普通だろ……シャワー浴びてくる」

 そそくさと逃げるように浴室へ向かう。

 10分後。

 戻ってきたスグルは——
 髪は完璧に整い、
 肌はやけにツルツルで、
 全体的に“いつもの3割増しのイケメン”になっていた。

 美紅は口をポカンと開ける。

「こんな短時間で……どうやったの?」

「慣れだよ。今日はいつもより気合い入れてみた。……どう?」

 わずかに照れながら言う。

「似合ってるよ!!」

「……そりゃどうも」

 目をそらしながらも、口元は緩んでいた。

「美紅もシャワー浴びてこいよ。そのボサボサのまんまじゃ、みんなに顔向けできねぇぞ?」

「んじゃ、遠慮なくー!」

 タオルを抱えて洗面所へ駆けていく。

 スグルはコーヒーとトーストを用意して朝食に取りかかった。

 テレビのリモコンを押すと、ニュース番組が映る。

——テレビ「男の人:続いてのニュースです。40代の夫婦が麻薬取締法違反の疑いで逮捕されました。」

 スグルの手が一瞬だけ止まる。

——テレビ「女の人:昨日の昼、のどかな川の堤防の下で何やら騒々しくなっています。」

——テレビ「男のレポーター:40代くらいでしょうか、男の人と女の人が連行されていきます。」

 パンをちぎりながら、スグルの表情が徐々に固くなる。

——テレビ「女の人:逮捕されたのは、茨城県に住む——」

 美紅の両親の名字が告げられた、その瞬間。

 スグルはゆっくりと瞼を閉じる。

 シャワーの流れる音が、部屋に小さく響いていた。

 シャワーの音が止んで数分。
 美紅が洗面所から戻ってきた。

 髪は乾かしてふわりと整えられ、
 肌はさっぱりして血色がよく、
 いつもの制服姿なのに——明らかに“いつもよりかわいい”。

 スグルは一瞬だけ目を向けたが、すぐに視線をコーヒーへ戻し、黙ってひと口すすった。

「コーヒー? 大人だね。ブラック? ホワイト?」

「ちょー甘々のホワイトだよ。苦いのは苦手でね。でもカフェイン取っとかないとやってけない」

「へー、味はお子様なんだ」

「一言多いぞ」

 美紅は笑いながらダイニングテーブルに座る。
 ふとテレビ画面に目を向けて眉を上げた。

「あ。もんこんなにニュースになってる。メディアの動きは早いねぇ」

「全くだ。有名人の不祥事と事件以上に動きが速いことは無い。」

「だからマスゴミとか言われるのよ」

 美紅は肩をすくめた。
 スグルはコーヒーを口に運びながら、テレビのアナウンサーの声に耳を傾けていたが——
 表情を読ませないまま、目だけは鋭く画面を追っていた。

 美紅はまだ気づいていない。
 画面に映るあの名前が、自分の人生を大きく変えたということに。

 美紅は髪を結び直しながら、ふと洗面台に置かれたスキンケア用品の量に気づいた。

「ところでさぁ。なんで女性用のスキンケアとか沢山あるの? スグルのはスグルでしっかりあるのに?」

 スグルはシャツのボタンを留めながら、あっさり答える。

「昨日買ってきた。まさか空いてるとは思ってなかったがな。気の効かない父親は嫌いでね」

 その一言に、美紅は小さく目を見開いた。
 スグルが自分のためにわざわざ買いに行った——
 その事実が胸の奥をじんわり温かくする。

 スグルは時計を見て、軽く指を鳴らした。

「さ、そろそろ時間だ。テレビ消して、学校行く準備をしなさい」

「スグルは?」

 聞きながらリュックを背負う美紅。

 スグルはネクタイを締めながら答えた。

「もちろん俺も行く。一緒に行くんだよ。車はいつもの黒塗りのクラウンね」

「ありがとう! ていうかあれって覆面になってたのね。車の中の機械とかでわかった」

 スグルは少し笑い、肩をすくめた。

「流石だな。そうだ、覆面になっている」

「へへ」

 準備を終えた二人は、手早く食器を洗い終え、
 スグルは照明のスイッチを順番に落とし、最後に玄関の灯りを切った。

 家の空気は、朝の冷たい外気に押し出されるように静かになった。

 車庫に入り、黒塗りのクラウンのドアが静かに開く。

 美紅は助手席に座り、シートベルトを締める。

「……なんかさ、こういうの……すごいね。映画みたい」

 スグルは運転席でキーを回し、エンジンをかけながら横目で笑う。

「映画ほど綺麗じゃねぇよ。現実はもっとドロドロだ」

 低く唸るエンジン音。

 クラウンはゆっくりと車庫を出て、朝の薄い光の中へ滑り出した。

美紅が門の前で降りると、スグルはそのまま駐車場へ車をまわしに行った。

朝の校庭には登校してくる生徒の姿がぽつぽつ。
旧水戸城跡の石畳に、風が落ち葉を転がしていく。

しばらくして、スグルが歩いて戻ってきた。

スグル「おまたせ。」

美紅「ん、おかえり。じゃ、行こっか。」

スグル「おう。同じ 2年3組なんだから、遅刻させるわけにもいかねぇしな。」

美紅「なんで保護者みたいな言い方なのよ。」

スグル「朝から面倒増やすな。ほら、行くぞ。」

美紅はふっと笑って並んで歩く。

門の横の通用口を抜けると、広い中庭と瓦屋根の校舎が見えた。
正面の一号館、その奥に二号館。
2年生の教室がある南棟までは少し距離がある。

美紅「……なんか、こうして一緒に歩くの久しぶりだね。」

スグル「お前がいなかっただけだろ。俺はいつも通り学校来てたし。」

美紅「入院してただけだもん……。」

スグル「わかってるよ。」

短い一言だったけど、声に柔らかさがあった。

美紅は少し照れながら歩き続ける。

スグル「ほら、早く行かねぇと、あいつら絶対なんか言ってくるぞ。特に高橋。」

美紅「あー……言いそう。」

スグル「だろ?だから堂々としてろ。」

美紅「……うん。」

そして二人は、2年3組の教室が並ぶ南側の階段へと向かっていく。

昇降口を抜けて教室前の廊下に出ると、まだ人影はない。
ガラガラ……とスグルがドアを開ける。

美紅「……あれ?誰もいない。」

スグル「そりゃそうだろ。俺ら一番乗りだし。」

いつもより静かな教室に、二人の声だけが響く。

そこへ、ふらっと入ってくる影。

石川先生「おはよう。」

スグル「おはようございます。」

美紅「おはようございます!」

続いて、寝癖全開で岩井がズカズカと登場。

岩井「お、スグルー! おはよ! やっと来たじゃん!
元気? ずっと休んでたからさ、マジ心配したんだぞ?」

スグル「平気だよ。もう治った。」

岩井はホッと笑い、石川先生は手を叩く。

石川先生「よし、じゃあ朝一の仕事な。モップ持って隣の多目的室の掃除してこい。」

スグル「えぇー……久しぶりに来たのにパシられるんすか?」

石川先生「パシリじゃねぇ、“仕事”だ。働け。
──美紅、そこの窓全部開けといて。朝は空気入れ替えだ。」

美紅「はーい!」

美紅は軽く返事をして窓の方へ。
スグルは肩を落としながらモップ置き場へ歩いていった。

教室の奥の方で微かに物音がした。
「……ん?」
美紅は窓際で空気を入れ替れていたが、背筋にぞくりとした寒気を感じた。
ふと、教室の隅に誰かの影——いや、何か黒い気配がチラリと見えた気がした。
「……え?」
その瞬間、足音が近づき、影はぴたりと消える。
岩井が寝癖全開で大きく伸びをしながら、
「おう、スグル、ちょっと待ってるぞー!」
石川先生も窓を確認しながら、
「美紅、気をつけろ。何かおかしいな」

襲おうとした存在は、二人の気配に気づいたのか、そこから姿を消した。
美紅は少し肩を震わせるが、岩井と石川先生が隣にいる安心感に、すぐに落ち着きを取り戻した。














終わり

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